難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「壬申の乱」 を訪ねて 2日目

2021年02月01日 | 歴史

平成27年5月13日

壬申の乱を訪ねて2日目

    追記補正 令和3年 1月18日

 今日はこの旅一番の強行軍です。

 このホテルのある、大和郡山から、→ 飛鳥 →
 芋ヶ峠 → 吉野の宮 → 名張 → 鈴鹿 →
 亀山 → 四日市 → 迹太川 → 桑名群家 →
 大垣駅前(ホテル)です。

 先ず腹ごしらえ。

 サンホテル大和郡山の朝食コース。
 トースト、牛乳、ゆで玉子、コーヒーだけの、簡単コース
肥満体には適量  (・・;)

  ホンダLIFEをナビでセットしていざ出発。

  大和郡山から新しくなった24号線の車専用道で、飛鳥。
飛鳥から、芋ヶ峠をへて吉野へ。
 本当は出来るだけ、大海人皇子一行が辿った昔からの
古道を通りたかったのだけれど、道不案内につき、
ナビに一任。

  飛鳥を通る時、少し道草を考えたんだけれど。今回は
どう考えても時間的に強行軍。 またね♪

  道の名前で、何故か前から、興味を持っていた芋ヶ峠道へ。
昨日の台風6号の影響も無い晴れ空で、対抗2車線の、
ごく普通の田舎の山道。ダッタ。
飛鳥からシバラクは。
 あれ、道が狭くなってきた。登り坂も急になり出した。
道路の舗装もなんだか怪しくなりだし、その上、道に
昨日の台風6号のせいか、葉っぱや草藁が。
あれ?小枝が思い切り散乱している。
初めのうちは徐行して、右に避け、左に避けて運転、
そうこうしているうちに、避ける余地の無いほど、
道が狭くなってきた。ユックリ踏み越えるしかない。
 ワー、今度は小枝じゃない、大きい木の枝が、
道を遮断。仕方がないので、降りて大枝を手で道脇へ。
でも、地元の人はどうしてこのままにしているんだろう?
地元の人はこの道を使わないのかなあー。
道幅はまさに、対向できない1車線。
対向車があればどうしよう?
その時は、 下り優先だったけ? 登り優先だったけ?
離合できる処まで、後ろ向きで下がるのは、
登り? 下り? バック走行は得意じゃない私は、
踏み外して、路肩から下に落ちたらどうしよう??
新聞に載るか?

 途中に、芋ヶ峠の案内板があり、その中に、
持統天皇(鸕野讚良姫 うののさららひめ)が吉野へ、
行幸されたのは、この道と書いてあり。
確か、持統天皇は、壬申の乱の後、30回以上吉野へ
行幸されており、こんな険しい道をよく何度も行き来
されたものだと関心。

 案内板の所から、「古道 芋ヶ峠」の案内あり、
 この左に曲がっていく、狭い道が?!



 飛鳥から、ホンダLIFEで登ってきた狭い道

 吉野へ向かう、狭い道

 鸕野讚良姫は、大海人皇子と近江の大津京から、
逃げるように、多分馬に乗って。お伴は夫と、夫との
王子の草壁王、身の回りの世話をしてくれる家来だけ。
 夫 大海人皇子が幾人もいたであろう妃の中で、自分だけを
連れて逃げてきてくれてことに、高揚した思いだった。多分

  ここで、何本かのドラマが想像されますよね。

 1) 大海人皇子が自分の夫人の中で、一番しっかりしている、
 鸕野讚良姫を随行者に選んだ。

 2) 他の婦人は、尻込みをして嫌がった。

 3) 鸕野讚良姫が他の夫人を蹴散らして、競争に勝った。

  他の夫人の王子、別腹の 高市王や亡くなった、実の姉の
王子 大津王は乱が始まってから一行に合流、それまでは、
大津京に住んでいたが、吉野の宮から緊急特命があり、
そこの大津京を逃げ出し、大海人皇子の軍に合流しているん
だよね。つまり、婦人を含め、吉野への随行者では無かった。

  女性の発想は、男の私とはかなり違うけれど、鸕野讚良姫の
心を想像すれば、面白いよね!

