コメント
不思議な思い
(
ひろ庵
)
2016-02-20 11:40:31
屋島寺から洲崎寺へ向かう途中で余り目立たない菊王丸の墓や安徳天皇社をよりましたが安徳天皇社があることに不思議な感じがしました。壇ノ浦にある赤間神宮に安徳天皇が祀られていますし御陵もあるのにどうしてかなと思いました。
ここは仮住いだったところなのですね。納得しました。
菊王丸の墓はひっそりしていて目立ちませんね。
(
sakura
)
2016-02-20 15:09:04
うっかりすると見過ごしてしまいます。
私は洲崎寺から佐藤継信の墓まで上りましたが、
安徳天皇社から継信の墓までは距離にするとたいしたことないのですが、
墓はかなり高い所にありました。
ひろ庵さまは屋島寺から佐藤継信の墓、安徳天皇社、
菊王丸の墓、洲崎寺とお書きになっていますから、
もっと上の方の急坂から下ってこられたのですね。
坊門姫が
(
自閑
)
2016-02-24 08:04:47
sakura様
私の同僚も今、新平家物語の屋島を読んでいるとのことで、神戸市在住なので平家ファンとのことでした。
神戸市の腕塚などの戦場遺跡などを話したところ、前は何度も通ったのに知らなかったと言っておりました。私は貴ブログを便りに歩いたらだけですが。
後藤実基が坊門姫を育てた。頼朝唯一の血縁がその後の摂関家、鎌倉幕府、その他の貴族の運命まで変えてしまう。不思議な縁ですね。
頼朝の妹
(
sakura
)
2016-02-24 15:15:14
坊門姫は何という事のない平凡な女性だったようですが、
彼女の子孫たちが後に重要な役割を演じていますね。
鎌倉幕府成立後、頼朝が京都でもっとも頼りにしたのが、
同母妹の婿の一条能保です。
頼朝は坊門姫を7歳になった後鳥羽天皇の乳母にしようと画策しますが失敗し、姫の娘のひとりが未婚の身で
乳母となって参内しています。
坊門姫の娘たちは鎌倉時代の政治史に重要な役割を担った
九条、西園寺両家にそれぞれ嫁いでいます。そして九条道家を生み、
西園寺家に嫁いだ娘の全子が倫子をもうけ、九条道家と倫子は結婚します。
二人の間に生まれたのが坊門姫の曾孫にあたる九条頼経です。
実朝が暗殺されると、九条頼経は鎌倉に迎えられ将軍となりました。
自閑さまは新古今和歌集をご研究なされっているので、
この辺のことは、よくご存知だと思います。
吉川英治の歴史小説「新平家物語」は、根強い人気がありますね。
この本から「古典平家」のファンになる方もいらっしゃるようです。
軍略の天才と義経の事を新聞に書いていましたが…
(
Yukariko
)
2016-02-27 23:47:05
思いがけないところから攻めてくる義経の相手をせざるを得なかった宗盛の悔しさはいかばかりかと。
折角築き上げた拠点、安在所も放棄して海に逃れて
火を放たれて陣営が灰塵に帰するのを見ている辛さ。
勢いの差はいかんともしがたい流れなのでしょうね。
義経は軍事の天才とよくいわれます。
(
sakura
)
2016-02-28 08:41:28
少数の精鋭を率いて敵を奇襲する方法で一ノ谷合戦に大勝し、
屋島でもわずかな兵力で、暴風雨をついて船を出し陸伝いに屋島へ、
背後から奇襲をかけ平家を海上においやることができました。
しかし、屋島合戦でいえば、逆櫓の章段で見たように源氏の水軍は
いぜん大したことなく、義経としては陸を行くより
仕方なかったという見方もあります。
早くから近藤親家と連絡をとっていた義経は、屋島が手薄と知り
この隙をついて一刻も早く攻め寄せたかったのでしょう。
ここでも大松明。
(
ネズミ色の猫
)
2016-11-02 04:15:21
大変お久しぶりです。過去に三草山ツアーのエントリーを拝見した者です。
