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地図で見ると広い場所ですが… (yukariko)
2009-05-03 18:34:16
敵味方それぞれに旗印とする御方の御殿に集結して気勢を上げる。
詳しい地図をUPして下さるのでよく分かりますが、町中で鴨川の東・白川北殿はまだしも洛外でしょうが、東三条殿は御所も近くこの間で戦闘が行われたら庶民はどこに逃げるのでしょうね。

まあ、貴族や官吏以外は現代のような住居は持たず絵巻物や物語縁起で見るように、掘っ立て小屋に毛の生えたような店舗や住宅だったでしょうから、身一つで逃げ惑ったのかな?
そうでなくてもしょっちゅう火事もあっただろうし…。
今のように政府からの炊き出しがある訳でもないだろうし…(笑)
どちらかの勝者の陣地からのおこぼれをもらって生き延びるのかな?庶民はいつの時代も辛いですね。
 
 
 
庶民は強い! (sakura)
2009-05-04 17:47:41
平安時代初には内裏、官庁等が大火事に見舞われていますが、
この頃には庶民の住宅は密集していなかったので大火になることは少なかったようです。
10万人を越える都市として発展する頃には
庶民の家々の大火が多くなってきます。
鹿ケ谷事件のあった1177年、大火にあった京の街の
ほとんどが焼け尽くされ内裏も燃えた。と平家物語にも書かれています。
火災は財産も焼き尽くしてしまうので貴族達は
大きな被害を被ったでしょうが、
一般市民は財産など何も持っていませんし、
この火事にも「太郎焼亡」とニックネームを
つけたりして素早く立ち直りしたたかに生きていったようです。

それよりも衛生状態の悪い所に住む市民には疫病の方が恐ろしかったのかも知れません。
その伝染病を防ごうとして先日yukarikoさんに見せて頂いた
「やすらい祭」「祇園祭」や「四角四境祭」等がありますね。
やすらい祭は最も盛んであったのが1154年とありますから、
時代は保元の乱の2年前です。
その他源平の内乱が起こり義仲、義経、頼朝が絡み合っていた
1181年に大飢饉がおこり死者が5万人を
越えたのではと云われています。

保元の乱の戦いはもちろん一般庶民にも被害は及んだでしょうが、
千騎と800騎の戦いだったのと時間も短かったので
それを物ともせず庶民は立ち直ったのでしょう。
 
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