難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

額田王姫(ぬかたのおおきみ)へ、君が袖振る?

2021年12月31日 | 歴史

 令和2年1月31日
 追記  3年 12月 12日 

  額田王姫の真意を読み解きます。
   やってみなければ!
     素人の冗談です。 (^_^;)


 壬申の乱と、額田王姫(ぬかたのおおきみ)の、
関わり、絡みを見極めたくて、理系文字音痴の私が
謎を探れば探るほど、闇が深まるのです。
いやむしろ謎そのものが霞んでくるのです。

 額田王姫の万葉歌に酔いしれ、興味を抱いてしまった歌を
後半で追記していきます。
 大化の時代 〜 現代に至るまで、彼女の才能は、日本才女の
基準を大きく超えていたと確信出来ます。 (*´∀`*)
 このブログに、お越し頂きまして有難うございました。
きっと貴方も、蒲生の森の歌のとんでもない、私の勝手な
解釈を読んで下されば、男の方も、女の方も、きっと
額田王姫の才能の、奥深さと魅力に、私と同じように、
惚れ込んでしまわれると、確信しています。

 このブログを、読んでくれている知人からは、
「何をダラダラしてんの? ミンナ、万葉集のせいにして、
 三人の絡み合いでケリをつけたらいいじゃない!」

(三人: 天智天皇、天武天皇、額田王姫)
「壬申の乱も面白いけれど、『歌声喫茶 ピープルズ』の紹介
ブログを早く、もっと面白おかしく展開をして下さいよ!」
と、
男前の円広志似さんや、美人を絵で書いたような、
綾瀬はるか似さん
、から急かされています。

 確かに、私のブログに、このページを立ち上げたときは
スマートに、簡単にと考えていたのですが、つい(ウカツにも)
この史料の中心になっている、歌が全て、万葉集から引っ張り
出されたものですから、万葉集に興味が惹かれ、少し本屋で、
万葉集 解説書の立ち読みをしてしまったのが、
まさにウカツの始まりでした。

 額田王姫が素敵な個性的な歌を読んでいた、
西暦650年以降、七世紀後半(今から千三百年前)その時代、
まだ日本ではひらがなや、カタカナが使われて
いなかったのですよね。
 正規文書は、唐の様式の漢文で書かれていましたが、
一般の人には、難しすぎるので、地名や名詞は漢字を使い、
国語で習った、漢の点(返り点)等を使って、文章を
行ったり来たりするのは面倒だから、日本人が普通に、
シャベルような順番で、テニヲハを漢字で代用したのです。
 それが万葉仮名なのですよね。主に和歌や、手紙などの
私的な文章に、使われていたのですよね。

 話す言葉の音を、漢字の音に合わせて、文章にしたのです。
例えば、「はるくさの はじめのとし」
    (春草の 初めの歳) は
 「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」 と書かれ、難波宮跡から
 (はるくさのはじめのとし)
発掘された木簡に書かれていました。
もちろん書かれる漢字の意味を大事に利用しています。
 特に女流歌人(もちろん額田王姫)の歌に見られました。
 漢字の使い方も実に楽しいものが多くあります。
例えば、「二八十一」と書かれていると、どう読むと思います?
二は、 八十一は、掛け算の 九✕九=八十一ですから、
答えは くく です。
例えば、「きみにくく」は「君二八十一」と書いたのです。
もちろん、憎(にくい) という字も知っていたでしょうが、
和歌に憎いは使わないという、当時の日本人の心の深さが
とても嬉しいですね。
これを知った私は、千三百年前の日本人の漢字応用力に感銘
してしまいました。

 それで取り敢えず、蒲生の里での歌の原文を探してみました。

 額田王姫の歌(万葉集 原文)
 茜草指 武良前野逝 標野行
  野守者不見哉 君之袖布流

 読めますか? (*_*)

 大海人皇子が続けて読んだ歌
 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者
  人嬬故尓 吾戀目八方

 これも難しいですね。

 私は何が何やら、取り敢えず、????でした。
でも、これが、皆が知っている歌を額田王姫と大海人皇子
本人が宴会の席上で、皆の前で、歌詞札に書いて歌った
原文なのです。

 669年 この年の正月に、遷都していた大津の宮で、
中大兄皇子が、天智天皇として天皇に即位し、
お祝いを兼ねた大事な催しが、5月に蒲生の里で
狩猟として、重臣がことごとくお供に従って、
とりおこなわれたのです。
 その狩猟のあとに行われた、宴会の席での歌です。
その場の雰囲気を考えれば、国の明るい明日を夢見て、
明るく歌ったハズですよね。
 それを念頭に、文字を追ってみましょうか。

 茜草 あかね (赤い染料の花)で さす(指し示された)
 ここは普通に、理解してしまえますね。

     さき    ゆき(逝ってしまう?)
 音に漢字を当てはめただけ? 漢字の意味は関係ないの?

