コメント
この時代の人は信仰一筋ですね!
(
yukariko
)
2008-01-03 01:21:44
おめでとうございます。
コメントありがとうございました。
こつこつと辿ってこられた素晴らしい記事と写真を今年も楽しませて頂きます。
TOPの厳島神社の回廊は構図が素晴らしくて圧倒的な存在感ですね。
姑と二人、思い出しながら感心して見入りました。
大きな世のうねりに捉えられてあれよあれよと流された人々にとっては縋れるのは仏様だけだったでしょう。
ひたすら尽くし、ひたすら祈り、後世良かれと祈る有王、俊寛娘…。
末法思想の平安末期、知識階級にありながら源平の色分けでもみくちゃになった人には信じられるものは来世のみ、現世には絶望感ばかりではなかったかと思います。
それに引き換え現代の私達は一杯物を持ちながらまだ足りない気がして探している物欲の塊のようですね。
ひたすらで純粋な信仰心など誰が持っているでしょうか?
俊寛にあまり同情しないのも現代人と同種の人間のように思うからでしょうか?
本年もご指導よろしくお願いいたします。
(
sakura
)
2008-01-04 10:28:56
毎回つたない記事にコメントを書き込んで頂けるので楽しみに読ませていただいています。
書き足らなかった所を返事として書かせて頂いたり、
yukarikoさんからの違った観点からのコメントは、
なる程と思うことが多く、とてもありがたく思っています。
法勝寺の執行として思うがままに振るまい、
多数の寺領の管理を任され
数百人の部下を配下にし、信者からの布施は
受け取るばかり、その上ピンハネ、全くの功徳を
積まない人物として平家物語に書かれている俊寛!
「現代人に共通するもの」そうかもしれませんね。
俊寛とは正反対の人物として平家物語に
描かれているのが「有王」です。
有王は主を案じ、大悲山まで通って
妻子の世話をしたり、
娘の手紙を何とかして届けようと鬼ヶ島まで
渡ります。
俊寛を荼びに付し京に戻り、骨を高野山に納め
法師となり回向して歩きます。
「遠野物語」でよく知られている
民族学者・柳田国男は「有王と名のる高野聖たちが
俊寛の物語を語り歩いた。」としています。
このようにしても俊寛の悲劇は人々に広まったようです。
厳島神社の廻廊はお天気に恵まれて、
偶然の一枚です。引き潮だったのが残念!
いつもyukarikoさん始め会員の方々の素晴しい写真を見せていただいて刺激を受けていますが、
写真撮影は難しいです。
お姑さんも厳島神社に行かれ、写真を見て
くださってそうでとても光栄です。
お姑さんはPCもご覧になるのですね。
「パソコンのことなら何でもОKのお嫁さん」を
きっとお姑さんは誇りに思ってられるのでしょう。
「高野聖」が一役買っているのですね!
(
yukariko
)
2008-01-04 12:33:40
「平家物語」は琵琶法師によって語られ人々に広まったと習いましたが、今のような情報伝達の手段がなかった時代に日本各地、文化が届きそうもない所まで語り伝えられたのは高野聖という半ば宗教的な担い手がいたのですね。
高野聖…高野山を本拠とし、平安末期から増え、鎌倉時代以後は諸国を回国して橋や道路を作り、造仏造塔の勧進をしたり弘法大師信仰と高野山への納骨を勧め、また色々な霊験譚を広めた。
各地を旅し、寝泊りの分限者宅で色々な話を庶民に語って聞かせたのが根付いたのでしょうね。
前回の「宝物集」もそのような形で流布して長く愛読されたのでしょうね?
PCは食卓横に置いてあり、しょっちゅう長時間座り込むので、時々は姑にも旅行で撮影した写真や他の方の写真を見てもらったり、出かける先をインターネットで調べて見せます。
一体何故長時間(家事もせずに)PCで遊ぶのかと思われるから…これも姑懐柔作戦!…なのです(笑)
平家物語は「琵琶法師の語り物」とよく耳にする言葉です。
(
sakura
)
2008-01-04 16:59:15
琵琶法師は「平家物語」成立前の平安時代に活動を始め都だけでなく、広い地域で活動していたようです。
やがて「平家物語」に出合い、「平家物語」を中心に語りますが、和歌、連歌、雑芸、歴史等も「保元物語」「平治物語」「太平記」等も語っていたようです。
この他「平家物語」は「琵琶法師の語り物」としてだけでなく、書物としても広く流布していたようです。
また能や浄瑠璃などの古典芸能や絵巻、屏風などによっても広く一般に知られるようになりました。
祇園祭や屋島寺等「平家物語の屏風」は、今でも私達の身近な所で見られます。
「平家物語」の中にいつまでたっても弁慶が登場してこなかったり、出てきても、私達がイメージするような大活躍をしなかったりするのは、
多分古典芸能を通じて知っている弁慶なのです。
「宝物集」は版本が刊行され、一般向け仏教書として、後世まで多数の読者を持ち続けたようです。
清涼寺の三国伝来の釈迦像が爆発的な信仰を集め、唐招提寺、西大寺、西明寺、常楽院、極楽寺、称名寺等多数の寺院に清涼寺の三国伝来の釈迦像の
摸像があります。
ここにお参りする人々によっても「宝物集」は広まったかもしれませんね。
「宝物集」についてはちょっと分かりません。
ごめんなさい!
