パラダイスの規則

文化的アーカイブ、現代の若者について

工場の現実を、若者はどうやって打ち破るか

2020-05-28 21:32:30 | 若者






先日、興味深い記事を見つけた。



リンクに飛ぶのが面倒な人のためにムリやり要約すると、

豪華客船クルーズでハイチに入国・寄港したが、
豪華客船の中は娯楽に満ち溢れていて
貧困国・ハイチの現実には一切触れることがなかった、という。

「貧困国に寄港した豪華客船、娯楽に浸る乗客」というと、
それだけで語られるべきテーマが暗示され、批判の声が上がってきそうなものだが、
この記事の趣旨はそのようなものではない。

記事を一部抜粋すると、

”船旅ということで身体への負担が小さいのだろう、障害者の乗客がじつに多く、またサポートもかなりしっかりしていたことである。知能に障害を抱えた子どもも目立った。”

”幼児や高齢者や障害者といった社会的弱者が安心して船旅を楽しめるのは、このクルーズが徹底して「嘘」で守られているからである。かりにハイチやジャマイカに下り立ち、貧困や自然破壊を見学するような特殊なクルーズがあったとしても、彼らはそもそもその「現実」にはけっして触れることができないだろう。彼らにとっては、そのような不可能性こそが現実なのであり、だから嘘が必要なのである。”

(これだけでは記事の意図が完全に伝わらないので、興味を持たれた方は本文を読むことをお勧めします)


思えばそのような例は他にもあるような気がする。
一泊がそこまで高くないホテルでも、最近はサービスの行き届いたホテルが増え、
内装もきれいで、手軽に「非日常」を体験できるようになった。
ディズニーランドのようなテーマパークは「夢の国」と呼ばれるが、
最近のショッピングモールおよび、アウトレットパークなどは
内装も小綺麗で、子どもが遊ぶ施設やイベントも増え、
もはや手軽に行けるテーマパークとなりつつある。

そういえばスピルバーグの新作「レディ・プレイヤー1」は(傑作だった)、
現実が辛すぎてバーチャルワールド・オアシスに没頭する若者たちが主人公だった。
非日常は辛い現実を覆い隠してくれる。









社会的弱者かどうかをどう判断するかは置いておくとして、
多くの辛い現実を抱えた人が増え、
虚構世界で生きようと思う人がどうも増えているような気がする。
そのことが悪いと言っているわけではない。
現実に向き合え、などとは、言えない。
例えば自動車事故で生涯寝たきりが決まってしまった若者に、
現実に向き合え、と言えるだろうか。
その若者は寝たきりになってしまった自分と、常に向き合うことになる。
毎日、毎分毎秒、交通事故を悔やむかもしれないし、恨むかもしれない。
そう言った人は言わずもがな、辛い現実に毎日向き合っている。だから嘘が必要なのだ。


映画や小説、絵画などの芸術はすベて上質な嘘、つまり虚構である。
テーマパークやバーチャル世界にしてもそうだ。
当然頭のどこかではもちろんこれは虚構だと分かっているだろう。
それでも、嘘で現実が変化することもある。虚構の力は計り知れない。

しかし、若者はテーマパークやバーチャルでしか自分を救えないのだろうか。
例えば造船所や発電所で働く若者はどうだろう。本当にその仕事に適性があって、
抜群の才能を発揮し様々な知識や経験を積み重ねる少ない人間を除外すると、
造船所や発電所の若者はみな、辛そうだ。
非常にハードな肉体労働で、不潔で空気の悪い現場で、怪我をする危険性を抱え、
暴力的で理不尽な上司と、上がる見込みのない給料のことを考えると、
辛くなるのも無理はない。
では他に何か仕事ができるかというと、特別な才能もないし、知識も技術もない。
自分は何が得意か、世の中には何があるのか、
それを今さら知る体力もエネルギーもない。
だが、実際そういったエネルギーを得るために人は虚構を求める。
エネルギーを得よう、現実世界でサバイバルする情報を得よう、
その姿勢を無自覚かどうかに関わらず持ち得た時、虚構はその人にとって意味を持つ。
造船所や発電所の若者は、どういった虚構でエネルギーを得られるだろうか。
ディズニーランドだろうか。VRゴーグルだろうか。ショッピングモールだろうか。
救うかもしれないし、救われないかもしれない。何かを見つけ出す人もいるだろうし、
何も見つけ出さない人もいるだろう。
いずれにせよ、私にはわからない。

