コメント
平重衡公
(
揚羽蝶
)
2019-12-13 19:27:44
12月も半ば、時のたつのは早いです。
重衡公は、墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利し平家の中でも武勲をあげた尊敬できる武将で、優しく花の牡丹に例えられるほどカッコいい。また鎌倉に護送された時も、頼朝と堂々と渡り合った。
南都焼討ちでは、たまたま明かりを取ろうとした火が、東大寺や興福寺に延焼したと信じています。
醍醐のお墓にも、安福寺にも行きましたが、十三重の石塔が重要文化財だとは、知りませんでした。
首洗い池や不成柿の場所は、行っていないのでまた、機会があれば行きたいです。
揚羽蝶さま
(
sakura
)
2019-12-14 09:34:09
2019年も残りわずかとなりましたね。
早速ですが、安福寺の十三重の石塔は「木津川歴史散歩」には、鎌倉時代の重要文化財、
「昭和京都名所図会(南山城)」、「京の石造美術品めぐり」には、
鎌倉時代の重要美術品と書かれているので、重要美術品でしょうね。
重要文化財の指定を受けていたら、表示してあることが多いですものね。
訂正しておきます。ありがとうございました。
コメントにお書きくださったように、重衡は源頼政との橋合戦で
知盛・忠度とともに大将軍、そのすぐ後の三井寺攻めでも大将軍を務め勝利を収めています。
墨俣川合戦の大将軍は「吾妻鏡」によると重衡、平家都落ち後の
備中水島合戦で義仲軍、室山合戦で行家に勝利したのも重衡です。
「平家物語」では、史実に反し、重衡の活躍を兄知盛の武功に移しかえている場合が多く、
重衡の勇将としての印象はうすいですが、一時は連戦連勝の将でした。
「玉葉」にも、重衡は「武勇の器量に堪ふ」と書かれています。
十三重の石塔に立てかけられた施餓鬼等の卒塔婆は…
(
yukariko
)
2019-12-31 22:55:31
「八百廿二回忌追善供養、盆供養」と書かれていますね。
安福寺は単に石塔を安置しているだけではなく、菩提を弔うために建立されたと伝えられるだけに、毎回きちんと供養されているのだなあと感心して眺めました。
物語の作者だけでなく、当時の一般人、庶民までもが哀れんで後世までも彼の菩提を弔ってほしいと言い伝え、残したのだろうなあと思いました。
卒塔婆、よく気づかれましたね
(
sakura
)
2020-01-03 11:07:02
そうだと思います。
重衡は一ノ谷合戦で乳母子に裏切られ捕虜の身となりましたが、
驚くほど会う人ごとに情けをかけてもらい、
人々の好意と善意に囲まれていました。
平家物語(巻12・重衡被斬)は「日来の悪行はさる事なれども、今の有様を見奉るに、
数千人の大衆も守護の武士も皆涙をぞ流しける」と記しています。
清盛と時子の秘蔵子だったという重衡は、南都焼討という罪を犯したのにも関わらず、
人々に感動を与えるような武将だったようです。
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重衡公は、墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利し平家の中でも武勲をあげた尊敬できる武将で、優しく花の牡丹に例えられるほどカッコいい。また鎌倉に護送された時も、頼朝と堂々と渡り合った。
南都焼討ちでは、たまたま明かりを取ろうとした火が、東大寺や興福寺に延焼したと信じています。
醍醐のお墓にも、安福寺にも行きましたが、十三重の石塔が重要文化財だとは、知りませんでした。
首洗い池や不成柿の場所は、行っていないのでまた、機会があれば行きたいです。
早速ですが、安福寺の十三重の石塔は「木津川歴史散歩」には、鎌倉時代の重要文化財、
「昭和京都名所図会(南山城)」、「京の石造美術品めぐり」には、
鎌倉時代の重要美術品と書かれているので、重要美術品でしょうね。
重要文化財の指定を受けていたら、表示してあることが多いですものね。
訂正しておきます。ありがとうございました。
コメントにお書きくださったように、重衡は源頼政との橋合戦で
知盛・忠度とともに大将軍、そのすぐ後の三井寺攻めでも大将軍を務め勝利を収めています。
墨俣川合戦の大将軍は「吾妻鏡」によると重衡、平家都落ち後の
備中水島合戦で義仲軍、室山合戦で行家に勝利したのも重衡です。
「平家物語」では、史実に反し、重衡の活躍を兄知盛の武功に移しかえている場合が多く、
重衡の勇将としての印象はうすいですが、一時は連戦連勝の将でした。
「玉葉」にも、重衡は「武勇の器量に堪ふ」と書かれています。
安福寺は単に石塔を安置しているだけではなく、菩提を弔うために建立されたと伝えられるだけに、毎回きちんと供養されているのだなあと感心して眺めました。
物語の作者だけでなく、当時の一般人、庶民までもが哀れんで後世までも彼の菩提を弔ってほしいと言い伝え、残したのだろうなあと思いました。
重衡は一ノ谷合戦で乳母子に裏切られ捕虜の身となりましたが、
驚くほど会う人ごとに情けをかけてもらい、
人々の好意と善意に囲まれていました。
平家物語(巻12・重衡被斬)は「日来の悪行はさる事なれども、今の有様を見奉るに、
数千人の大衆も守護の武士も皆涙をぞ流しける」と記しています。
清盛と時子の秘蔵子だったという重衡は、南都焼討という罪を犯したのにも関わらず、
人々に感動を与えるような武将だったようです。