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富士山信仰でも富士講や御師の存在がありますね。 (yukariko)
2015-01-28 21:46:04
富士講やその御師の活動、現在も残る宿坊建物の管理その他についての詳しいTV番組が富士の世界遺産登録後に幾つもありました。
こちらは室町以後、特に江戸時代に盛んになったような報道でしたが、その原型はこの熊野三山の御師や山伏・先達なのでしょうね。
でも明治の神仏分離令は日本各地の宗教集団にとって大打撃だったのがよく分かります。
 
 
 
名所図会が観光ブームを煽りました。 (sakura)
2015-01-30 09:42:20
布教のための御師の活動は富士、熊野だけでなく、伊勢、高野、出雲などでも活発でした。
富士山をご神体として崇める社は浅間を社号につけることが多く、
そのほとんどが「せんげん」と読みます。近世に入って
富士信仰が庶民の間に広まると富士講を結成し組織的な信仰登山が盛んになり、
浅間と名のつく社殿が各地に数多く建立されました。
富士山麓の富士吉田市にある北口本宮富士浅間神社の始まりは、
富士山を遥拝したのが始まりといわれ、その後、富士講を中心として現在の社殿が建立され、
その社前には御師の舘が百坊以上軒を並べていたといいます。
富士山南麓にも多くの浅間神社があり、富士川の合戦の取材の際、
その一つ富士市原田にある飯森浅間神社.に参拝しました。
伊勢でも庶民の間に旅行ブームが起きると、伊勢神宮へ参拝する伊勢講が流行りました。
その火付け役となったのが江戸時代に刊行された「江戸名所図会」
「伊勢参宮名所図会」「都名勝図会」などの旅の案内書です。
「江戸名所図会」には浅間神社に富士山を模して作られた富士塚に登り、
富士詣をする様子が描かれています。

さて「その原型は熊野三山の御師や山伏・先達なのでしょうね。」ですが、
熊野の場合は室町・江戸時代の富士講よりその活動は早く、
平安時代の白河上皇第一回目の時に増誉が先達となっています。
増誉は天台宗の僧で大峰山・葛城山で山岳修行を行い、京都の聖護院を建立しています。

 
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