続きです。
(
sakura
)
2008-01-05 08:16:35
お姑さんはお若い時ほど自由に出歩けないでしょうが、こうしてyukarikoさんのあちこちの旅行記を、
ご覧になれていいですね!
江戸時代には「清涼寺の三国伝来の釈迦像」は、
輿に乗せられて全国を回ったそうです。
これを出開帳と云うそうですが、
このことからも、三国伝来の釈迦像の人気が分かりますね。
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コメントありがとうございました。
こつこつと辿ってこられた素晴らしい記事と写真を今年も楽しませて頂きます。
TOPの厳島神社の回廊は構図が素晴らしくて圧倒的な存在感ですね。
姑と二人、思い出しながら感心して見入りました。
大きな世のうねりに捉えられてあれよあれよと流された人々にとっては縋れるのは仏様だけだったでしょう。
ひたすら尽くし、ひたすら祈り、後世良かれと祈る有王、俊寛娘…。
末法思想の平安末期、知識階級にありながら源平の色分けでもみくちゃになった人には信じられるものは来世のみ、現世には絶望感ばかりではなかったかと思います。
それに引き換え現代の私達は一杯物を持ちながらまだ足りない気がして探している物欲の塊のようですね。
ひたすらで純粋な信仰心など誰が持っているでしょうか?
俊寛にあまり同情しないのも現代人と同種の人間のように思うからでしょうか?
書き足らなかった所を返事として書かせて頂いたり、
yukarikoさんからの違った観点からのコメントは、
なる程と思うことが多く、とてもありがたく思っています。
法勝寺の執行として思うがままに振るまい、
多数の寺領の管理を任され
数百人の部下を配下にし、信者からの布施は
受け取るばかり、その上ピンハネ、全くの功徳を
積まない人物として平家物語に書かれている俊寛!
「現代人に共通するもの」そうかもしれませんね。
俊寛とは正反対の人物として平家物語に
描かれているのが「有王」です。
有王は主を案じ、大悲山まで通って
妻子の世話をしたり、
娘の手紙を何とかして届けようと鬼ヶ島まで
渡ります。
俊寛を荼びに付し京に戻り、骨を高野山に納め
法師となり回向して歩きます。
「遠野物語」でよく知られている
民族学者・柳田国男は「有王と名のる高野聖たちが
俊寛の物語を語り歩いた。」としています。
このようにしても俊寛の悲劇は人々に広まったようです。
厳島神社の廻廊はお天気に恵まれて、
偶然の一枚です。引き潮だったのが残念!
いつもyukarikoさん始め会員の方々の素晴しい写真を見せていただいて刺激を受けていますが、
写真撮影は難しいです。
お姑さんも厳島神社に行かれ、写真を見て
くださってそうでとても光栄です。
お姑さんはPCもご覧になるのですね。
「パソコンのことなら何でもОKのお嫁さん」を
きっとお姑さんは誇りに思ってられるのでしょう。
高野聖…高野山を本拠とし、平安末期から増え、鎌倉時代以後は諸国を回国して橋や道路を作り、造仏造塔の勧進をしたり弘法大師信仰と高野山への納骨を勧め、また色々な霊験譚を広めた。
各地を旅し、寝泊りの分限者宅で色々な話を庶民に語って聞かせたのが根付いたのでしょうね。
前回の「宝物集」もそのような形で流布して長く愛読されたのでしょうね?
PCは食卓横に置いてあり、しょっちゅう長時間座り込むので、時々は姑にも旅行で撮影した写真や他の方の写真を見てもらったり、出かける先をインターネットで調べて見せます。
一体何故長時間(家事もせずに)PCで遊ぶのかと思われるから…これも姑懐柔作戦!…なのです(笑)
やがて「平家物語」に出合い、「平家物語」を中心に語りますが、和歌、連歌、雑芸、歴史等も「保元物語」「平治物語」「太平記」等も語っていたようです。
この他「平家物語」は「琵琶法師の語り物」としてだけでなく、書物としても広く流布していたようです。
また能や浄瑠璃などの古典芸能や絵巻、屏風などによっても広く一般に知られるようになりました。
祇園祭や屋島寺等「平家物語の屏風」は、今でも私達の身近な所で見られます。
「平家物語」の中にいつまでたっても弁慶が登場してこなかったり、出てきても、私達がイメージするような大活躍をしなかったりするのは、
多分古典芸能を通じて知っている弁慶なのです。
「宝物集」は版本が刊行され、一般向け仏教書として、後世まで多数の読者を持ち続けたようです。
清涼寺の三国伝来の釈迦像が爆発的な信仰を集め、唐招提寺、西大寺、西明寺、常楽院、極楽寺、称名寺等多数の寺院に清涼寺の三国伝来の釈迦像の
摸像があります。
ここにお参りする人々によっても「宝物集」は広まったかもしれませんね。
「宝物集」についてはちょっと分かりません。
ごめんなさい!
ご覧になれていいですね!
江戸時代には「清涼寺の三国伝来の釈迦像」は、
輿に乗せられて全国を回ったそうです。
これを出開帳と云うそうですが、
このことからも、三国伝来の釈迦像の人気が分かりますね。