 そして、
4) 絶世の美人、額田姫王(ぬかたのおおきみ)は?
 彼女はどうしたんだろう?

 知性派美人好きの私としては、とても気になるところ
ですよね。
 本を色々読んだんだけれど
「‥‥‥‥野守は見ずや 君が袖振るの後の消息が
日本書記を含め、記載が無いようなんだよね。
 この歌が歌われたのは、飛鳥宮から大津の宮に移ってからの、
蒲生野(がもうの)(現 滋賀県八日市市付近)での、
狩猟レクレーションでの座興で、場を和ますため、
額田姫王が恋の歌を即興で歌い、それに応じて、
大海人皇子が 「‥‥‥‥人妻ゆゑに 我恋ひめやも
返歌をした、となっていますが、額田姫王が元は
大海人皇子の妃で、娘を一人生んでいるのに、
中大兄皇子の強い要請で、大海人皇子と別れ、
中大兄皇子の妃になっているのを、その酒席にいた人は、
皆知っている中での恋歌のやり取り。
その場の空気を想像すると、たまりませんなあー。(汗)
 その当時は、それぞれ、40才を過ぎた同士、只の座興
という学者もいるが、色恋を知らない、無粋な学者め。
色恋に、歳は関係無い、40才でも、50才でも、
60才を過ぎてもだ。(妙に力説 (笑))
 それから、1、2年後の、大津の宮からの吉野落ち、
恐らく、イヤきっと、この歌の事を知っていた、
鸕野讚良姫は、これでやっと、夫と額田姫王の縁が切れる
と確信したに違いない。
 ややこしい話なんだけれど、大海人皇子の
十市の女王)を、連れ子して、天智天皇に嫁いだ 
額田姫王は
、その娘、十市女王
天智天皇の別腹の子 大友の皇子(おおとものみこ)に嫁いで、
孫まで出来ていた。
だから、額田姫王は大海人皇子の反対勢力、近江軍の旗頭、
大友の皇子義理の母親になる訳だ。
 額田姫王がいくら、大海人皇子に付いて行きたくても、
叶わぬことだった訳だよね。

  鸕野讚良姫は、この時の大海人皇子との道行きが、大変
だったけれど、大きな思い出として、刻まれたんだろうな。
だから、夫の天武天皇が亡くなった後、持統天皇になって
からも、何回もこの芋ヶ峠を通って、行幸されたんだろな。
男では考え付かないよね。天武天皇も一度、「壬申の乱」
の後、その時の、切羽詰まった状況を知ってもらうため、
「吉野の誓」で、自分の世継ぎを決めるため、多くの王子と、
鸕野讚良姫を連れ、此処を往復したと伝えられているけれど、
そういう目的がなければ。ここの、峠越えは本当大変だぜ!!

 芋ヶ峠の案内板を過ぎ、対向車が来ませんようにと、
祈りながら15分間位で峠を通り越し、やっと少し
広い道へ。
 一台も対向車は無かった。やれやれ良かった!!
でも、何で対向車が無かったんだろう?後で調べたら、
奈良と吉野の道は、別ルートで、幾ほんも大きな広い道が
できており、実用的な交通は芋ヶ峠を通らないとの
事でした。チャンチャン。

 芋ヶ峠を越えて、やっと吉野の宮跡へ。

吉野の宮跡の側に、吉野歴史資料館があり、早速見学を。





 入場料 200円。受付は? あれ?! 
 窓が閉まっている。なんで? 中には人がいる気配。
窓をコンコン、 「あのーすみません。」

 中から、女の事務員さんが現れてくれて、
「ハイ、何でしょうか?」

 「????」、
「あのー、資料館を見学させていただきたいのですが。」

 「あっ、御見学ですか?」
「すみません、資料館は、本日休館日なんです。」

 「えっ、お休みなんですか。」
 アー、又だ。今日は水曜日だから、休みはないと、たかを
くくっていた。アー、休館日に付き纏われる。
これも、昨日からの、天智天皇の祟りか?
受付で戸惑っていると。

