NPO法人 くまもと文化振興会
2017年6月15日発行
《はじめての漱石漢詩》
初出雑誌発見
永田 満徳
晩年の漱石が漢詩の創作に熱心であったことはよく知られている。晩年の漢詩に注目されがちであるが、和田利男氏によれば、少年時代の作から英国留学の途に上る明治三十三年の秋までを第一期として、この期の漢詩には「従来の漢詩にはまったく見られなかった自由清新な発想によるもの」があると指摘している。
そこで、明治二十九年四月第五高等学校赴任から明治三十三年六月英国留学までの、いわゆる漱石の熊本時代の新資料が熊本の新聞、雑誌などで発見できないかと渉猟してみた。
その結果、「丙申五月。恕卿所居庭前生霊芝。恕卿因徴余詩。」(以下、「丙申五月」)云々の漢詩は熊本で発行されていた「九州教育雑誌」六百七十号(九州教育雑誌社)に明治三十年一月三十日刊に発表されていたことが分かった。また、明治三十年二月十日刊の「龍南会雑誌」の〔文苑〕欄に転載されていることが分かったのである。
一 『漱石全集十八巻 漢詩』の定稿
丙申五月、恕卿 丙申五月、恕卿の居る所、
所居、庭前生霊 庭前に霊芝を生ず。恕卿
芝。恕卿因徴余 因って余が詩を徴す。余、
詩。余辞以不文。 辞するに不文を以てす。
恕卿不聴、賦以 恕卿聴かざれば、賦して
為贈。恕卿者片 以て贈と為す。恕卿なる
嶺氏、余僚友也。 者は片嶺氏、余の僚友なり。
五首 明治二十九年十一月十五日
〔其一〕 〔其の一〕
階前一李樹 階前の一李樹
其下生霊芝 其の下に霊芝を生ず
想当天長節 想うに天長の節に当る厥厥
李紅芝紫時 李は紅に芝は紫なる時
〔其の二〕 〔其の二〕
禄薄而無慍 禄薄くして而も慍る無く
旻天降厥霊 旻天 厥の霊を降す
三茎抱石紫 三茎 石を抱いて紫に
瑞気満門庭 瑞気 門庭に満つ
〔其三〕 〔其の三〕
朱蓋涵甘露 朱蓋 甘露を涵し
紫茎抽緑苔 紫茎 緑苔より抽きんず
恕卿三顧出 恕卿 三顧して出で
公退笑顔開 公退 笑顔開く
〔其四〕 〔其の四〕
茯苓今懶採 茯苓 今採るに懶く
石鼎那烹丹 石鼎 那ぞ丹を烹んや
日対霊芝坐 日に霊芝に対して坐せば
道心千古寒 道心 千古に寒し
〔其の五〕 〔其の五〕
氤氳出石罅 氤氳として石罅より出で
幽気逼禅心 幽気禅心に逼る
時誦寒山句 時に寒山の句を誦し
看芝坐竹陰 芝を看て竹陰に坐す
『漱石全集十八巻 漢詩』の定稿は漢詩人本田種竹の添削に従っている。なお、本田が添削した詩稿は『夏目漱石遺墨集』第一巻(求龍堂・昭和五十四年五月)の写真版で見ることができる。
この時期の後半、正岡子規を介して本田に添削を依頼したり、後に同僚の長尾雨山に批点を受けたりすることもあったが、もっぱら自作の漢詩を子規に示して、批評を聞く程度であった。子規と親しかった本田種竹への添削依頼は子規を介してとはいえ、漱石自らが希望したものである。本田種竹は京都で漢詩を学び、長尾とともに「日本」新聞に拠って、森海南らと対立していた。
ところで、この詩稿が「九州教育雑誌」、さらには「龍南会雑誌」に発表されていたのである。漱石は「九州教育雑誌」・「龍南会雑誌」掲載の漢詩に本田が添削した詩稿通りに掲載している。漱石の本田種竹への信頼の証がみてとれる。
二 「九州教育雑誌」、「龍南会雑誌」への転載
「九州教育雑誌」の〔文藻〕欄には片嶺芝園(芝庭改)、本名片嶺忠編集の「随蒐錄」の中に収められ、その冒頭に掲載されている。「丙申五月」の漢詩は「先頃学校の教務掛の庭に霊芝とか何とかいふものが生たと申すにより小生に其詩を作って呉れと申し来り候」という子規宛書簡(明治二十九年十一月十五日付)にあるように、第五高等学校の教務係片嶺からの依頼で作られた。従って、片嶺忠は、「九州教育雑誌」に掲載するのを前提にして、明治二十九年四月第五高等学校に着任して半年を越えたほどの漱石に漢詩創作を依頼したものと考えられる。もちろん、漱石が漢詩をよくする人物であることを知ってのことである。
さらに、片嶺芝園は、明治三十年二月十日刊の「龍南会雑誌」の〔文苑〕欄に「随蒐録」そのものを転載し、「随蒐録 第五」として、この「丙申五月」の漢詩を掲載している。
従って、「丙申五月」の漢詩の初出は「九州教育雑誌」〔文藻〕欄ということになる。ただ、片嶺芝園は、「龍南会雑誌」の〔文苑〕欄に「随蒐録」を設け、計6回掲載しているので、「随蒐録」は「龍南会雑誌」〔文苑〕欄が主であって、何らかの関係で、「丙申五月」の漢詩を含む「随蒐錄」を「九州教育雑誌」に先行発表したのであろう。
「龍南会雑誌」の〔文苑〕欄掲載の「古別離」「雑興」は五高の同僚で漢詩人の長尾雨山が添削していることから、片嶺芝園は、「九州教育雑誌」や「龍南会雑誌」の掲載を斡旋する役割であったものと考える。
三 『漱石全集』の「丙申五月」の漢詩
『漱石全集』の「丙申五月」の漢詩は、初出は「九州教育雑誌」六百七十号(九州教育雑誌社・明治三十年一月三十日刊)で、後に「龍南会雑誌」(第五高等学校校友会誌・明治三十三年二月十八日発行)の「文苑」に転載されたものである。
なお、詳細な論考は拙論文(『方位』第二十七号、2009年11月刊)参照。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)