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前回のコメントへのお返事を読んで (yukariko)
2010-07-31 17:00:19
桓武平氏と河内源氏…この解説を読んでyukarikoも思い違いをしていたのに気付きました。
どうしても平氏というと平忠盛・清盛が平氏一門だと思ってしまいますが、臣籍降下で源氏や平氏を貰った皇子の血筋とその一門だから枝分かれして沢山いますね。

重代の源氏の家人であっても世の流れの中で平氏に組したり、領土争いの利害の対立で思わぬ側に付く事になったり、本当に複雑ですね。
資料も後世に言い伝えを書き記したものでしょうから実際にはどうだったのか、その時代羽振りの良かった側が正しいとか、美化されたりもして(笑)

でも三浦一族が落ち延びて鎌倉殿を探し当てその後の幕府創設に大いに功があったからこそ、勢力をのばし、北条氏と対立して三浦一族の主だった者が滅んでも、あちこちに分かれた同族が残って、結果として城跡や三浦同族会建立の碑が残っているのですね。
縦貫道路建設でその遺跡が壊され消滅していくのも便利さ優先のためとはいえ、淋しい事ですね。
 
 
 
さらに複雑です (sakura)
2010-08-01 15:17:28
頼朝挙兵の際、土肥実平とともに頼朝を助けて働いた三浦一族、大介義明が「自分は頼朝のために死ぬ代わりに子孫への手柄にしてくれ。」と頼朝からの子孫への恩賞を期待して討ち死にしましたが、その言葉通り頼朝は義明の孫和田義盛を侍所の別当(長官)に任命し、義盛は軍事機構を握ります。大抜擢です。三浦氏と北条氏が上手くゆかなくなるのは、この辺からのようです。頼朝は両者を融和させようと、時政の孫と三浦義澄の孫を結婚させます。しかし両者は約70年にわたって対立、互いに相手を倒そうと狙います。
三浦一族研究会は、平成8年に発足し、全国で400人を超える会員を擁し、年一回の機関紙を発行したり、講演会、勉強会などの活動をされているようです。三浦縦貫道建設の際にも何か活動されたのでしょうか。

前回いただいたコメントのお返事にもう少しつけ加えさせていただきます。
桓武平氏の曾孫の高望王が平姓を賜り、9C末に上総介(千葉県中部)に任命されて、そのまま関東に土着、その子孫が東国武士として繁栄します。
高望王の孫平将門が乱を起こし、その将門を討ち取った同じく高望王の孫貞盛が息子維衡(子孫が正盛・忠盛・清盛)の代になると本拠地を伊勢に移します。やはり平将門の乱鎮圧に功のあった藤原秀郷も武名を高め都に出て活動しますが、息子千春が安和の変に巻き込まれて没落。以後その子孫は東国で活動します。
源満仲の密告で左大臣源高明が失脚した事件です。満仲が秀郷流藤原氏を追い落とし、勢力を広げるきっかけとなった安和の変は、以前取り上げたことがあるので覚えて下さっているかも知れません。この秀郷流藤原氏の流れをくむのが波多野・山内氏です。波多野氏は朝長の母の実家、山内氏は頼朝の乳母山内尼の家です。
東国というとすぐに源氏を思い出しますが、桓武平氏、秀郷流藤原氏のあとに前九年合戦・後三年合戦に勝利し東国に少し遅れてやってきたのが源頼義。義家父子です。義家の弟義光から佐竹(常陸)や甲斐源氏、義家からは新田(上野)、足利(下野)などがでています。その後、桓武平氏・秀郷流藤原氏・河内源氏庶流がひしめき合っていた東国に義朝がやってきて彼らを束ねながら勢力を広げていきますが、平治の乱で挫折します。その後東国に勢力をおよぼしたのが、平家(清盛)です。義朝と主従関係を結んでいた武士団には平家と主従関係を結びなおした者が多くいたのも仕方のないことです。
大介義明の息子は所領の名を名字にしているので分かりにくいかもしれませんが、少しずつ解いていこうと思います。お返事が長くなってすみませんでした。
 
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