コメント
 
 
 
末代までの誉れ (自閑)
2016-03-02 20:46:28
sakura様
佐藤継信が、前に進み出て主君を守った事から、やがて義経が平家を滅ぼす事となったと言う事ですね。
「弓矢取身の習也。敵の矢に中て主君の命に替は、兼て存る処なれば更に恨に非ず」
この忠臣兄弟に、松尾芭蕉は500年後に飯坂を尋ねて、二人の嫁の墓に涙し、800年後に子孫が屋島に碑を立てた。地元の人もその忠義を今も讃えている。
末代までの誉れを得たり!と言う事でしょう。

拙付け句(俳句575の後に付ける77です。)
今は仲良く風に揺れなむ
 
 
 
付け句ありがとうございました。 (sakura)
2016-03-03 09:16:44
秀衡が餞別に贈った薄墨と継信が仲良く眠っているよ。ということでしょうか。

♪笈も太刀も五月にかざれ紙幟
奥の細道の旅で芭蕉が飯坂の温泉宿に一泊したのは、
江戸を発ってちょうど一ヶ月目の五月はじめのことです。
「月の輪のわたしを越えて、瀬の上と云宿に出づ。
佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半ばかりにあり。
飯塚の里鯖野と聞きて尋ね尋ね行くに、丸山と云に
尋あたる。是庄司が旧館なり。」の下りですね。

医王寺にある二人の嫁の墓標は悲しいです。
二人の嫁が老母を悲しませまいと、夫の甲冑を着て、
凱旋したかのようにけな気に振る舞ったという話が伝わっていますね。
 
 
 
右腕とも頼む継信を失ったのは義経にとっても衝撃だったでしょう。 (yukariko)
2016-03-05 23:47:19
子飼いの家来の少ない義経にすれば藤原秀衡にはなむけとして愛馬「薄墨」と佐藤継信・忠信兄弟を付けてもらった、彼にすれば大事な股肱の臣だったでしょう。
若くして智略兵法に通じ、豪勇・一騎当千の武者であればその彼を思いがけなく失って衝撃はさぞ大きかった事でしょう。
継信30世の子孫が750年後に射落畠碑を建立された…を読んでお話だけでなく実際に血筋が連綿と続いているのに感動しました。
 
 
 
先祖に対する誇りと深い尊敬の念! (sakura)
2016-03-07 09:30:47
嗣信の家系が代々続いてきたことはすばらしいことですね。
佐藤信古氏は沼地を整地して射落畠の碑を建てると共に
継信の墓所も大改修しておられます。
昭和の始めといいますから、現在のように高度に交通が発達していない頃です。
はるばる山形から四国まで何度も足を運ばれたのでしょう。

義経は継信を丁寧に供養して葬むり、郎党らを感激させています。

 
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