  しめ(指し示す目標)   ゆき(行く)
 これから行く目標を指し示すと言うこと?

 野守者 のもりは(のもりって誰?)
  不見 みず  (見たの見なかったの?)

 誰が何を見たのかな?

 君之 きみの(貴方が) そで 布流 ふる(袖を振っている)
 袖を振っている人は誰? 大海人皇子? 天智天皇かもしれ
ないよね?

 あれ、私がこの歌の意味を、クラス担任で中学の日本史の
清水先生に教えてもらった。
「もお、私に気づいて欲しくて、皆の前で手を振って!
 だめでしょ、バカ!」

 その光景は何処へ行ってしまったんでしょう? 


  滋賀県 蒲生の里公園 パノラマ壁画

 このお手振りの光景は、後から推理しますが、その中で、
気になりだした部分が2箇所あるのです。次の大海人皇子の歌
から推定されたのですが。
その歌の始めに、紫草能 むらさきの と出てくるのです。
額田王姫の歌では、武良前野逝 むらさきのゆき でしたよね。
同じ光景を歌っているはずなのに、何故違うのでしょうか?

 次に気になりだしたのは、むらさきの逝きと、標野行き です。
同じ、ゆきなのに、使われている字は 逝き 行き で違うの
ですよね。??
 辞書で調べたのですが、行く は物理的な移動で、逝き
葬儀の時亡骸の古人を、あの世へ逝くのを見送るように、去る、
亡くなるを表すときに、使われる文字なのですよね。
 という事は、亡くなって、むらさきのへ、逝ってしまった。
と読んでいるのでしょうか?!!
 という事は、その前の 茜さす は赤い染料の花で、
赤い血の色を表し、もしかして、百済の白村江の戦いで、
沢山の日本人が、赤い血に染まって亡くなったことを、
嘆き悲しんでいるのでしょうか?

 あっ すみません、歴史も、古文も、あやふやな
理系老人の妄想です。

 ここで、万葉集に興味を持ち、参考書を本屋で数冊
買ってきて、闇雲に走り読みをした、浅はかな知識内容で、
独りよがりの解説をさせてください。

 一番驚いたのは、万葉集が出来上がった後、150年ほど
後の、平安時代には、ひら仮名、カタ仮名が広く普及して、
漢字を当て仮名にした、万葉仮名で出来ている万葉集は、
一般的でなくなり、読める人が少なくなってしまって、
歌の意味も、理解できなくなっていたようなんです。
朝廷もこれは不味いと、専門委員会を作り、万葉集の保存に
動いたのです。
 何か、今の政府と同じような流れですね。日本人の習性か?

 平安時代でも、そんなことですから、さらに時代を下った、
徳川幕府の江戸時代では?
何か寒気がしてきたでしょう。

 万葉集の内容は、平安時代に平仮名で書き改められた歌に
なっていたのです。
読みやすい、万葉集として江戸時代の知識人に、大流行した
らしいのです。

額田王姫の歌は。
 あかねさす 紫野行き 標野行き
  野守りは見ずや 君が袖振る

大海人皇子の歌は。
 紫の 匂える妹を 憎あらば
  人妻ゆゑに 吾恋めやも

 として、江戸の文化人に記憶されたのです。
(あれー、元の歌と全然違うやんか?!)
 誰かが、恣意的に(無理矢理に)変えたとしか思われない
ですね!

 額田王姫がこの歌を歌ったのは、当時世界最強の唐と
馬鹿な戦いをして無残に破れた、百済(朝鮮)白村江の戦い
(663年)から、わずか6年目の669年。
 江戸時代にこの歌に出会った人は、壬申の乱から
千百年以上も後の人。
 我が国日本だけでなく、どの国の歴史も、自分の国に都合が
悪い歴史は、忘れ去られ、消されてしまうのですよね!
江戸時代では、恐らく百済 白村江の戦いで、多くの日本人が
無残に殺された歴史を知っている人は、少ないと言うより、
ほとんど居なかったと、想像できますよね。

