探るのをメインに、真夏の中をぶらぶら。
平成29年8月3日~5日
8月3日(木)晴れ、酷暑
阿武山古墳 藤原鎌足の古墳 散策
京都大学 阿武山地震研究所 裏手
ナビの不備不勉強、探すのに大苦労
ナビに従って、愛車LIFEで運転して行くと。
[この先、阿武山古墳へは行けません。]
の道路標示。
引き返し、ナビを見ながら、ウロウロ。
ローソンがあり、トイレを借りて、ジュースを買い、
地元の人なら詳しいだろうと、レジの美女に、
「あのー、阿武山古墳は、どう行けばいいか、
ご存じでしょうか?」
「えっ! 古墳ですか?」
「阿武山古墳?そんなん在るんですか?」
「地元のレジの子を呼びます。」
地元の、レジの美女が代わりに話を聞いてくれた。
「この奥に、古墳があるのは知っているんですが。
地元なのに、あまり興味が無くて、
詳しくは知らないんです。」
「確か、京都大学の、地震研究所が在るそうで、
そこで発見されたそうなんですが。」
「京都大学の研究所でしたら、分かります。」
「バイクで行ったこともあります。」
「そこに、どんな古墳があったんですか?」
「話としては、藤原鎌足の古墳と言われていますよね。」
「へぇー、大化の改新の時の中臣鎌足ですよね、
興味が湧いてきました。」
「又バイクで行ってみようかな。」
その後、スマホを使い、グーグルのナビで、場所を、
教えて貰いました。
愛車のホンダLIFEで、坂道をクネクネとグーグルを見ながら。
登っていくと、在りました。京都大学 地震研究所
歴史ハイカーと直ぐ分かる、グループが、気軽に、
ゲートから何人か入って行かれたので、一緒に
入っていきました。
研究所の建て屋の手前に、
阿武山古墳の、案内板がありました。
案内表示に導かれて、歩いて進んで行きました。
周囲を金網の柵で、取り巻かれた、古墳? が在りました。
写真を撮っていると、高齢の、歴史ハイカーさんから、
声をかけていただき、古墳の事を詳しく教えて頂きました。
戦前に、京大の研究所を建造中に、この古墳にブツカり、
何も考えずに掘り起こし、石棺を見つけ、
その中に遺骨もあり、古墳と分かり、やんごとなき方の、
墓ではないかとなり、そのことを知った、軍部から
至急埋め戻すよう指示があったため、元の状態に戻した。
と教えていただきました。
また、「日本書紀に記載されている、鎌足が
病床を重くしているとき、大織の冠を賜ったと、
書かれている物と思われる、冠も見つかり、
遺骨の肋骨が折れており、これは、天智天皇と、
狩りをしたときに、落馬して骨を折り、
それがもとで床に伏し、死を迎えたと言われている、
故事とも符合しますので、
藤原鎌足で間違い無いんじゃーないでしょうか。
それ以前は、この近くの「将軍塚」だろうと
言われていたんですが。」
本当に詳しく、教えていただきました。
「ありがとうございました。」
住所:大阪府高槻市大字奈佐原
京都大學阿武山地震観測所の裏手
グリコ森永事件散策
高槻市の阿武山古墳探索後、気になっていた、
江崎社長が閉じ込められた、水防倉庫を散策。
大阪府北摂地区(茨木市、摂津市、高槻市、三島郡)の
摂津市鳥飼 安威川沿い 地元の治水組合水防倉庫探索
安威川を跨ぐ、府道15号線から、下流に900mほど、
細い道を行ったところにありました。
現在(R3-3-3)外装塗装工事をされていました。
横の扉を出た右側に、小橋があり、その向かい岸が
国鉄鳥飼車両基地です。
この防水倉庫から、グリコ社長必死で脱出、
国鉄(現JR)鳥飼車両基地(北摂 摂津市)へ逃げ込む。
(防水倉庫から、小さい歩道橋で200mたらずです。)
事件発生当時の、倉庫捜査状況(新聞社のヘリから。)
「難波の宮、散策」とは、なにも関係ないのですが、
私の心のトゲとして、30年以上残っている、
「あの人、キツネ目の男、かい人21面相と
よく似たはったなあー??」
と言う、定年組 段階世代の心のトゲは
心のトゲ、グリコ森永事件へ
↑↑ あまりお勧めできません! (^_^;)