ガラケーの小さな画面では確認しづらいですが絵巻写真右下、対岸の高松集落を火の海に変え、屋島へと至る浅瀬に踏み入れていく義経軍。本文も「『さらばやがて寄せよや』とて、高松の在家に火を懸(かけ)て、屋島の陣(ぢん)へ寄せ給ふ」と狼煙代わりに焼き立てるくだりを綴りますね。
「このまま一気に攻め続けよ!いざ――!」と進撃を命じる総大将義経の大音声、地響きのように迫る軍勢の足音。次々襲い来る騎馬武者と紅蓮の炎に逃げ道を阻まれる村人たちの阿鼻叫喚。そのすべてがいまにも聞こえてきそうです。
似通った戦術で二度も不意を突かれた平家軍にとって、これは決して「対岸の火事」などではなかったことでしょう。以上長文失礼致しました。
ズミ色の猫さまご訪問ありがとうございます。
(
sakura
)
2016-11-02 11:39:43
義経の作戦は、機動力を駆使した奇襲戦、進むことを知っていても
退くことを知らない迅速果敢な行動。義経人気の秘密はこの辺にもあるようです。
一の谷では、鉄拐山の急坂を駆け下り、三草山合戦では、
京都から丹波を駆け抜け三草高原へ。
深夜になると、ときには松明代わりに民家に火をつけて進軍。
福島・渡辺津に船を集めて嵐の中船出し、追い風に乗って、通常の数倍の速度で阿波に到着し、
そこから陸地を辿って背後から屋島に奇襲をかけます。平家側はまさに寝耳に水。
当時、合戦は正々堂々と行われるものというのが常識でしたが、
義経はそれを見事に覆して勝ち続けます。
義経という軍事の天才が居なければ、本格的な武家政権の始まり
鎌倉幕府が成立するのは、もっと遅れていたでしょうね。
申し訳ありません。
(
sakura
)
2016-11-02 13:32:53
「ネズミ色の猫さま」と書いたつもりが、どうしたことか、
「ネ」が抜けています。失礼しました。
申し訳ありません。
(
ネズミ色の猫
)
2016-11-02 18:31:25
早速のリプライありがとうございました。お返事を一筆したつもりなのですが文字化けが起きてしまいました。
僕も勘違いしていて、三草山ツアーのレポートも実は別のgooユーザーさんが執筆していらした記事でした。
*「大松明」の呼び名は百二十句本などで三草山夜討の場面に登場しています。
そうでしたか!
(
sakura
)
2016-11-03 08:36:48
先月、三草山へ行き、三草山に上り山麓にある三草合戦の史跡を撮影してきました。
百二十句本は、テキストに使用している二冊の「平家物語」のうちの
新潮日本古典集成がそうです。
三草山の史跡の記事を投稿するとき、改めて読みます。
以前、義経が三草山へと京都を出発した七条口の他、
進軍路にあたる亀岡の義経や那須与一の史跡を投稿したので、
それを見てくださったのかな?とも思っていました。
文字化けしたコメントは削除させていただきました。
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ここは仮住いだったところなのですね。納得しました。
私は洲崎寺から佐藤継信の墓まで上りましたが、
安徳天皇社から継信の墓までは距離にするとたいしたことないのですが、
墓はかなり高い所にありました。
ひろ庵さまは屋島寺から佐藤継信の墓、安徳天皇社、
菊王丸の墓、洲崎寺とお書きになっていますから、
もっと上の方の急坂から下ってこられたのですね。
私の同僚も今、新平家物語の屋島を読んでいるとのことで、神戸市在住なので平家ファンとのことでした。
神戸市の腕塚などの戦場遺跡などを話したところ、前は何度も通ったのに知らなかったと言っておりました。私は貴ブログを便りに歩いたらだけですが。