だが私は今のところ、エネルギーを失ってはいない。


鼻で笑って、20時に眠る

2020-05-16 18:35:40 | 若者



この間県外から出向で入寮した50代の人が、コロナウイルス対策で二週間待機になった。
発電所の近くはかなりの田舎で、加えて外出自粛なので、外に出かけて何かをする、ということがほとんどできない。

その方は家族を置いて単身できているので、周りは知らない人ばかり、
鹿がその辺を走り回っているような僻地で、二週間誰とも会話することがなく
部屋でひとり、昼にビールを飲みはじめて夜20時には寝ていたらしい。

明日が来るかもわからない、というか、「明日はこない」という状況の方も複数おられるので、することがなかったと自嘲できるなんて何とノンキな、と思う気もするが、ひとまずその話題は置いておくことにする。




批判するわけではないが、工業系の、主に終身雇用制を採用している会社の40~50年代の中年男性は大体そのような感じである。
会社に行けば長年の知識と経験を駆使して、そこそこの能力を発揮する。
だが会社に行けないとなると家族と過ごすか、どこかへ出かけるかくらいしかすることがない。
そのどちらも封じられるとなると、昼から酒を飲んで20時に寝る、という人は案外多いかもしれない。
(充実感を持って生きているかは別として)既に子どもは自立しているし、あと10年もしないうちに定年退職で良い額の年金を受給できるので、今さら「世界を見てやろう」とか「図書館のこの棚からこの棚を全部読むぞ」とか、そんなことは考えない。

繰り返すが批判しているわけではない。
他人の人生を批判してもしょうがない。それに私は、40代から50代の人が世界を見てやろう、とバックパック1つで旅に出ていくのを見ても、すごいとは思うが、感動はしないし、肯定もしない。
また終身雇用制について論じるつもりもない。
私に社会学的な知識が乏しいというのも一因だが、その手の論文や研究は有り余る程あって、そちらに目を通した方が参考になる。



ただ、例えば20代の若者はどうだろうか。
もちろん20代の若者と言っても一括りにすることはできない。
ただ、発電所で働いている若者に限っていえば、生活様式はほとんど40〜50代のオジサン達と変わらないと私は思う。
若いので20時に寝るということはほとんどないだろうが、「やること」はほとんどない。
この状況下で何も考えずに平気で外出する一部の人たちを除いては、家族がいないとなると、気の許せる仲間達でこっそり部屋に集まり酒を飲むとか、スマートフォンでゲームをするとか、漫画を読むとか、アダルトサイトを覗くとか、趣味的な違いはあるが、いずれにせよやることはない。要するに「やることがないからやっている」ことがあるだけで、40〜50代のオジサンたちと、本質的には同じだと思う。
結局20代だろうが40代だろうが60代だろうが、本質的に同じという人はたくさんいるのだから、世代を語ることなど無意味かもしれない。
だが20代の若者が、40〜50代のオジサンたちと同じライフサイクルを送ることは、実は非常に不利だ。
当たり前だが若者に定年退職はまだこない。故に人生の逃げ切りを図れない。そもそも定年退職になるまで会社が存続しているかもわからない。
もっというと、巷には終身雇用どころか非正規雇用者で今後賃金が上がる見込みのない若者が溢れている。








「若者よ、無駄な時間を過ごすな」と嘆いているわけではない。
「やるべきことを見つけろ、夢を追え」などとは死んでも言わない。
なぜかというと私も当の若者であり、他人のことを心配している状況ではないからだ。

そして私はまるで若者が不利で、定年間近の50代の中高年の方が、逃げ切りを図りやすく、有利で楽だという書き方をしたが、絶対にそんなことはない。熟年離婚や老老介護、定年退職後の就職など、他にも各世代の不安や課題を挙げればキリがない。

では逆に若者の特権とは何だろうか。
体力があること、ほとんどの人がとりあえず健康で、病気のリスクが少ないことは明らかだ。
つまり残された時間が長いので、人生に変化を起こせる可能性が高い。
例えば55歳の定年間近の男性より、23歳の若者の方が、いわゆる「可塑性」がある。
人生の可塑性とは、公務員を辞めてパソコン片手にルームシェアで住み、インターネットビジネスを始めることではない。
人生の可塑性は若者の特権、武器と言ってもいい。
だがその特権を自ら捨てようとする人もいる。
人生の可塑性というと、諦めたように鼻で笑う人もいる。