 太平洋戦争の後、昭和22年に生まれた私は、戦後日本に
やって来た、当時世界最強の米国の進駐軍(占領軍)(GHQ)
日本人は皆んな、彼らをヤンキーと読んでいました。
そのヤンキーは、近所のおばちゃんからは、
「何回も何回も傍若無人に、若い婦人を
 襲ったりする、怖い最低の、人で無しの外人や」
と、
聞かされていました。幼かった私の、記憶の中のヤンキーは、
近所のお兄ちゃんと一緒に叫んだ、
「ギブミー チョコレート!」として、刻み込まれています。
戦後70年以上経って、今の若い世代の人達に、GHQ ヤンキー
と言っても何の事か分からないと、容易に想像できますよね。
実はこれには重い歴史の裏話があり、私達戦後を経験した
世代が見てきた、進駐軍の記録が、日本の報道機関の倉庫の
中に残っていないのです。
 そうです、マッカーサー GHQの言論統制のせいで、進駐軍
(米兵)を、カメラで取ることを、ニュースでも、映画でも
一切禁止されていたからなのですよね。
私と同じ世代の人は、テレビのない時代でしたから、よく
行った映画館で、米兵が出てくる映画を、見た記憶が
ありますか?、かろうじて、米国映画や、海外ニュースで
見られただけで、日本制作映画では、絶対に見て
いないのです。
ましてや今の若い世代が、進駐軍の制服も、その存在自体を
知らないのです。
 これは冗談ではなくて、とても悔しい、真実の話です。

 同じ事のように、江戸時代の人には、「壬申の乱」は
天皇さんの大昔の歴史物語として、知られていたとしても、
その「壬申の乱」があった、8年前(ムッムザン663年)
百済の白村江での無残な大敗北を、知っている人、理解
している人は、江戸時代の知識人でも、皆無に近かったと
容易に想像できますよね。

 朝鮮半島の、百済 白村江で唐に破れてから、
千百年後の江戸の人が、額田王姫と大海人皇子のこの歌、 
逝くが ⇒ 行くに変わってしまった、
この歌に出会って、どの様に理解したでしょうか?

「もお、私に気づいて欲しくて、皆の前で手を振って!
 だめでしょ、バカ!」

と想像しますよね!
 そしてその想像が、2百年も後の昭和まで、
(平成も令和も)当然この歌の隠れた本音として、
私も含めて、学校で教えられたんですよね。
 そこの万葉仮名の本文には、 逝く の文字が使われていた
なんて、この歌を教えてくれた、歴史の先生も、誰も知りません
でしたからね。

 ここまで、瞑想してきて、遠い高校時代の古文の時間の事が、
思い出されてきました。
 古文の先生の名前を忘れてしまったのですが、そう言えば確か、
「この歌には、逝くと、行くの字が使い分けられており、
今の我々が理解している、恋歌では無いかもしれない。」
と言い出され、聞いていた教室の皆は、
「えっ、皆の前で、手を振って、だめでしょ、バカ!」
ジャー無いの? と戸惑っている間に、授業時間が終わて
しまいました。
 一部の文学者の間では、恋歌ではないことが、想定されて
いたのかもしれません。

 ここまで来て、この歌の万葉仮名の、当て字が気になりだし、
調べだしてしまったのですが。
それは、額田王姫の歌、武良前野逝 むらさきのゆき
当て字です。使う漢字は呼びがなと共に、その文字の意味を
含んでいるんだと思ったのです。
だって!その時代、女流歌人を代表する人物ですよ。音だけが
合う文字を、意味もなく使うはずがないジャー無いですか。
そうすると、先程の私(理系老人)の妄想と繋ぎ合わすと、
とんでもない、迷推理が成立するのです。

  つよく よい(戦士が) さき(先の戦いで)
  ゆき(亡くなった)

 強くて立派な武人が、さきの百済白村江の戦いで亡くなって
 しまった。

 額田王姫は、その6年前の百済への出兵のときに、
斉明天皇に付き添い、大海人皇子 中大兄皇子 鎌足らの
政府中心人物たちと、北九州まで行き、百済に向かう
武人を、それ征けと見送ったのですよね。
そして勇ましい武人の大半が百済で、唐軍に殺され、二度と
日本に帰ってこれなくなってしまってから、
わずか6年しか過ぎていない、この歌会の中で。
まだ、その無残な思いを、天智天皇の即位の宴会に参加した、
皆んなが、胸の中に持ち続けているはずですよね。
その苦しく辛い思いを、「百済 白村江」の戦いを、知り尽く
している 額田王姫が、歌にしないはずが、ないジャー無い
ですか。
 その無残な思いは、私だけではない、この宴会に来ている
政府要人の、多くが持っている無念と信じ、勇者に対する
鎮魂の思いを込めて、歌にしたのだと私は確信しました。
 たとえ、それで多くの人から非難されてもいいと思い、
この歌を歌ったと想像してしまいました。

 その後に歌われた、大海人皇子の歌は、自分も、その悲劇の
責任者として、歌の意味を理解した上で、少し皆を和ます
ために、恋歌の答え歌として、読まれたとして、解釈すると、
その歌の意味がよく分かりますね。


 ここまで額田王姫のこの歌に対する、思いを、推理してきて、
上の句の、武良前野逝 むらさきのゆき
この後に続いている、句を無理やり推理してみます。

 上の句の残り。
  しめ(指し示す目標)   ゆき(行く)

 下の句
 野守者 のもりは(のもりって誰?)
  不見 みず  (見たの見なかったの?)