 「遠くから、いらしていただいたんでしょお。
 先週までのゴールデンウィークの振り替え休日なんです。」
「今日は、中学校の郊外学習に特別解放しているので、
 特別に入館していただけるようにします。」
「ただー、中学校の生徒さんがメインですので、
 館内の案内員が対応できないかもしれませんので、
 予め御了解下さいね。」

 「はい分かりました、お願いします。」よかった、
これで見学できる。入場料の200円を払い、中へ。

 展示場では、中学生が7、8人のグループで、
説明員の男性について、見学をしていた。

 今回、「壬申の乱」にしぼって、旅をしている私には、考えも
しなかったのだけれど、この吉野地区は、縄文、弥生時代の
遺品が沢山発見される場所で、多くの遺品が展示されていた。
説明されている人は、そちらを主に生徒達に時間を割いて
おられた。まあ、私もそうだったが、中学生に「壬申の乱」に
興味がある子は少ないだろうから、そうなんるんだろうな。
大体今の中学校で、「壬申の乱」をどの程度、どの様に教えて
いるんだろう?。
 額田姫王(ぬかたのおおきみ)の、
「ーーー野守りは見ずや 君が袖振る」は習うんだろうか?
 野守りて誰のこと?=額田姫王の旦那、天智天皇の事。
 袖振るって?=「こっちにオイデオイデ楽しいことを
         しようよ」、てっ事。
「ワーはずかしいー。」このブログの、
「難波宮って?」の若い社員のように、自分の国の歴史
(面白い昔話)を、知らないのは、こんなに楽しい恋バナや
ドラマに溢れた歴史のある、日本に生まれてきて、とても
勿体無いから、しっかり覚えて欲しいな。
日本の歴史を軽視して、面白くない年号丸暗記第一の
教科にした、文部省のせいなんだけれど。

  閑話休題(それはさておき)館内には、もちろん、吉野の宮
関連の展示も多くあり、その中の、大海人皇子と鸕野讚良姫が
大津の宮から、逃れてきた当時の宮が模型で復元されており、
大変興味をそそられました。


  模型を見て直ぐに、
「えっ?こんな程度、これでは敵から攻められたら、
 ひとたまりもない。」
でした。

「こんな程度だったから、 必死で逃げたんだ。」

 見学を終え、外へ出るとき、受付の事務員さんに、
「有り難うございました。とても興味深かったです。」

「バタバタしていてすみませんでした。」
「あっ、記念に、富本銭(ふほんせん)(模型)は
 いかがですか。150円です。」


「あっそれじゃ、一つ頂きます。」

 へーこれが、壬申の乱の後、天武天皇が推し進めた、
大化の改新の中で、物々交換経済から、通貨経済へ、
移行するための通貨なんだ。
 根が賎しい者で、つい、当時、いくら位の価値が
あったんだろう。
 100円かな、1000円かな、1万円と云うことは
ないよね。
「富本銭が1万円なら、150円で、大もうけ。」
 あーコラコラ!!
 

  外へ出て、吉野の宮跡を散策 



 




 やはり、宮跡を散策して、その範囲の、小じんまりさに、
今日見るまでの、想像との大きな違いに驚かせられました。
大海人皇子も、鸕野讚良姫も、すぐに逃げ出さざるを
得なかったと、納得してしまいました

 吉野の宮跡の中心部が、今、駐車場になっており、
大阪から来た、中学校の貸切りバスが数台停車していた。
中学生が、1グループ8名ぐらいで、周囲の見学に
廻っていました。おそらく、グループ毎に、資料館を
見学するようです。説明する、資料館の担当者も、
大変だろうな。
 ご苦労様、歴史好きを育てる絶好のチャンスです。
 頑張ってください。



 少しカッコ良く。
 壬申年(西暦672年)6月24日(旧暦)
 午前中 ついに、行動開始。
「壬申の乱」は動き始めました。

 大海人皇子と、鸕野讚良姫(うののさららひめ)一行は、
一路、美濃を目指して、吉野の宮を出発。最初の内はそれぞれ
徒歩での行軍。
 途中で、取り込めた、馬や輿に乗り換えて、なんと
鸕野讚良姫は、壬申の乱の戦闘の間、留まった、三重県の
桑名市にあった、桑名郡家(くわなのこうりのみやけ)
まで、少ない休憩だけで、約145kmも大海人皇子と
行動を伴にして、6月26日の夜、ようやく到着した。

 まるまる3日間、一日換算、約50km。凄い!!