繰り返しになるが、「若者よ、無駄な時間を過ごすな」などと言うつもりはない。
他人の人生に口出しはしないし、関わるつもりもない。




だが、私たち若者が20時に寝るには、少し早すぎる気がするのだ。

なぜわざわざ若者のことばかり書くのか

2020-05-12 21:46:34 | 若者

5日前にブログを始めて、これで4つ目の記事になる。
今のところすべて「若者」についての記事だ。
そして今回も、なぜ私は若者のことばかり書くのか、ということをテーマにしようと思っているので、つまりこれも若者についての記事ということになる。

それにしてもなぜ私は若者のことばかり書くのだろう。
私自身が若者だから当たり前といえば当たり前かもしれない。
例えば40、50歳代の社会的引きこもり問題とか、老老介護の問題などは、社会問題として詳しく知っておくべきことだが、実感を持ちやすいのはやはり歳の離れた世代よりも同世代のことだ。記者や地方自治体の職員、あるいは民生委員での業務や奉仕活動でもない限り、そういった社会問題について情報を多く持っているのは別世代よりも自分と同じくらいの世代の方が多い。

だから私が若者について書くのはきっと自然なことだが、では私が若者の話題を持ち出すときに、必ず文化的なことを引用するのはなぜだろう。
元々読者がほとんどいないようなこのブログで、こんな誰も興味がないような話題を選ぶのはさらに気がひけるが、
私は若者のことを書くときにはなぜかいつの間に話題が映画や小説になる。
それはきっと、自分が何を武器に人生を有利に進めていくか、という問題に深く関わっていると考えている。

例えば私はゴダールの「男性・女性」に出てくる若者たちが好きだし、「限りなく透明に近いブルー」の若者たちも大好きで、「ブルーベルベット」で主人公の無知な若者が狂気に出会っていく感じも好きだ。



一方で人気YouTuberは頭が良くてすごいと思うが好きにはなれないし、スポーツマンは尊敬に値するが競技以外には興味がないし、「ワイルド・スピード」に出てくるような若者たちはイカしてるとは思うが、舞台が映画の中というだけで、彼らも要するにスポーツ・マンである。






どうして若者のことを考えるのだろうと思うし、若者について書いたりするが、若者を助けてやりたいとか、若者の惨状をどうにかしたいなどとは思わない。
自分が経済的にというか、社会的に自立しない限り、誰かを助けることなどできるはずがない。
よく大学に入りたての、幼顔の若者が「アフリカの子どもたちを救いたい」などと言っているのを見ると吐き気がする。
貧困国の現状は無視できない。だが例えば会社勤めの親に学費を払ってもらっていて自分の将来もろくに決まっていない若者が、誰かを救いたい、などというのは非合理的だと思う。
打算的で卑怯だとか偽善だとか、そういう問題ではなく、他に優先すべきことがある。
自分が何を武器にして人生を有利に進めていくのか、という重要な問題を、ボランティア活動で得られる充実感とすり替えようとするのは明らかに間違っている。
誤解を生まないように言うと、ボランティア活動そのものはまったくの善で、行うこと自体はほとんどの場合、偽善などない。多くの場合偽るのは善ではなく、自分自身だ。



若者を助けたいとも思っていないのだとしたら、では何の為にわざわざ若者について書くのだろうか。
私の勘だが、多くの若者たちが勘違いしていることがあるような気がする。
現状に適応できない若者が巷に溢れかえっているのに、その若者から一向に進化の可能性が見えてこないのだ。
スピルバーグのマイノリティ・リポートで、システムの開発者である老婦人が動く植物のツタを握り潰して殺しながら、「追い込まれ危機にさらされると生あるものが考えることは一つ、自らのサバイバル」というシーンがあるが、現状そのようになっているだろうか。

明日生きる金もないほど貧困に覆われていたり、DVなどの家庭状況から抜け出すことが最優先だったりする人には、進化よりも前に直ちに対策することがあるだろうが、それにしても適応できずにただ自滅していく若者が多い。

若者の進化の条件として、前提的に何かが否定され、無視されているような気がする。
そのことに対して、私は違和感を覚える。そして同時に興味も覚える。
きっと自分と世間、自分と社会のずれ、のようなものに興味があるのだろう。