住所:大阪府摂津市鳥飼本町2ー8 付近
談山神社 藤原鎌足の菩提寺 お参り
平成29年10月 1日 加筆校閲
午前中に、藤原鎌足の古墳、阿武山古墳散策を終え、
藤原鎌足の菩提寺、談山神社(たんざんじんじゃ)に
お参りしました。
明治維新の神仏分離令以後、談山神社と称された。
それ以前は、多武峯妙楽寺(とうのみね みょうらくじ)
と称されていた。
藤原鎌足の座像が、入り口の近くにあり、少し怖い顔で
睨んで居られるように見えます。
藤原鎌足 繋がりで参拝さして貰いました。
後から、調べて驚いたのですが、
「そう言うことは、行く前に、前もって調べて置くもんだ!」
「すみません。」
この談山神社の裏山で、中大兄皇子、中臣鎌足等が、
当時の政権実力者の蘇我入鹿を、暗殺する計画を
立てたと言われており、その相談をした山
と言うことで、談山神社(たんざんじんじゃ、
かたらいやまじんじゃ)の名が
あるそうなんです。
この因縁の地に、唐へ、仏教の留学に行っていた、
藤原鎌足の長男 定恵が、唐から帰国後、摂津の国
阿威山から、遺骨の一部を多武峰山(とうのみね)に
移送改葬した、とされています。
と言うことは、今日の午前中に見てきた、京都大学
地震研究所の裏手の古墳、高槻市の阿武山遺跡から、
その古墳を掘り起こして、自分の父親、藤原鎌足の
遺骨を持ってきたんだ。
戦前に、京都大学が地震研究所建設時に、知らずに、
藤原鎌足の古墳を、掘り起こしてしまった。
その以前の、1300年も前に、既に一度掘り起こして、
遺骨の一部を、持ち出していたんだ。
少し、スッキリしない不思議が湧いてきたのですが。
阿武山遺跡から、多武峰山に分骨したなら、墓の中にあった、
天智天皇から贈られた、大織の冠を一緒に、取り出し、
新しい墓に入れなかったのでしょうか?
大織の冠ほど、藤原鎌足の偉業を、表す物は無いと
思いますよね。
大織の冠が、阿武山遺跡に残っているのだから、
これを神社の名前の起源にした、将軍塚の守り神社
大織神社はどの様な位置づけと、理解すればいいのでしょうか。
藤原鎌足の息子 定恵が、間違えて他の墓から、遺骨を
分骨してしまった。
でも、藤原鎌足が亡くなり、墓に、埋葬されてから、
唐から帰国した定恵が、分骨するまで、それほどの年月が
経過していないはず。
それに、壬申の乱で、天下を治めた、天武天皇と、藤原鎌足は
悪い仲という、話は、日本書紀には、記載されていない
のだから、藤原鎌足の墓の場所は、公に知られていたはず。
間違えるという事はないはずですよね。
誰かが、意地悪をして、だました?
それで、「定恵」の事を、ネットで調べてみたのですが、
「藤氏家伝」によれば、定恵は中臣鎌足の長男で、
(あれ? そうすると、不比等は 鎌足の跡を継いだけれど、
次男なのかな?)
653年にわずか11歳の幼さで、遣唐使に従って、
唐へ留学し、鎌足の死後 665年に帰国、その年の
12月23日に、23歳の若さで、亡くなる。
百済人に、その才能を妬まれ毒殺されたと。
記載されているそうです。
「あれれ? それでは、摂津国 阿威山から、多武峰へ
遺骨の一部を取り出し、改葬したと言う話は?」
帰国後、1年もたたずに、亡くなったとしたら、
遺骨の改葬はとても無理と思うのですが。
そもそも、白村江の戦いが 663年、
父親の鎌足の死亡が、669年とされていますので、
まだ父親は亡くなっていないのだから、
遺骨があるわけはなく、矛盾が大きすぎますよね。
そのほかの、藤原家の縁起文には、帰国は、708年で、
遺骨の改葬の後、714年に70歳で亡くなったとされて
居るらしいです。
そうならば、年代的な矛盾は無くなりますよね。
藤原家の正式な家伝「藤氏家伝」は、定恵を
受け入れたくない。
と言うことでしょうか。「なんで?」
そうだとすると、阿威山 大念寺のホームページ
に載せられている、「大織冠画像」の定恵上人のお顔が、
どう見ても、20歳代に見えるのですが。
皆さんはどう思われますか?