 この真異を求め、鸕野讚良姫の凄い執念を探るため、
吉野から桑名までいざ、徒歩で  無理!
 愛車ホンダLIFEで。

  私は愛知 岐阜 三重の中部地方は縁が少なく、現役時代も、
担当地区外でしたので、地理は全く不案内。
購入した、{壬申の乱を歩く}倉本一宏著 で調べ、
Googlの地図で照らし合わせながら、ルートを
調べました。
 ところが、LIFEに取り付けている、ユピテルのドライブ
レコーダー付きナビに、道順を指示するのですが。
言うことを聞きません。ナビの使命は、早く、安全に、
最短距離で、出来る限り広い新しい道をである。
というのがルールだと、痛感させられました。
本に書いてある、一行が通過したであろう道は、
昔あった道、いわゆる古道(主に旧大和街道)、
道も狭く、地元の人達の生活道路のため、到着地
までに設定できる途中経由地を入れても、経由地を
過ぎると、すぐ大きな道(今回はおもに、25号線と
1号線)に乗ろうとする、例えそれが遠回りでもです。
悪闘苦戦 30分。地図が分からないからよけい
ですが。遂にギブアップ。取り合えずここだけは
行きたいと思うところを経由地に記録し、
いざ出発。

 経路は、吉野の宮→宇陀市→名張市→伊賀市→亀山市→
 鈴鹿市→四日市市→桑名市です。

(これから、桑名間での話の入力は、これで3回目の入力です。
 なぜか、途中で入力文章が消えてしまいます。
 こう書いておけば、大丈夫だろう。)


 これからしばらく、ナビとの格闘をお楽しみ下さい。

 吉野の宮から、川沿いの道を、でもナビが、
「ルートを外れました。」「リルートします。」始まった。
無視して、旧道を走りました。
 途中一行は峠越えをしたようですが、LIFEでは無理。
道に沿って行くと、トンネルがあり、越えれば旧街道に
合流できました。順調順調。
宇陀を越え、あれ?高速道に入ってしまった。
25号線のようだ。 えっ、伊賀市? オーイ、
名張り市は何処へ行った。おや?高速道を降りる指示。
 どうやら、経由地に指定しておいた。鈴鹿山脈と
布引き山地の「加太越え」のようだ。
案内書に、この旧大和街道とJR線の交差する地点は
有名らしいので是非一見。ところが、それらしい
有名ポイントを探している間に広い道へ。
いつのまにか 1号線を走っていました。
一体何処だったんだろう? 

 伊賀市→亀山市→四日市 途中 「河曲の坂下」でとうとう、
一行の「鸕野讚良姫の疲労は極限に達したので、
 しばらく輿を止め休息した。」とあり、その場所を
見たかったのですが、ナビは許さず、四日市を
通り越し、この道中のメーンイベント、
「迹太川の辺り」の「天照太神の望拝」へ、
案内書に従い、旧東海道 国道1号線で、
海蔵川を渡った北側に来ました。


  ここで、大海人皇子が、戦いの勝利を伊勢の神に祈り、
鸕野讚良姫に伊勢の神が入り、戦いの勝利を随行者に宣託した
そうです。
 川沿いの公園を散策したのですが、普通の川岸の公園で、
別にモニュメントも無く、へー。ここが、迹太川だと言う
定説は無く、他にも、候補地があるようです。

 次が、今日の最終見学地、桑名の「桑名郡家」
(くわなのこおりのみやけ)ここでやっと、一行は休息し、
鸕野讚良姫と王子達はここに、戦いの終わるまで
留まったとされる。
その場所には、県神社があり、大きな農家が何軒かあり、
ここなら落ち着けそうという場所でした。勿論、案内も、
モニュメントも見受けられませんでした。
 今日、吉野の宮を11時に出発して、途中で軽く、
昼食をして、桑名群家に着いたのが午後5時前。
今日の宿 スーパーホテル大垣駅前まではまだ、30分ほど
かかると、ナビが申します。
 と言うことは、旧街道を通っていたら、少なくても、
2、3時間余分に掛かっただろうから、ナビに従って正解と
言うわけだ。ナビ君有り難う。