 君之 きみの(貴方が) そで 布流 ふる
 (袖を振っている)
 

 上の句の残り一行の解釈が、一番推理しにくいですよね。
そしてこの一行の解釈を知りたくて、書店に通って、随分
専門書を読み漁ったのですが、スッキリ、納得できる解釈に
出会えませんでした。
「何を分からいことを言ってるんや、
 素人はこれやからコマル。」

 という声が聞こえて来そうですが、少し付き合って下さい。

 標野行  たった三文字
 平安時代からは、標野行き ⇒ しめのゆき と無理やり
勝手に変化させられています。
 万葉集の多くの解説本では、標野は;
「皇室や、貴人が専有し、一般人の立ち入りを
 禁じた野。」
つまり、ロープで張り巡らし、一般人を排除した、
貴人用の狩りをする野原と、標示された場所と、
解釈している本が多いですね。でも?
そんな、身分で差別するような、いやらしい言葉をわざわざ、
額田王姫が歌の中に読み込みますか?
 最初にそんな解釈をした文人の常識を疑いますよね。
しかもその根拠が、なんと巡り巡って、額田王姫のこの歌
なんですよね!
何も肝心なことが分かっていない、馬鹿じゃない!!
日本の文化人の質の低さを、言い争っても仕方がないので、
先に進みます。
 この行は、上の句の最後の行で、上の句の締めくくり
なんですよね。
上の句の二行では、良き武人が沢山、百済で、赤く血に
染まって、亡くなったと、読んでいますよね、そうすると、
標は、攻めていけと指示させた、目標の場所となり
ますよね。
 あえて読み下すと。
 「命令されて攻めて行った百済で、良い武人が沢山
  赤く血に染まって、亡くなってしまいました。」

となりますよね。
 そお解釈するしか無いと思うのです。そうすると続く
下の句は?

 野守者不見哉
 君之袖布流

 下の句の二行は、普通に解釈できそうですよね。
 野を守る者は(戦いに駆り出された、兵士は)
  見たでしょう。
 君の袖を振っているのを(君がそれゆけ、戦い開始ジャーと
 攻めて行く場所を指揮していたことを)

 読み下しますと。

 「亡くなってしまった兵士は、貴方の指示された
  通りに百済に攻めて行ったのですよね。」

 ここまで来て、私の解釈の大きな矛盾にブチ当たりました。
この歌を歌ったのは、天智天皇の即位を祝って催された、
宴会なんですよね。
 その目出度い席で、こんな暗い歌を歌うハズガナイジャ
無いですか?

 もし歌ったのなら、よほど天智天皇に暗い思いを、
持っていたか、白村江の戦いの惨敗が、その惨めさが心を
占めていたと、思えてしまえました。
 70歳より高齢の方は、太平洋戦争の敗戦から6年後の
昭和26年当時を思い起こして下さい。
戦争に負け、近所には、戦地から命からがら落ち延びて来た
手や足を失くした、オッチャンが沢山いて、辛くて悔しい話を
してくれました。
 これから日本を創っていく若い世代に、自分の無念を
分かって欲しかったのでしょうね!
私は今でもその話を思い出して、涙が出てきます。
千三百年前の、その当時も、同じ状況だったと容易に想像
できますよね。

 太平戦争の惨めな戦後を、経験していない人は、
ついこの間、日本を襲った、大震災、
「阪神・淡路大震災」(1995年)
「東日本大震災」(2011年 もうすぐ 10年目)を
思い返して下さい。
 指導者の間違った判断で、亡くなったり、大惨事になって
しまい、悔しい悲しい思いを沢山の人がしています。
その状況を想像して下さい。
 心より ご冥福をお祈り申し上げます。 合掌

 念を押します、白村江で亡くなった兵士の数は 4万人、
当時の日本の人口=550万人。換算すると80万人が戦死し、
日本に、帰ってこれなくなったんですよ。
まさか帰れなくなるとは思いもしないで、四国の松山
道後温泉の港で、額田王姫は、出陣の準備をしていた、
兵に向かい。
 熟田津に 船乗りせむと 月待てば
  しおもかないぬ 今はこぎいでな

 熟田津尓 船乗世武登 月待者 
  潮毛可奈比沼 今者許芸乞菜

と、威勢よく兵士のお尻を叩いて、送り出したのです。
(注;この歌を書いたのは実は、斉明天皇とされています。
   でも、皆に声に出して、それ 征けと歌ったのは
   額田王姫です。)
その悔しさと、懺悔の心は如何ほどだったでしょうか?