その後に、益々ややこしくなるから、知らない方が
よかった事が書かれていました。
鎌足の長男としていますが、実は ときの天皇
孝徳天皇(大化の改新で、女帝退位後の天皇)妃を
(身ごもっている?)鎌足が賜り、そこに産まれた
子供であるため、孝徳天皇の後胤すなわち天皇の血筋を引く
皇子だと言うのです。
もしそうなら、わずか11歳で、唐へ渡ったのは、本当の、
父親でない、鎌足から離れたかったからでしょうか。
それとも、父親の 鎌足から、無理矢理 唐へ、
送り出されたのでしょうか。
弟の 不比等 との関係は?
何故、父(鎌足)の遺骨を摂津の阿武山から、飛鳥の
多武峰に、改葬しなければならなかったのでしょうか。
謎だらけの、人物ですね。
今回の散策で、気になる事が出てきたのですが、
明治維新の後、日本の宗教界に大事件が起こったんですよね。
明治新政府が、自分達の政権安定化のために「王政復古」
「祭政一致」の理想実現を目指し、神道国教化の方針を採用し、
廃仏毀釈、神仏分離を命じ、全国の神社仏閣の在り方に、
大きな影響が有ったんだ! と言う歴史の事実です。
中学校の歴史の時間に、明治維新の中で、新政府の命令で
今から、150年前の 1868年に、
廃仏毀釈、神仏分離が行われ、仏像などが捨てられ壊されたと、
習ったのですが、「へーそう?」と言うくらいで、それが、
どういう意味があり、その後に、どの様な影響があったのか、
全く教えて貰っていないし、想像も理解も出来ていません
でした。
ただ単純に、日本史の明治維新の項目で、覚えなければ
ならない、一つの項目だったとしか、理解も記憶も
ありませんでした。
この無謀な政策は、行き詰まり、キリスト教へもその矛先が
向けられたため、外国政府から強い反発に会い、徐々に
方向転換し、明治10年に、政策としては終演したと
されています。
落とし処として、神道国教化の政策は放棄され、
代わって神道は、宗教ではないという見解を採用し、
決着とした。
「えっ、宗教じゃあ無いの、
それじゃー、家族の無病息災を願ったり、
武運長寿を、神社で手を合わせて、
願ってはいけないのか?」
今の政府もそうだけれど、明治時代の政府も、
信仰の意義を、マッタク理解していない、単に
自分達に都合の良い、政治の道具としてしか
見ていなかったようです!!
廃仏毀釈(うきぺでぃあ)の中に驚愕の出来事が
ありました。
明治維新政権の<廃仏毀釈>命令を実行され、
取り壊された石像列。
美濃国 苗木藩の廃仏毀釈、にたどり着き、
その内容に、驚愕し、お寺さんと、神社の関連を、初めて
分かった気がしました。
そこに繰り広げられている、個々の出来事は、
何か身に詰まされるような騒動、
「坊主を辞めて、神主になれば、
身分と財産は保証してやる。」
と言わんばかりの、役人の圧力が感じられます。
僧侶を辞め、神主になるもの。寺を出て、野に下る僧侶。
残されたお寺の、仏像、釣り鐘をシメシメとばかりに
売り払う、地元の名主達。
たった、150年前に、ここ日本で、起こっていた
ことなんですよね!!
海外ニュースで、違う宗教の人達を、迫害したり、
追い出したり、するのを見ていて、
「なんで宗教が違うだけで、あそこまでやるんかなー」と、
思っていたのですが、僅か数世代前の、私達のご先祖が
そんな馬鹿げた、見下げ果てたことをしていたとは。
恥ずかしくなって、しまいますよね。
将に、美濃の国の、一地方藩の出来事ではなく、
日本中で、程度の差はあれど、同じような揉め事が、
起こっていたんですよね。
そうです、まさに、此処、談山神社では、明治維新まで、
多武峯妙楽寺というお寺が、談山神社に変わって
しまったのです。
「明治2年(1869年)に神仏分離令により僧徒が還俗。
談山神社と改称され…」(うきぺでぃあ)
その時どの様な諍い、もめ事が起こったのでしょうか?
お寺だったのだから、仏像はあったはずだよね、
何処にやってしまったのだろう?