 今日の見学予定を終え、宿へ。 今日の止まりは、
ネットの楽天で予約した。スーパーホテル大垣駅前店
 スーパーホテルは奈良で一度利用したとき、朝食が素敵
だったので、気に入っています。それと、部屋のキーは無く、
暗証番号の入力です。後は、普通のビジネスホテルの
システム。暗証番号を忘れてはいけないので、早速
スマホに入力。このシステムの方が、いちいち外出する
とき、カウンターに申し出る必要がないので、
気楽と思えました。朝出発する時も、自由に、
出発できます。店員からは、「いらっしゃいませ。」までで、
「行ってらっしゃい。」も、「お帰りなさい。」も、
「有り難うございました。」も無い。私は、面倒なのは
要らないので、このシステムには共感しています。

 このホテルでは、駐車場がなく、24時間千円の
コインパーキングを紹介されました。駅前の、立地では
自前の駐車場は難しいんだろうな。



 ホテルで、夕食の出来る店の市街地マップを貰い、
大垣市の繁華街を散策。どの繁華街も、そうなんだけれど。
この町も夕方の賑わいが、少ないんだよね。私が現役時代の、
昭和バブルの時代は、どの出張先でも、夕方の繁華街では、
人の出が多く、歩いている人を避けながら散策した事が
多かったんですがね。
 20分ほど歩き回って見て、やはりこの町も、居酒屋さんは
全国的なチエン店が多く、私の苦手な、焼き鳥店も多かった。
 辻を入ったところに、居酒屋「おねえ」が目につきました。
店の正面に
「食べ放題 飲み物2ハイ付き 2千円。
 飲み物追加 一パイ 五百円」の看板が目に付き、
店構えも、いかにも地元の気さくな店がまえ、早速店の中へ。
 店の中では、想像通り、地元の常連さんが四、五人と、
ベテランOLさんのグループが4人ほどがカウンターを囲んで、
楽しく過ごしておられました。
 付き出しは、カウンターのガラスケースにあるものを自由に
いくらでも注文できるシステムで、どれも、それなりに
美味しく頂けました。そこで生ビール2杯を飲み、
次にハイボールを注文したんですが、
「あら、すみません、ソーダを切らしちゃった見たい。」
「あははははっ。」
「ハイボールを注文する人はこの頃少なくて、
 ごめんなさいね。」

「それじゃー、ウイスキーの水割りで。」
打ち解けて、会話していた、同世代の地元の常連さんが、
「昔は、飲み屋でウィスキーのハイボールを飲むのが
 普通だったけれどな、この頃は
 ほんとに飲まなくなったなあ。」

「サラリーマンに成り立ての時は、給料も少ないから、
 最初は トリスで、少し給料が上がって レッド、
 それから 角へ、次に ダルマ=オールド。と、
 銘柄を上げていくのが楽しみでしたよね。」

と、楽しく話が弾みました。しばらくして、常連さんが
「お姉さん、今日はなに?」
「今日はカレーよ。」
日替わりのメニューがあるらしく、聞かないと
出してくれないそうす。
「じゃー、カレー半分で。」
「あっ、おれも。」

「ワタシも。」
「あっ、それなら私もお願いします。」
 昔、家で食べた、懐かしいカレーの味。大満足。
「ごちそうさまでした。おいくらですか?」
「えーと、何杯飲まれました?」
えっ、自己申告制? そう言えば、伝票を書いていた
気配は無かった。! 正直に申告。
「5杯です。」
「それなら、3500円です。」
あれだけ楽しく飲んで、食べて、ほんとうに安い。
いい店でした。



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 平成27年5月14日「壬申の乱」を訪ねて 3日目



平成27年5月15日「壬申の乱」を訪ねて 4日目



「額田王姫へ、君が袖振る」
  恋歌 ⇒ 反戦歌です。



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◎ 「難波宮ッテ?」
  古代史感のすれ違い

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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。


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