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鬼ヶ島とは (自閑)
2016-03-13 10:24:59
sakura様
流石石材の町ですね。石板の説明書きが、当時の様子がよくわかりますし、末代までも残ります。
周りの石材屋さんから沢山の寄進があったのかも?
石絵に「鬼ヶ島」とあり、桃太郎の岡山の伝説が、香川にも伝わった?かと。(笑)
 
 
 
お察しの通り... (sakura)
2016-03-13 15:42:26
屋島でgetした観光案内のパンフレットにも、
岡山の伝説が香川に伝わったと書いてあります。
鬼ヶ島には、鬼が住んでいたとされ、観光スポットになっています。

説明板は美しい光沢をもった気品のある石造りです。
五剣山山麓から庵治(あじ)石という黒雲母花崗岩が産出され、
特に粒子の細かい細目(こまめ)石は、とても高価だそうです。

 
 
 
Unknown (yukariko)
2016-03-15 21:41:15
百年近く後の開帳の際に因幡鳥取藩の由井蔵主が継信の遺骸を運んだ古い扉を送ってきた…遺品とかでなく、扉なのに100年近くも大切に、言い伝えと共に保存されていたのが凄いですね。

「むれ源平石あかりロード・源平の古戦場」の分かりやすい地図や「合戦のあらまし」は丁寧で親切であまり詳しくない者にもよく分かります。

箇条書きにされているので理解しやすいです。
それにしても④の「使者を捕える」は義経の運の強さを表わしていますね。
この使者が無事に平家方に到着していたら…『たら・れば』は言ってもせんない話ですがまた戦の形が変わったかもと説明文を読む者は思ってしまいますね。3433

 
 
 
そうですね! (sakura)
2016-03-17 09:34:34
④の「使者を捕える」は義経の運の強さを表わしています
②平家方の桜ノ間城を攻め落とす。も同じです。

義経軍は阿波から屋島に行軍する途中に田口成良の弟
良遠の桜ノ間城を攻めました。良遠は城を捨てて雲隠れしてしまいましたが、
この時、良遠が屋島に「義経が阿波まで進軍してきている。」と知らせたなら…

洲崎寺は乾元3年(1302)焼け残った本尊と不動明王を和歌山市に移して再興し、
蘆辺寺と称したと「新選讃岐国風土記」「紀伊続風土記」に記されています。

どういう経緯で因幡鳥取藩の由井蔵主のもとに遺骸を
運んだ扉があったのかは分りませんが、
屋島合戦から600年余りもこの扉が保存されていたということになります。

屋島の合戦では、後世にまで語り継がれる数々のエピソードが生まれました。
須崎寺を参拝した人に分かりやすいように、
エピソードごとにその模様を刻み説明文が添えられています。
 
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