何処かに、売り払ってしまったのでしょうか?
社会科の先生は教えてくれませんでしたけれど、
村人、町の人、庶民が心のより所、相談できるお坊様を
失ってしまい、それ以後の、新興宗教や、無謀集団の
発生を迎えてしまったと、宗教ブログに書かれていました。
行かなくてはならない場所が増えました。
1)阿武山遺跡から大織の冠が確認されるまでは、
鎌足の古墳とされた、将軍塚と守り神社の
大織冠神社
中世では藤原家の末裔は、ここだと信じていた。
何故なぜ?
2)談山神社の側にあったとされる、
栗原寺(おおばらでら)
私の興味を引きつける、額田王姫が絡んでいるらしい。
3)当時の美女代表、額田王姫の関連する遺跡を探せねば。
「モーォ 男って、綺麗な女に弱いんだから。」
「すみません。」
談山神社 住所:奈良県桜井市多武峰319
8月4日(金)晴れ、酷暑
八幡宮 大和郡山市筒井
平成29年10月 1日 追記校閲
よくある、村の鎮守様のお宮様
前日の夜、毎回、飛鳥探索の時には、お世話になっている
大和郡山市筒井の居酒屋「おねえ」で、隣席の歴史
ハイカーさんに面白い、仏像があると教えられ、早速、
拝観お参り。
「何でこんな立派な仏様が、こんな小さな祠に、
治められているの。」
と思えるほど立派で、作りのしっかりされた仏様でした。
場所は、近鉄 筒井駅から、東へ、300m程にありました。
入り口の、鳥居を入った右側に、小さな祠があり、その中に
おいでになりました。
とても穏やかなお顔で、等身大ぐらいのお造りでした。
仏像に詳しい方なら、お名前も直ぐお分かりになるのでしょう。
でも私のような素人にも分かるんですが、お背中の光輪が
お欠けになってしまっておられ、お姿の彩色も、
剥げてしまわれ、お寂しそうでした。
お納めされている、祠が雨風をシッカリ防いでいるとは
とても思えませんでした。
文化財として、守護仏として、お納めされて居られるの
でしょうかと、思えてしまったのですが?
祠の正面上の方に、この仏様の、由緒が書かれていたと思える、
炭筆の後があったのですが、すう文字が読み取れるだけで、
ほとんど消えてしまって、私には読み取ることは
出来ませんでした。
どの様な、悲惨なご経過が、おありになられたのでしょうか。
その隣の祠に、お坊様の座像が在りました。
此方も、由緒など分かる物は、見当たりませんでした。
お隣の、仏様以上に、風雨に耐えるとは思えない、
祠に安置されていました。
経緯を知らない余所者ですので、寂しくなってしまいました。
地区地区で、文化財を管理することの難しさを、
思ってしまいました。
素人の単純な疑問:
仏様も、お坊様の像も、お寺さんだよね。
何故、お宮様の中に奉られているの?
<追記>
何故、仏像が、八幡宮の敷地内に安置されているのか、
不思議に思っていたのですが、談山神社の項目を
散策している内に、解ってきたような気がしてきました。
勿論只の歴史好きの妄想なのですが、
談山神社は、多武峯妙楽寺(とうのみね みょうらくじ)
というお寺さんだったものが、明治維新の混乱時に、
どんな騒動があったのか、僧侶が衣を脱いで
還俗してしまい、お寺から、神社に変わってしまいました。
此処、筒井町の八幡宮でも、もしかしたら、
この、明治維新の混乱に巻き込まれてしまったために、
廃仏毀釈の一貫として、仏像の法輪が、壊れて
しまったのでしょうか?