 茜草能(あかねさす)の、万葉仮名の原文で読み解いてきて、
この歌は解りやすいと、思ってしまったのは、
私だけではないでしょ?
このブログに、お付き合い願っている、皆様もキット同じ様に
思っておられるでしょ。
 この中にも、の文字が使われており、きっと勢いよく
出発してほしいという、気持ちが込められていそうですね。
 専門書の解説には、芸乞菜は菜を乞う芸(技)で
平素は穏やかな農家であることを、忍ばしていると
書かれていました。胸が痛いですね。
 万葉集って、奥が深いですね。

 その胸の痛さを、つよく持っているから、白村江の戦いの
6年後に額田王姫は、この歌を作ったのですね。


 ここまで来て思い出しました。
この項のブログ「額田王姫へ、袖ふる?」 で女の戦いから、
壬申の乱が始まっと思いこんでいて、蒲生の里での歌会の
様子を創りあげようとしていたのですが、額田王姫は、
そんな小さな女性では無かったことを、男を取り合って、
オロオロ、ウロウロする女では無かったことに、
心底思い至りました。
皆さんも、額田王姫に持っている、間違った淫乱な印象を
捨てて下さい。
<額田王姫に一礼!>

 でも困った、今創っているブログ
 「女の戦い?「壬申の乱」」は、
どうしましょう?  (-_-;)

 私は額田王姫を、とても好きになってしまいました。
宴会の席で、国のために亡くなった、人を弔う言葉の歌を
歌えるなんて。
 あれ? もしかしたら。
宴会の席で、歌札にこの歌を書き、その歌札を自分で持って
読み上げたのですよね。
書いた歌札は自分で持っているのですよね。
 どんな字が書かれているかは、背中から覗き込まなければ、
誰も見れませんよね。

 茜草指 武良前野逝 標野行
   野守者不見哉 君之袖布流

 万葉仮名の 逝き行きの違い、
他人からは見られませんね。


 アッ そうか! 書かれている漢字が見れなかったから、
額田王姫の本音が読めなかったから、大海人皇子が。

 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者
  人嬬故尓 吾戀目八方

 紫の 匂える妹を 憎あらば
  人妻ゆゑに 吾恋めやも

 恋歌と思い込んで、鼻の下を伸ばしたような、
返歌をしたんだ。

 大海人皇子が額田王姫の歌を自分への恋歌と勘違いした
状況を、考察してみたくなってしました。
 この歌を読んだのですから、大海人皇子は狩猟の時に、
額田王姫へ手を振っていたのだ、もちろん額田王姫に見える
程度に、小さく。(ちょろちょろと。)
 そのしぐさを、額田王姫が気がついたかどうかですよね。
   (^_^)
 額田王姫が歌いたかった、白村江の戦いの心の痛みを
考えれば、この痛みを皆に分かってほしいけれど、
やはり負け戦のことを、この席で歌うのは不味いよね?
「アッ ソウダ、そう言えば狩りの途中で、大海人皇子の
 バカが、ヌケヌケと、私に手を振っていたわよね!?」

 額田王姫が、歌札にどんな漢字を使っているかは、歌札を
見られなければ分からないから、聞いているだけなら、
私の心のトゲを文字に忍ばせて、聞いているこの宴席の
人々には、恋歌と思ってしまう歌を創ってみようと思い、
そして、その歌には、
「決して無闇に、他の国に攻めて行ってはイケナイ。」
という戒めを残したいと、強く念じこの歌を創ったと
想像するのは、当然の帰結と考えられますよね。
 そして、もしかして、額田王姫のこの思いが、使われている
漢字を見ても、逝くと、行くの違いが分からない人が多く
いるかもしれないけれど、きっと、私の思いを分かってくれる
人が現れる。もしかしたら、千三百年後の男前の(ワタシ)
MITUNOBU
さんなら、分かってくれると信じて、
この歌を創ったと想像できます。
(えっへっへ! 言うたもん勝ち。) \(^o^)/

 「女の戦い?「壬申の乱」」



 令和 2年4月1日 追記開始
 額田王姫の心を知りたくて!





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◎「歌声喫茶って 知ってます。」





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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。


 


 



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