後藤実基が坊門姫を育てた。頼朝唯一の血縁がその後の摂関家、鎌倉幕府、その他の貴族の運命まで変えてしまう。不思議な縁ですね。
彼女の子孫たちが後に重要な役割を演じていますね。
鎌倉幕府成立後、頼朝が京都でもっとも頼りにしたのが、
同母妹の婿の一条能保です。
頼朝は坊門姫を7歳になった後鳥羽天皇の乳母にしようと画策しますが失敗し、姫の娘のひとりが未婚の身で
乳母となって参内しています。
坊門姫の娘たちは鎌倉時代の政治史に重要な役割を担った
九条、西園寺両家にそれぞれ嫁いでいます。そして九条道家を生み、
西園寺家に嫁いだ娘の全子が倫子をもうけ、九条道家と倫子は結婚します。
二人の間に生まれたのが坊門姫の曾孫にあたる九条頼経です。
実朝が暗殺されると、九条頼経は鎌倉に迎えられ将軍となりました。
自閑さまは新古今和歌集をご研究なされっているので、
この辺のことは、よくご存知だと思います。
吉川英治の歴史小説「新平家物語」は、根強い人気がありますね。
この本から「古典平家」のファンになる方もいらっしゃるようです。
折角築き上げた拠点、安在所も放棄して海に逃れて
火を放たれて陣営が灰塵に帰するのを見ている辛さ。
勢いの差はいかんともしがたい流れなのでしょうね。
屋島でもわずかな兵力で、暴風雨をついて船を出し陸伝いに屋島へ、
背後から奇襲をかけ平家を海上においやることができました。
しかし、屋島合戦でいえば、逆櫓の章段で見たように源氏の水軍は
いぜん大したことなく、義経としては陸を行くより
仕方なかったという見方もあります。
早くから近藤親家と連絡をとっていた義経は、屋島が手薄と知り
この隙をついて一刻も早く攻め寄せたかったのでしょう。
ガラケーの小さな画面では確認しづらいですが絵巻写真右下、対岸の高松集落を火の海に変え、屋島へと至る浅瀬に踏み入れていく義経軍。本文も「『さらばやがて寄せよや』とて、高松の在家に火を懸(かけ)て、屋島の陣(ぢん)へ寄せ給ふ」と狼煙代わりに焼き立てるくだりを綴りますね。
「このまま一気に攻め続けよ!いざ――!」と進撃を命じる総大将義経の大音声、地響きのように迫る軍勢の足音。次々襲い来る騎馬武者と紅蓮の炎に逃げ道を阻まれる村人たちの阿鼻叫喚。そのすべてがいまにも聞こえてきそうです。
似通った戦術で二度も不意を突かれた平家軍にとって、これは決して「対岸の火事」などではなかったことでしょう。以上長文失礼致しました。
退くことを知らない迅速果敢な行動。義経人気の秘密はこの辺にもあるようです。
一の谷では、鉄拐山の急坂を駆け下り、三草山合戦では、
京都から丹波を駆け抜け三草高原へ。
深夜になると、ときには松明代わりに民家に火をつけて進軍。
福島・渡辺津に船を集めて嵐の中船出し、追い風に乗って、通常の数倍の速度で阿波に到着し、
そこから陸地を辿って背後から屋島に奇襲をかけます。平家側はまさに寝耳に水。
当時、合戦は正々堂々と行われるものというのが常識でしたが、
義経はそれを見事に覆して勝ち続けます。
義経という軍事の天才が居なければ、本格的な武家政権の始まり
鎌倉幕府が成立するのは、もっと遅れていたでしょうね。
「ネ」が抜けています。失礼しました。
僕も勘違いしていて、三草山ツアーのレポートも実は別のgooユーザーさんが執筆していらした記事でした。
*「大松明」の呼び名は百二十句本などで三草山夜討の場面に登場しています。
百二十句本は、テキストに使用している二冊の「平家物語」のうちの
新潮日本古典集成がそうです。
三草山の史跡の記事を投稿するとき、改めて読みます。
以前、義経が三草山へと京都を出発した七条口の他、
進軍路にあたる亀岡の義経や那須与一の史跡を投稿したので、
それを見てくださったのかな?とも思っていました。
文字化けしたコメントは削除させていただきました。