そのイワレや、言い伝えを無性に知りたいと思うのですが、
地元の人にとっては、「迷惑、余計なお世話。」
なのでしょうね。
もしご存じの方が居られましたら、
是非ともコメントお願いします。
住所:奈良県大和郡山市筒井町1322
都塚古墳 蘇我稲目の古墳
石舞台古墳 蘇我の馬子の古墳の南すぐ、探索。
石碑が露わに見えていました。
<確認>
蘇我氏 4代 稲目 ー 馬子 ー 蝦夷 ー 入鹿
馬子の石舞台古墳から、すぐの場所にあり、稲目の古墳と
想定するのが、無理のない解釈と思いました。
住所:奈良県高市郡明日香村坂田 くつな石 恐ろしい石に誘われて、迷走探訪。 【 これより約1km 】 入口と思えるところに、案内板がありました。 住所:奈良県高市郡明日香村坂田 岡寺 草壁皇子 岡の宮跡に創建 お参り 飛鳥にあり、小山の、森のなかにひっそりとした 後からインターネットで調べてわかったのですが。 此処、岡寺では明治維新の神仏分離の騒動で、 住所:奈良県高市郡明日香村岡806 亀石 再訪問 なぜ、レプリカ X 偽物を作る必要があったの?? 飛鳥資料館 住所:大阪府八尾市服部川(大字)956 平成29年8月3日~5日の散策は、 何気なく訪れていた、神社、お寺を見る目が変わって 神仏分離の前は、神仏習合で、 近所の村のお社、と思える小さな社に行ってみました。 以前に、宝塚市の中山寺に行ったことが有るのですが、 ◎ 古代史 のんびり散歩 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。
都塚古墳のそばに、とても興味の湧く、恐ろしい石の案内板。
ナビ使用不能。スマホ地図探索で、迷走。
祟りに怯えています。
「くつな石」の由来
昔、この巨石に目を付けた石屋が石を切
り出そうと、石鏨で「コン!」と一打ち…
すると石の割れ目から、赤い血が流れだし、
傷ついた蛇が顕れた、驚いた石屋はその
まま逃げ帰ったそうな、ところがその夜から、
ひどい熱と激しい腹痛におそわれ、とうとう
なくなってしもうた、村人たちは、これを
「祟り」と恐れ、敬い、この石を「神の宿る石」
として祀った。
それがくつな石である。
大字 阪田
景観ボランティア明日香
TOTO水環境基金による
これを見てしまったら、行かない訳には
ゆきませんよね!
長い坂道 お疲れさまでした。
出入口は、イノシシの侵入を防ぐため、チェーンが
巻かれてありました。
解放後必ず閉めるように、案内板の指示がありました。
登り坂の小道を登って行った先に、
鳥居が見えてきました。
口を結んだ、怖そうな石が見えてきました。
このブログで、くつな石を見てしまった、あなた。
あなたに祟りがありませんように。合掌 (*_ _)
きれいな水の、小川のせせらぎが聞こえました。
都塚古墳の傍に、案内板があります。
平成29年10月6日 編集校閲中
天武天皇の子、草壁皇子にゆかりのあるお寺
岡寺を散策させてもらいました。
草壁皇子の父親は天武天皇、
母親は鸕野讃良皇后(うののさららひめ)持統天皇
岡宮で、草壁皇子と共に、養育された、義淵(ぎえん)が
後に、龍蓋寺(りゅうがいじ)として建立された。
雰囲気の中にある、お寺でした。
右奥から、本堂、開山堂、桜堂
本堂の隣の、開山堂は前日に散策してきた、
談山神社にあったお堂で、明治維新の神仏分離政策のため、
この岡寺に、明治5年に仏像ともに、移設された、
(追い出されてきた)という、悲しい、いわくがあることが
解りました。
談山神社で、明治維新の後、何処へ行ってしまったんだろうと
心配していた、仏様は、此処、岡寺に無事移されて
おられたのですね。
宗教に、政治が絡むと、今も昔もこんな悲しい事に
なってしまうんだ。
参道を登ったところを、左に曲がれば、岡寺、
右に曲がった先に、お社があり、治田神社の
案内がありました。
お寺さんが優位になったのでしょうか?
談山神社から、開山堂を坂道があり、かなり遠い
ここ岡寺まで、運ばなければならない、異常な混乱が
想像できるようです。
平成29年10月 2日 編集校閲中
中学の遠足で来たときと、周りの風景が大きく変わって
いました。
今から、55年も前の話ですので、変わっているのは
当たり前なのですが、おぼろ気な私の記憶では、
田んぼと畑が連なっている、畦道の横に、その周りには、
何も無いとことに、突然、ドカンと大きな亀が
「どうじゃ何か文句あるか!」とばかりに幅を効かして、
踞って居るのを見つけ、一緒に遠足に来た中学生の友達たちが、
順番に、歓声を揚げていたのを、懐かしく思い出します。
その時に感じた、開放的な気持ちが、今回見に来て、
起こらないのです。
実は今回、亀石にお会いしに来たのは、最近、飛鳥資料館を
訪れたとき、その庭に、昔遠足で見た、亀石が置かれており、
「あれなんで、此処に移されているの?」と思っていましたら、
「此処に置いておいた方が、心配しなくて良いよね。」と
案内されておられる人がいて、それを聞いて、
「それは違うだろう。周りが田んぼしか無いところに、
あるから良いのに!」と思い、
「あそこは今どうなっているの?」と心配して来ました。
皆さんはどう思われますか。
一度見に行かれて、ご感想をお聞きしたいです。
飛鳥資料館の庭に展示されている 亀の石
どっちが本物??
