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あっぱれ末代の大将かな! (yukariko)
2009-09-27 22:18:12
2007.7月に烏丸半島の蓮を見た後、守山大日堂の妙連池に咲く不思議な妙連蓮を見に地図を頼りに守山の町を走りました。
その場所よりもずっと内陸側、今の守山駅に近い場所を旧中山道が走っているのですね!

せっかく京を抜けて途中越~還来神社から湖岸へ、堅田の浦に出ても、向こう岸に渡る船がなければ浜伝いに坂本、瀬田へと大戻りして、発見される危険を冒しても表街道をゆくしかないのですね。

義朝には武運に見放されたという思いが強かったことでしょう。
それにしても頼朝が守山の宿に迷い込みながらもうまく切り抜け、野洲川の河原で鎌田に出会い、鏡宿で一行に再会できたのは運が強いというべきですね。

この後の頼朝の人生を考えたら、蛭ヶ小島に流されてもそこで北条政子に出会うなど、のち源氏の棟梁になってゆく強く大きな運を背負っていたのでしょうね。

義朝の言葉はそれを暗示していたのでしょうか?
『十四五にもならむ時は和殿にはよも劣らじ物を。あっぱれ末代の大将かな。』
 
 
 
そうでしたね! (sakura)
2009-09-28 17:15:06
さまざまな種類の蓮の花、中にはとても珍しい蓮の花もあり、
お上手に撮影された蓮を、うっとりしながら見せていただきました。

中山道(古代の東山道にほぼ重なる)の草津の宿も守山の宿も
現在のJRの駅にわりと近いところにありますが、
琵琶湖畔の半島・草津の烏丸半島からはずっと内陸側になりますね。

以前同好会のmiyoさんとバスツァーでこの烏丸半島の蓮を見て、
関ヶ原からドライブウェイを走り伊吹山に上りました。
このあと物語りは義朝らが、彦根から東山道を避けて伊吹山麓を辿りますが、今思うと
伊吹山ドライブウェイの上り口に交差する東西の道が、
一行が通過した北国脇往還(北国街道と東山道を結ぶ)と呼ばれる道だったのでしょう。
この道は関ヶ原の戦いでは西軍の敗走路にもなった道ですし、頼朝が再び落伍した所です。

頼朝は、ここで一行にはぐれなかったら、父とともに尾張で殺されていたでしょうし、
頼盛(池の禅尼の子)の目代として、尾張国に下向途中の宗清に捕らえられたのも、
政子と会えたのも、源氏の本拠地東国に流されたのも
全てラッキーでしたね。

 
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