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義経ドリームロードとはすごい名前ですね。 (Yukariko)
2016-01-13 20:29:56
義経が屋島に進軍し打ち破ったとしか知りません。
屋島にあった内裏や平家に従った武士達を攻め、
また海に追いやったとだけ思っていましたが、
実際はそこで色々な戦があったのでしょうね。
これから義経一行の詳しい足取りを読ませて
いただけると思うとワクワクU+1F603U+1F495します。
 
 
 
あまり知られていませんが… (sakura)
2016-01-14 07:32:51
義経は小松島市にたくさんの足跡を残しています。
市では義経が駆け抜けた道、史実と伝説が交錯する歴史街道を
義経ドリームロードと名づけ、地元を歩いた歴史の英雄を語り継いでいます。
 
 
 
2月17日について (自閑)
2016-01-17 14:30:17
元暦2年(1185)2月17日の事をずっと考えております。
ユリウス暦3月21日ですので、春嵐の代表格の春一番には少し遅く、風向きが逆になります。
やはり、花冷えの寒気団の南下と寒冷前線の通過時に渡辺津から出港したのかも。
月齢が17月ですから、明石海峡を潮の流れに沿って行くためには、自ずと出港時間が限られて来ます。
瀬戸内海は、潮の流れが複雑ですから、汐待に時間が掛かるが、義経は一気に潮に乗ったから直ぐ着いたのでは?と素人ながら思う次第です。
今度、海上保安庁のHPでも調べてみます。800年前と潮の流れは同じですから。
 
 
 
渡辺津から阿波へ (sakura)
2016-01-18 17:13:27
幸運な潮流にのって一気に阿波に着いたという
自閑さまのご意見ありがとうございます。

「平家物語」によると、暴風雨の中、義経は渡辺津から
150騎を5艘の船に分乗させて阿波勝浦に渡ったと語っています。
現地で調達した船で阿波に向かおうとしましたが、
その矢先、暴風雨が起こり多くの船が破損し、出航は一時延期となりました。
この間に梶原景時と義経の口争いがあったとされています。
阿波行の船は手勢のほか、馬、漕ぎ手、若干の従者を加えると、
1艘の船に50人近く運べる規模であったと思われます。

大風が吹けば波が高くなり櫓は使えないので、
帆を張って風の力で航行したということになりますが、
当時はムシロ帆ですから、暴雨の中では水分を含んで
重くなり転覆の恐れがあります。
5艘の船の漕ぎ手はそうとう熟練したプロ集団だったのでしょう。
通常3日かかるところを追い風に乗って、
およそ6時間で阿波の海岸に到着したのでした。

これについて私の考えは次のようです。あくまで素人の勝手な推測ですが…

平家物語はいわゆる歴史書ではなく、歴史に題材をとった物語です。
琵琶法師たちはこの物語に登場する敗者の哀れを語り、
人々に受け入れられました。
聞き手である民衆は、勝者でなく敗者に心を寄せます。

後に兄頼朝に疎まれ、悲劇的な最期を遂げた義経に
寄せてさまざまな思いがつけ加えられました。
義経がいかに迅速に屋島を落としたか、
軍事の天才であったのかということを強調するために、
猛烈な速さで渡辺の津から阿波に渡り、
ちょうど手薄になった屋島に到着した。と語っています。

また海上保安庁のHPでお調べになったら、結果を教えてください。
 
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