【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

【菫程な】の「 な ]考

2025年02月23日 13時25分50秒 | 夏目漱石

【菫程な】の「 な ]考!

[ 菫程な小さき人に生まれたし ]

〜 二つの漱石の菫の句を元にして 〜

 

現行句の確認

①初出[子規に送りたる句稿 二十三 四〇句〕 明治30年(漱石全集 第十七 岩波書店)

[ 菫程な小さき人に生まれたし ]

②短冊(大正3年か、4年)(『図説漱石大観』1981年角川)

[ 菫ほどの小さき人に生まれたし ]

➂自筆句(句碑・作成時期不明):子規記念博物館蔵

[ すみれ程の小さき人に生まれたし ]

自筆句は②「菫」は漢字、➂「すみれ」は平仮名であるが、②➂の「 の 」はいづれもそのままである。

 

参考:「菫程な小さき人」という表現は、明治41年の作品『文鳥』に再び「菫ほどな小さい人」として現れる。

「文鳥はつと嘴を餌壺の真中に落した。そうして二三度左右に振った。奇麗に平して入れてあった粟がはらはらと籠の底に零れた。文鳥は嘴を上げた。咽喉の所で微な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速やかである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつづけ様に敲いているような気がする。」

②広辞苑』第二版 1638P

・「 な 〔助詞〕」の項

格助詞(ノの転用)

体言と体言とを接続して連体修飾をあらわす。

 

[結論]

漱石自身は格助詞「 の ]のつもりで作っている。

〔菫程な〕の「 な ]は格助詞(の)の転用としか考えられない。

意味:菫ほどの小さい人に生まれたい

 

これまでに【菫程な】の「 な ]についての言説

名句鑑賞17 夏目漱石 | 林誠司 俳句オデッセイBlog

「菫程な」の「な」は軽い詠嘆をあらわす助詞。

「生まれたい」というより「生まれたいものだなあ……」というニュアンス。

 

名歌鑑賞Blog

注・・な=意志希望を表す。・・したい、・・のような。

 

『日本国語大辞典』(小学館)未調査

「なり」の連体形「なる」の語尾が脱落したもので、中世から近世にかけて、終止法にも連体法にも用いられた。現代語では、「だ」の活用の中で位置づけられ、終止法には用いない。

 

【注意】口語の断定の「 な 」と混同しないこと。

たとえば「きれいな人」という口語の形容動詞の「 な 」については、

①「きれいだ」は形容動詞で、口語(文語ではない)である。

②口語の形容動詞の連体形は「 な 」となる。

未然形:きれいだろう
連用形:きれいだった、きれいでない、きれいになる
終止形:きれいだ
連体形:きれいなとき
仮定形:きれいならば
命令形:-なし-

 

※ 画像:漱石の自筆句の句碑(京陵中学校の南側の道)

 

句碑:[ すみれ程の小さき人に生まれたし ]

 

熊本に赴任した漱石が現在の池田(上熊本)駅で降りて、この前の道を通って黒髪の知人宅へ向かったことから句碑が立っている。

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夏目漱石の「森の都」考

2025年02月23日 13時19分28秒 | 夏目漱石

夏目漱石の「森の都」考

 

永田満徳

 

「熊本は森の都」と夏目漱石は言ってはいない!

 

  • 熊本市歌2番における「森の都」:1930年(昭和5年)制定

熊本市歌2番

常盤(ときわ)の緑いらかを包み

森の都と世に謳われて  文運さかゆる平和の都   

われらの都大熊本市           (熊本市歌2番)

 

  • 「熊本は森の都」と夏目漱石が言ったという。

・夏目漱石が熊本に来た時に坂の上から熊本市街を見下ろして「あぁ、熊本は森の都だな」と思わず口をついて出たという。

・「肥後史談」『肥後史談』前編のp134で、郷土史家の平野流香氏が書いている。

 