その昔に、此処に置きたいから、亀の石を造られたのだから、
元の場所に、偽物を作って置くのは、作った人に、
とても失礼な行為と思います。
住所:奈良県高市郡明日香村川原108
住所:奈良県高市郡明日香村奥山601
8月5日(土)晴れ、酷暑
高安城跡 探索
私が、興味を持つ程、認知されてないようで、行くのに
大苦労、蚊の大軍と、暑さに、へとへと。
近鉄 西信貴ケーブル利用 40分に1本 がらがらでした。
高安山駅 から、徒歩15分 暑かった。
気象庁生駒レーダー監視所の直ぐ側でした。
生駒レーダー監視所の横に、高安城跡の案内板が
ありました。
レーダー監視所の斜め前に、入っていけそうな、
わき道がありそうでした。
そこを入ったところが、高安城跡とナビが
誘っていました。
でも、猛暑と蚊の大軍が、煙幕を張り、進入を
頑強に拒んでいました。
「又今度でもいいか、蚊の少ないときに来よう。」
帰りのケーブルカーから、大阪高層ビル街を望む。
しかし、よくこんな高い処に城を造ったもんだ。
高安山気象レーダー観測所 付近
<あとがき>
平成29年10月17日 編集校閲 終了
定年後、「難波宮って?」で始めた、歴史散策で、
大化の改新から、壬申の乱をテーマに、散策を続け。
散策すればするほど、調べれば調べる程、その散策先がますます
より向こうへ、向こうへ行ってしまいます。
今回は、気楽に、前もってあまり調べないで、
散策したのですが、その気楽さが、思っても居なかった、
歴史の裏側を、垣間見さされてしまいました。
気が付かないほうが良かったと、後悔?しています。
しまいそうです。
お寺はお寺、神社は神社とその関連性そして、役割分担など、
皆目考えていなかったのですが、明治時代以前は、そうでは
なかったのですね。
今回の散策で、気付かされてしまった、明治政権の
「神仏分離」政策が影響したんだろうという事が、
幾つも出てきました。
私の独り合点かもしれないので、軽い妄想と思って
聞いて下さい。
(神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、
日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が
混淆し、一つの信仰体系として再構成(習合)された
宗教現象(ウィキペディアより))
早い話が、「一緒のほうが便利やんか。」という訳ですよね。
五穀豊穣も、心の和らぎも、一緒の処で、得られるのだから。
今まで気が付かなかったのですが、鳥居をくぐり、お社の前に、
古い石の灯籠があり、その側面に、念仏宗門徒、寄贈と彫られ、
読めなかったのですが、年号も彫られていました。
もちろん、明治以前の年号と思えました。
お社の前に、念仏宗寄贈の灯籠。考えれば、不思議ですよね。
その時、お寺の端に、道を隔てて、
市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)が在り、何気なく、
お参りしたのですが。
その境内の中に、立て札があり、中山寺より、○○円寄贈と
書かれていました。
それを見ていましたら、地元のご老人が居られ、
「中山寺、なかなか気前がいいやろ、
神仏分離で、手放してしまったのを、
今でも後悔してるようやで。」
と話されていました。
もう一つ意味がわからなかったのですが、
今回の散策で、少し、神仏分離、探ってみようと思いました。
市杵島神社 お社
秋祭りが近づいて、幟が立てられていました。
お社 小じんまりとした村の神社の趣。
由緒の石碑が在りました。
秋祭り用に、垂れ幕がありました。
奉納者に、中山寺の名前が。
神社運営者の看板に、中山寺の名前が在りました。
スタートページ です。
(新作順表示)
◎ 目次ページ
(創作順表示)
◎ 「難波宮ッテ?」
古代史感のすれ違い
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