コメント
いよいよ本筋に入ってきましたね。
(
yukariko
)
2010-01-31 18:29:32
頼朝は持って生まれた運が強かったのですね。
出会う人、出会う人に助けられて、池禅尼には息子の代わりとまで思われて助命嘆願をしてもらうのだから、姿形以外に見るからに助けてあげたいと思わせる何かを持っていたのでしょうね。
京に送られ源氏の後継ぎとして当然処刑される筈が禅尼や重盛など平氏の中でも人情厚い人々の助言で遠流で済んでしまう。
それも源氏が多くいる東国に近い伊豆へ流されたのも運の強さでしょうか?乳母の一族も援助を20年続けるのですから情に厚いですね。
平氏の本拠の西国に流されたら監視も厳しく、北条政子との婚姻もなく、援助を受けての旗揚げなどは全く無理だった事でしょう。
人生はどう転ぶか分からないものですね。
昨年暮れに蹴上の東山サナトリウムに母を見舞いました。その帰りタクシーで三条通りを西へ、知恩院前を四条花見小路まで帰り食事をしたのですが、粟田口前を通りながら「粟田神社に参りたいのにまだ行けてない」と弟にぼやきました。
弟の還暦祝いでもあったので途中下車は出来なかったのです。
「粟田口」の石碑があそこにあるのは理由があったのですね。
暖かくなったら古道の方を通って参ってこようと思います。
いつもあとを辿って下さってありがとうございます
(
sakura
)
2010-02-01 16:04:32
京都はご実家のある地、粟田口は東山サナトリウムにも比較的近い場所にあるので
機会があればたずねてみてください。古道は現在のルートからはずれている場合が
多々あるようです。大垣市歴史民族資料館の館長さんからも
「青墓宿を通過していた東山道は美濃国分寺跡南側から
元円願寺跡そして大炊長者屋敷推定地と中山道とは少しそれた所にあった。」
と伺いました。粟田小学校が統合されて校名も変わったようですから
私ももう一度あの辺りを歩いてみたいと思っています。
頼朝は本当に運がいい人ですね。その頼朝の流人時代に援助をしたのは乳母関係の人々でしたが、
当時乳母・乳母夫は養育した子が権力の座につくと大きな権勢を振るい、
反対に逆境に立っても最期まで苦難を共にするのが普通でした。
京都の三善康信は叔母が頼朝の乳母だったことから同情し、
毎月三度かかさずに都の情勢を知らせる便りを送り続け頼朝の挙兵を助けます。
頼朝は挙兵に成功すると比企尼の恩に報いるため、
比企尼の養子となった能員(尼には男子がいなかった)を長男頼家の乳母夫とし、
頼朝の側近に取り立てます。三善康信も鎌倉に下向し
問注所の初代執事に任命され代々子孫がその職を世襲しています。
乳母といえば池禅尼も崇徳院の嫡子重仁親王の乳母、その夫忠盛は乳母夫をつとめますが…
忠盛が亡くなり、鳥羽上皇が没するとまもなく勃発した保元の乱では
当然崇徳院側につくべき頼盛に池禅尼は後白河方につくよう指示します。
これが頼朝の助命嘆願の一因となったといわれています。
次回系図を見ながら頼朝の助命の背景にある複雑な事情を説明させてください。
頼朝の監視役の北条氏は平氏の一流でしたし、
東国には当時平家に盾つく者など誰もいませんでした。
しかし源氏の本拠地、いざとなればどうなるかという判断がこの時の清盛にはできなかったようです。
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出会う人、出会う人に助けられて、池禅尼には息子の代わりとまで思われて助命嘆願をしてもらうのだから、姿形以外に見るからに助けてあげたいと思わせる何かを持っていたのでしょうね。
京に送られ源氏の後継ぎとして当然処刑される筈が禅尼や重盛など平氏の中でも人情厚い人々の助言で遠流で済んでしまう。
それも源氏が多くいる東国に近い伊豆へ流されたのも運の強さでしょうか?乳母の一族も援助を20年続けるのですから情に厚いですね。
平氏の本拠の西国に流されたら監視も厳しく、北条政子との婚姻もなく、援助を受けての旗揚げなどは全く無理だった事でしょう。
人生はどう転ぶか分からないものですね。
昨年暮れに蹴上の東山サナトリウムに母を見舞いました。その帰りタクシーで三条通りを西へ、知恩院前を四条花見小路まで帰り食事をしたのですが、粟田口前を通りながら「粟田神社に参りたいのにまだ行けてない」と弟にぼやきました。
弟の還暦祝いでもあったので途中下車は出来なかったのです。
「粟田口」の石碑があそこにあるのは理由があったのですね。
暖かくなったら古道の方を通って参ってこようと思います。
機会があればたずねてみてください。古道は現在のルートからはずれている場合が
多々あるようです。大垣市歴史民族資料館の館長さんからも
「青墓宿を通過していた東山道は美濃国分寺跡南側から
元円願寺跡そして大炊長者屋敷推定地と中山道とは少しそれた所にあった。」
と伺いました。粟田小学校が統合されて校名も変わったようですから
私ももう一度あの辺りを歩いてみたいと思っています。
頼朝は本当に運がいい人ですね。その頼朝の流人時代に援助をしたのは乳母関係の人々でしたが、
当時乳母・乳母夫は養育した子が権力の座につくと大きな権勢を振るい、
反対に逆境に立っても最期まで苦難を共にするのが普通でした。
京都の三善康信は叔母が頼朝の乳母だったことから同情し、
毎月三度かかさずに都の情勢を知らせる便りを送り続け頼朝の挙兵を助けます。
頼朝は挙兵に成功すると比企尼の恩に報いるため、
比企尼の養子となった能員(尼には男子がいなかった)を長男頼家の乳母夫とし、
頼朝の側近に取り立てます。三善康信も鎌倉に下向し
問注所の初代執事に任命され代々子孫がその職を世襲しています。
乳母といえば池禅尼も崇徳院の嫡子重仁親王の乳母、その夫忠盛は乳母夫をつとめますが…
忠盛が亡くなり、鳥羽上皇が没するとまもなく勃発した保元の乱では
当然崇徳院側につくべき頼盛に池禅尼は後白河方につくよう指示します。
これが頼朝の助命嘆願の一因となったといわれています。
次回系図を見ながら頼朝の助命の背景にある複雑な事情を説明させてください。
頼朝の監視役の北条氏は平氏の一流でしたし、
東国には当時平家に盾つく者など誰もいませんでした。
しかし源氏の本拠地、いざとなればどうなるかという判断がこの時の清盛にはできなかったようです。