コメント
人は変われるものなのですね。
(
yukariko
)
2018-08-25 16:45:50
保司として役人の職務も果たし、玉林寺と補陀落寺を建立して後援をし、歌人としての付き合いもしながら20年ほどを送り、後を息子に譲って隠棲したというのを読んで、宮廷で院の近臣として暮らした時代と、罪に落ちて流罪、許されて出家し、僧として隠棲した前半生と後半生が見事なほど違うのは、人間とはかくも変われるのだなあと思わされるお話ですね。
でも尾張の目代の頃、頼朝の墓とお堂を立て、寄進して後世を弔ったのは若い時でしょうから、元々気配りもあったのでしょうね。
ドラマチックな人生でしたね
(
sakura
)
2018-08-26 17:13:37
後白河院は「梁塵秘抄口伝集」の中で、康頼の今様を絶賛していますから、
その才が院近臣として下級官人に過ぎなかった康頼の身を立てたようです。
尾張に赴任し義朝の墓を整備したのは、康頼の若いころのことでしたが、
六人の僧をおいて丁寧に義朝の霊を供養させています。
源氏が滅び平家全盛の時代、このような気配りは中々できることではありませんね。
康頼にとって寺領寄進は経済的に大きな負担だったと思われることから、
「康頼はもともとそうした寄付を行う要素をもっていた」と
山田昭全氏は「平家物語の人びと」の中で述べておられます。
また才能豊かな人だったようで、「千載集」に4首、「玉葉和歌集」
「新続古今和歌集」に各1首が入集するような風流人である一方、
「愚管抄」には猿楽狂い「平家物語」には物真似の名手としての康頼が描かれています。
康頼が流された鬼界ヶ島は、滅多に船も通わない島で、
土着する僅かな住民は着物もまとわず、話しかけても言葉も通じません。
島の中心には、硫黄岳(704㍍)があり硫黄を噴出し、
都の生活に慣れた者にとって異次元の絶海の孤島だったと思われます。
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でも尾張の目代の頃、頼朝の墓とお堂を立て、寄進して後世を弔ったのは若い時でしょうから、元々気配りもあったのでしょうね。
その才が院近臣として下級官人に過ぎなかった康頼の身を立てたようです。
尾張に赴任し義朝の墓を整備したのは、康頼の若いころのことでしたが、
六人の僧をおいて丁寧に義朝の霊を供養させています。
源氏が滅び平家全盛の時代、このような気配りは中々できることではありませんね。
康頼にとって寺領寄進は経済的に大きな負担だったと思われることから、
「康頼はもともとそうした寄付を行う要素をもっていた」と
山田昭全氏は「平家物語の人びと」の中で述べておられます。
また才能豊かな人だったようで、「千載集」に4首、「玉葉和歌集」
「新続古今和歌集」に各1首が入集するような風流人である一方、
「愚管抄」には猿楽狂い「平家物語」には物真似の名手としての康頼が描かれています。
康頼が流された鬼界ヶ島は、滅多に船も通わない島で、
土着する僅かな住民は着物もまとわず、話しかけても言葉も通じません。
島の中心には、硫黄岳(704㍍)があり硫黄を噴出し、
都の生活に慣れた者にとって異次元の絶海の孤島だったと思われます。