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悪源太義平はもののふ(侍)としては素晴らしかったのでしょうが… (yukariko)
2009-08-29 22:36:07
武将としては義朝、義平は優れていたのでしょうが、海千山千の宮廷政界を上手に渡り歩くすべは知らなかったし、その言動は縁が遠いとはいえ同族の頼政にさえ立場と利害を超えて加勢して貰えない程度の危うさだったのでしょうね。
なまじ遠い祖先が同じなだけに、頼政にしたら義朝達の言動は『見ちゃおれない山猿』だったのではないでしょうか?
武勇でいえば、京で生まれ育った武士は渡辺党と言っても他より強い程度だったでしょうから。

信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち、一躍武将として名を上げますが、悪源太は忠臣二人に阻まれて重盛を打ち漏らしますね。
でも重盛は寄せ手の旗頭というだけで、大将の清盛でもないし、本軍は六波羅に新手が控えているし、六波羅軍が正当な官軍となれば、戦いの趨勢はおのずと明らかですね。
悪源太も六波羅門まで深追いせずに、兵をまとめて早めに京を落ちたら、その後の展開が少しは変わっていたでしょうか?

義朝の姫の言葉はいつの戦でも残される身となる高貴な女性が口にされた言葉ですね。

『あはれ身分の高きも卑しきも
女の身ほど口惜しいものはない。残し置かれる身が悲しい。兵衛佐殿は男なれば父君のお供をして落ち延びられるのが羨ましい。』
 
 
 
坂東武者 (sakura)
2009-08-30 19:05:19
平治の乱で義朝の郎党として活躍した斉藤実盛は、
乱後、平宗盛に仕えます。
その斉藤実盛が富士川合戦に先立って、
大将軍平維盛に進言した有名な一節があります。
「馬に乗っては落ちることを知らず、道の悪い所を駆けても
馬を倒さず、親が討たれようが、子が討たれようが戦場へと参ります。
西国の武士は、親が討たれたら供養し、
子が討たれたら悲しいと云って戦わない。云々」
この言葉に驚いた維盛は、恐怖心をかりたてられ
夜半の水鳥の羽音に逃げてしまい戦わずして逃げ落ちます。

悪源太も六波羅門まで深追いせずに、兵をまとめて早めに京を落ちたら、
その後の展開が少しは変わっていたでしょうか?

義朝も清盛との全面対決を予想してなかったことや、
自身の所領以外に関心を持たない東国武士が簡単に上洛しなかったため、
東国には、義朝の郎党の大多数が残っていたといいますから

義朝は、一時身を隠し時期を見て兵を挙げることもできたかも知れませんね。

 
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