夏目さんと熊本とを結びつけて考へる時、どうしても思ひ出さずに居られぬのは、先生の熊本に対する、第一印象の言葉である。上熊本から京町臺を通つて、一目に熊本の町を見下した時、『あゝ森の都だな』と思つたといふ事を、當時の『文章世界』か何かの上で云つて居られたのを、見たことがある。森の都――それは近年、わが熊本市の別號であるかのやうに、一般に用ひられるやうになつたが、その命名者が漱石氏であることを忘れてはならない。而してこの樹木の多い古風な森の都に、一世の文豪が、その數年の生活を送られた事を思へば、何だか熊本も、少々光彩を添へる様な氣がする。

 

論証① 『漱石全集』のどこにも「森の都」という言葉は出てこない

1.『漱石全集28 総索引』で「文章世界」の項を見ても、熊本に対する第一印象の話も「森の都」という言葉は出てこない。

⒉『漱石全集25』p249~250 に「名家の見たる熊本」(九州日々新聞 明治41年2月9日)が収められており、漱石自身の言葉で熊本についての第一印象が以下のように述べられているが、「森の都」という言葉は出てこない。

 

(明治29年・永田注)初めて熊本に行つたときの所感 夫れならお談いたしませう、(中略)然して彼の広い坂を腕車で登り尽して京町を突抜けて坪井に下りやうといふ新坂にさしかゝると、豁然として眼下に展開する一面の市街を見下して又驚いた、而していゝ所に来たと思つた、彼処から眺めると、家ばかりな市街の尽くるあたりから、眼を射る白川の一筋が、限りなき春の色を漲らした田圃を不規則に貫いて、遥か向ふの蒼暗き中に封じ込まれて居る、それに薄紫色の山が遠く見えて、其山々を阿蘇の煙が遠慮なく這ひ廻つて居るといふ絶景、実に美観だと思った。(後略)

 

以上、レファレンス共同データベース 提供館:熊本県立図書館

https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000248467&page=ref_view

 

論証② 当時の熊本は「都」と呼ばれるほどの市街地ではなかった。

・明治40年の『五足の靴』における熊本の印象

(熊本市内を逍遥した・永田注)その夜心の中で、こういう判断をした。『熊本は大なる村落である』と。

 

・漱石は都会人

漱石はチャキチャキの江戸っ子を売り物にしていた方のように思える。漱石の江戸っ子というより都会人、東京気質からすれば「都」は東京以外には設定出来なかっただろう。(中略)熊本市の人口も明治30年には52,110人に過ぎなかった。

岡村一 郎「夏目漱石『熊本住い』のこと」

 

結論 北原白秋らの紀行文『五足の靴』の熊本の印象記の影響

五足の靴の一行が、熊本市街は「森林」のようで、「ああ、熊本はこの数おおい樹の蔭に隠れている」と述べたことが誤って、漱石の言葉として伝えられたのであろう。

なお、ここでも「森の都」という言葉が出てこない。

 

上熊本の改札口を出て、今まで渴していた東京の新聞を求めたけれども、見附からなかったので、直ぐに人が車を走らせた。坂の上から下の市街を展望すると、まるで森林のようである。が、巨細に見ると、瓦が見えて来る、甍が見えて来る。板塀が見えて来る、白壁が見えて来る。『ああ、熊本はこの数おおい樹の蔭に隠れているのだな。』と思いながら、彼方の空を眺めると、夕暮の雲が美くしく漂っていて、いたく郷愁を誘われる。

 

補足 下記の1月19日のドラマにおいて、二つ点で大なる疑義がある。

・その一つは冒頭に、漱石が「熊本は森の都」と述べる場面。

・その二つは締めくくりに、漱石が「熊本は第二のふるさと」と述べた場面。

※ちなみに、荒木精之宛の書簡並びに福島次郎『剣と寒紅』に出てくるので、三島由紀夫が「熊本は第二のふるさと」と思っていたことは確かである。

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