どうやらそれが偽りのないことだけは確かである。



パラダイスの規則

2020-05-08 23:21:16 | 若者





そういえばこのブログのタイトルを「パラダイスの規則」とした。

ファンではないし特に思い入れもないが、ある有名な映画のタイトルと、私の好きな言葉を組み合わせた。

この世の果てのような工場で働いているせいか、私はパラダイスに妙な憧れがある。
パラダイス、つまり自由だが、自由には実はルールがあると思っている。
ルールがあるから、パラダイスを楽しむことができる。
ネットのないテニスコートではテニスができないのと似ている。

このタイトルが何かを象徴しているかは、今のところわからない。
実際のところそれを知りたくて、こうしてブログを書いているのだけど。




話は変わるが、不労所得に憧れる若者が本当に増えたと思う。
もちろん憧れるのは若者だけではないだろうが、体調を崩して働くことが難しくなったような人ならまだしも、比較的に体力のある若者が不労所得を望むのはどうしてだろう。

私見だがごく簡単に言えば、嫌なことをやりたくないからではないだろうか。
誰でも嫌なことなどやりたくない。だが残念ながらほとんどの人は、嫌なことをやらざるを得ない。
嫌なことをやりたくなければ、それなりの準備が必要になる。例えば中高生で自分のやりたいこと、人生の目標を見つけたような強運の持ち主だったら、やるべきことだけを選択して、訓練し、それを武器にして人生を進めていくことができる。いずれその武器が特別なものになって社会的に価値が認められれば、それさえ磨いていればよい、という状態になる。

だが武器がない状態の人は、誰でもできるような仕事に就くしかない。
誰でもできるような仕事は、少ない給料しかもらえない。
誰でもできるのだから高い給料を払う理由がない。武器がなく、誰でもできるような仕事をこれから数十年も続けていかなければいけなくて、さらに安い給料しかもらえる見込みがないのだったら、特別な場合を除きそれは自ずと「嫌なこと」になるだろう。



私が働いているこの世の果てのような工場だが、嫌なことをやりたくないと思っている人が多い。
仕事でもなんでも面倒くさいことはとにかくやらない。自分から進んで何かをしようと思っている人は少ないし、とにかく動かない。目が死んでいると言ってもいい。怒られない程度に、邪魔にならない程度に、仕事には最小限の力だけを出しているように見える。

繰り返しになるが、誰でも嫌なことなんかやりたくない。私もそうだ。
だが、今の自分は嫌なことをやらざるを得ないのだと思って、開き直るのはどうだろうか。
状況を受け入れれば、対策を打つことができる。今は嫌なことをやるしかないんだからなんとか努力して糸口を見つけよう、というような姿勢だ。
それこそ数年かかるかもしれないが、数年後には嫌なことをやらずに済むかもしれない。

自分は嫌なことをやらずに済む、と、現実を間違って把握している人が非常に多い。
嫌なこと、面倒くさいことを常に避けていると、必ず立場が悪くなる。
「あの人は何も協力してくれないから、あの人には何も頼まないし、何も与えない」といった具合に、水面下で自然に疎外、排除が始まり、立場も報酬も悪くなる一方だ。


だから「若者よ、嫌なことを進んでやれ」と言いたいわけではない。
他人の生き方に興味はないし、だいいち私もギリギリ若者である。

ただそういう人たちが増えているのだから、不労所得に憧れを持つ人が増えるのは当然かもしれないと思う。
例えば不動産などで毎月50万円の安定した収入があれば時間を自由に使える。
早起きする必要もないし通勤もないし満員電車も嫌な上司もいない。
私が働いているような現場からするとまさに楽園だと思う。

だが楽園の前には必ず堅い現実が存在する。









話が暗くなってしまった。

少し明るい話というか、どうでもいい軽い話をすると、私はホテルの夢ばかり見る。

美女が夕日を背にシルエットになって手を振っていて私は砂浜でカクテルを飲んでいるという夢ではなくて、
エレベーターを降りてまたエレベーターに乗るとか、良いホテルに泊まることになるがホテルまでの道が分からなくなりそのうち夜になる、とか、ホテルの一階にあるケーキ屋で壁掃除をするアルバイトをしているとかそういう夢を見ることもあるし、
何十万もするスリーピースのスーツを着て赤いカーペットが敷かれたロビーを颯爽と歩き、ベルマンにコートを渡した後ベルマンがコートのブランドを確認したかどうかをさりげなくチェックする、という夢を見て、俺はなんて卑しいんだと目覚めてから自己嫌悪になることもある。

