コメント
高野山往復が一週間で出来たのでしょうか?
(
yukariko
)
2014-08-31 21:35:33
今のように整備された道も乗り物もない時代に沢山の近臣、門院のおつき女房達を伴って、輿や牛車(大半の人は徒歩で)で上皇のような貴人が高野山への往復と滞在日数が五泊六日で可能でしょうか?
短くても半月はかかったと思うのですが?
途中の気に入った場所にお寺を作るなど(実務は清盛に申し付ければ簡単でしょうけれど)のんびりとしたたびに思います。
伊勢の斎王が交代される時別れの儀式を終えて伊勢の斎宮まで五泊六日で群行されたと以前に斎宮博物館で見ました。(こちらは遊びと違うから行程は結構大変だったのでは…)
それほど遠い所、しかも山登りに年二回も通われたのは信仰はもちろんでしょうが、皇位から遠く気楽な親王暮らしから堅苦しい宮中のしきたりで息の詰まる日常からの脱出もあったのでは?
今は電車や車を使えば日帰りもできますね。
(
sakura
)
2014-09-01 11:18:32
後白河上皇の高野山参拝が五泊六日で可能でしょうか?については可能だったようです。
「後白河上皇」(後白河上皇移徒一覧)をもう少し詳しく書きますと、
3月13日に高野に御幸、14日四天王寺に著御
15日、高野政所に著御、17日中院より奥院に参御、18日高野山より還御とあります。
念のため「棚橋光男・後白河法皇・講談社」の巻末に記載されている(践祚後の後白河の行動一覧)を見てみると、
やはり3月13日から同月18日高野山とあり、
同年同月20日から23日まで平清盛福原邸となっています。
当時、盛んに行われた上皇や、貴族の四天王寺詣、熊野詣などは、
早朝都を発ち淀川を船で下って天満橋辺りの船着き場に上陸していました。
船ですから順調にいけば早いですね。
参考になるかどうか分かりませんが、後鳥羽上皇の熊野詣にお供した藤原定家の
行程記録が「五来重・熊野詣・講談社学術文庫」に記されています。
それによると、安倍王子と住吉大社に詣でたのち上皇が馬に乗られたという記事が見えます。
後白河上皇は高野山の表参道だった九度山から奥の院をまでの
行程約24Kmの町石道を登られたと思われます。
今、九度山駅から町石道を高野山上の入口、大門まで徒歩ですと、
ペースや休憩時間にもよりますが7~8時間ほどかかります
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短くても半月はかかったと思うのですが?
途中の気に入った場所にお寺を作るなど(実務は清盛に申し付ければ簡単でしょうけれど)のんびりとしたたびに思います。
伊勢の斎王が交代される時別れの儀式を終えて伊勢の斎宮まで五泊六日で群行されたと以前に斎宮博物館で見ました。(こちらは遊びと違うから行程は結構大変だったのでは…)
それほど遠い所、しかも山登りに年二回も通われたのは信仰はもちろんでしょうが、皇位から遠く気楽な親王暮らしから堅苦しい宮中のしきたりで息の詰まる日常からの脱出もあったのでは?
「後白河上皇」(後白河上皇移徒一覧)をもう少し詳しく書きますと、
3月13日に高野に御幸、14日四天王寺に著御
15日、高野政所に著御、17日中院より奥院に参御、18日高野山より還御とあります。
念のため「棚橋光男・後白河法皇・講談社」の巻末に記載されている(践祚後の後白河の行動一覧)を見てみると、
やはり3月13日から同月18日高野山とあり、
同年同月20日から23日まで平清盛福原邸となっています。
当時、盛んに行われた上皇や、貴族の四天王寺詣、熊野詣などは、
早朝都を発ち淀川を船で下って天満橋辺りの船着き場に上陸していました。
船ですから順調にいけば早いですね。
参考になるかどうか分かりませんが、後鳥羽上皇の熊野詣にお供した藤原定家の
行程記録が「五来重・熊野詣・講談社学術文庫」に記されています。
それによると、安倍王子と住吉大社に詣でたのち上皇が馬に乗られたという記事が見えます。
後白河上皇は高野山の表参道だった九度山から奥の院をまでの
行程約24Kmの町石道を登られたと思われます。
今、九度山駅から町石道を高野山上の入口、大門まで徒歩ですと、
ペースや休憩時間にもよりますが7~8時間ほどかかります