あと、「ホテルカリフォルニア」もよく聴く。
私は1991年生まれなので、1969年の当時の雰囲気などまったくわからないくせに、この曲にはなにかある、と思ったりする。

そういえば発電所の前は造船所にいたが、どちらも海の近くだ。
一度セブ島のシャングリラ・ホテルに泊まったが、曇っていて水平線がよく見えなくて、これなら造船所や原子力発電所の海の方が綺麗だ、と思った記憶がある。
10年も海の近くで仕事をしていると、案外パラダイスに最も近いところで仕事をしているのかもしれないと思う。
その前の堅い現実が見えているかどうかは、自分ではよくわからない。












やり返さなければと思う若者

2020-05-08 08:47:35 | 若者



このあいだ家の裏で建設工事が行われていて、いわゆる親方と思しき人間が、怒鳴りながら若者の顔面を蹴っていた。
鉄板入りの安全靴だから、下手をしたら歯を折るぐらいではすまない。

静観していたが止みそうにないので、警察に電話をして来てもらうと親方はニコニコして謝り、その後は怒鳴り声のみになった。


笑って誤魔化していた親方も醜かったが、蹴られていた若者が笑っていたのには腹が立った。
どうして「やり返さない若者」を見ると、腹が立つのだろう。

原子力発電所だけでなく、他発電所や例えば造船所の現場などでは、残念ながら暴力が無くならない。
知人や上司にそのことを話すと、そんなことはよくあることだと笑い飛ばしていた。
私は10年も現場で働いているので、よくあることだというのはわかっている。
もっとひどい現場もあると言われたが、それもよくわかる。そのくらいは想像がつく。
だが暴力について、よくあることだと笑い飛ばすことは、下手をすると暴力そのものよりも大きな問題になるかもしれないとその知人や上司はわかっているだろうか。



一方で、若者にもどうしようもないヤツがいる。
人の話を大切に聞かず、同じことを繰り返し、空いた時間が少しでもあるとスマホを見るために首を垂れるような若者だ。
そういう若者を見ると、いっそ殴られてしまえ、と思うので、やはり暴力は無くならないかもしれない。もちろん若者だけでなく、中高年も標的にされる。
この世の果てのような現場では特に、今までどうやって生きてきたんですか、というほど仕事ができない人がたくさんいる。極端にいうと箸を持てないとか、字を書けないとか数字が数えられないとかそういった人だが、本当によく殴られる。
殴る人も、殴られる人も、まるで運命の恋人のように同じ現場に存在していて、ごく自然に両者の関係は出来上がっていく。


私は暴力に出会う度に不快な気持ちになる。
どうやら振るう人、振るわれる人、そのどちらのことを思っても元気がなくなるようだ。
もちろん、自分が馬鹿にされた時も不快感を覚える。
一日中イライラするばかりか、大抵その人間の悪いところ、気に入らないところを思い浮かべ、腹の中で常に復讐に燃えている。
そうは言っても、ほとんどの場合実行には移さない。
だが例えば安全靴で顔面を蹴られていて、目の前に警察が来たとしたらどうだろう。
私だったら実際に負った傷を警察に見せて、必ず被害を訴える。
本人曰く熱い指導だろうが、それが業界の「よくあること」だろうが、腫れ上がった傷を見せればその親方は職を失う。






若者よやり返せ、と言いたいわけではない。
私もギリギリ若者だが、通り魔や犯罪に走る若者は大勢いても、やり返さない若者は非常に少ない。どうしてだろうか。
以前有給休暇がとれないと悩む歯科衛生士の女友達がいて、組合に相談したらと言うとその女友達は組合という言葉自体を知らなかった。
明日職を失うと自殺しかない、というところまで追い込まれている人は別として、組合を知らない、というような若者に「やり返す」という概念が生まれるわけがない。



「やり返さなければ」と思うと、何かに対する飢えが生まれる。
ありとあらゆる方法で、強者に勝たなければいけないと思う。そのためには何が必要か考えることになる。


飢えの対象は、多分人それぞれだが、土曜の夜と日曜の朝にかけて小説でも読んでみるといいかもしれない。