パラダイスの規則

文化的アーカイブ、現代の若者について

パラダイスの規則

2020-05-08 23:21:16 | 若者





そういえばこのブログのタイトルを「パラダイスの規則」とした。

ファンではないし特に思い入れもないが、ある有名な映画のタイトルと、私の好きな言葉を組み合わせた。

この世の果てのような工場で働いているせいか、私はパラダイスに妙な憧れがある。
パラダイス、つまり自由だが、自由には実はルールがあると思っている。
ルールがあるから、パラダイスを楽しむことができる。
ネットのないテニスコートではテニスができないのと似ている。

このタイトルが何かを象徴しているかは、今のところわからない。
実際のところそれを知りたくて、こうしてブログを書いているのだけど。




話は変わるが、不労所得に憧れる若者が本当に増えたと思う。
もちろん憧れるのは若者だけではないだろうが、体調を崩して働くことが難しくなったような人ならまだしも、比較的に体力のある若者が不労所得を望むのはどうしてだろう。

私見だがごく簡単に言えば、嫌なことをやりたくないからではないだろうか。
誰でも嫌なことなどやりたくない。だが残念ながらほとんどの人は、嫌なことをやらざるを得ない。
嫌なことをやりたくなければ、それなりの準備が必要になる。例えば中高生で自分のやりたいこと、人生の目標を見つけたような強運の持ち主だったら、やるべきことだけを選択して、訓練し、それを武器にして人生を進めていくことができる。いずれその武器が特別なものになって社会的に価値が認められれば、それさえ磨いていればよい、という状態になる。

だが武器がない状態の人は、誰でもできるような仕事に就くしかない。
誰でもできるような仕事は、少ない給料しかもらえない。
誰でもできるのだから高い給料を払う理由がない。武器がなく、誰でもできるような仕事をこれから数十年も続けていかなければいけなくて、さらに安い給料しかもらえる見込みがないのだったら、特別な場合を除きそれは自ずと「嫌なこと」になるだろう。



私が働いているこの世の果てのような工場だが、嫌なことをやりたくないと思っている人が多い。
仕事でもなんでも面倒くさいことはとにかくやらない。自分から進んで何かをしようと思っている人は少ないし、とにかく動かない。目が死んでいると言ってもいい。怒られない程度に、邪魔にならない程度に、仕事には最小限の力だけを出しているように見える。

繰り返しになるが、誰でも嫌なことなんかやりたくない。私もそうだ。
だが、今の自分は嫌なことをやらざるを得ないのだと思って、開き直るのはどうだろうか。
状況を受け入れれば、対策を打つことができる。今は嫌なことをやるしかないんだからなんとか努力して糸口を見つけよう、というような姿勢だ。
それこそ数年かかるかもしれないが、数年後には嫌なことをやらずに済むかもしれない。

自分は嫌なことをやらずに済む、と、現実を間違って把握している人が非常に多い。
嫌なこと、面倒くさいことを常に避けていると、必ず立場が悪くなる。
「あの人は何も協力してくれないから、あの人には何も頼まないし、何も与えない」といった具合に、水面下で自然に疎外、排除が始まり、立場も報酬も悪くなる一方だ。


だから「若者よ、嫌なことを進んでやれ」と言いたいわけではない。
他人の生き方に興味はないし、だいいち私もギリギリ若者である。

ただそういう人たちが増えているのだから、不労所得に憧れを持つ人が増えるのは当然かもしれないと思う。
例えば不動産などで毎月50万円の安定した収入があれば時間を自由に使える。
早起きする必要もないし通勤もないし満員電車も嫌な上司もいない。
私が働いているような現場からするとまさに楽園だと思う。

だが楽園の前には必ず堅い現実が存在する。









話が暗くなってしまった。

少し明るい話というか、どうでもいい軽い話をすると、私はホテルの夢ばかり見る。

美女が夕日を背にシルエットになって手を振っていて私は砂浜でカクテルを飲んでいるという夢ではなくて、
エレベーターを降りてまたエレベーターに乗るとか、良いホテルに泊まることになるがホテルまでの道が分からなくなりそのうち夜になる、とか、ホテルの一階にあるケーキ屋で壁掃除をするアルバイトをしているとかそういう夢を見ることもあるし、
何十万もするスリーピースのスーツを着て赤いカーペットが敷かれたロビーを颯爽と歩き、ベルマンにコートを渡した後ベルマンがコートのブランドを確認したかどうかをさりげなくチェックする、という夢を見て、俺はなんて卑しいんだと目覚めてから自己嫌悪になることもある。

あと、「ホテルカリフォルニア」もよく聴く。
私は1991年生まれなので、1969年の当時の雰囲気などまったくわからないくせに、この曲にはなにかある、と思ったりする。

そういえば発電所の前は造船所にいたが、どちらも海の近くだ。
一度セブ島のシャングリラ・ホテルに泊まったが、曇っていて水平線がよく見えなくて、これなら造船所や原子力発電所の海の方が綺麗だ、と思った記憶がある。
10年も海の近くで仕事をしていると、案外パラダイスに最も近いところで仕事をしているのかもしれないと思う。
その前の堅い現実が見えているかどうかは、自分ではよくわからない。












やり返さなければと思う若者

2020-05-08 08:47:35 | 若者



このあいだ家の裏で建設工事が行われていて、いわゆる親方と思しき人間が、怒鳴りながら若者の顔面を蹴っていた。
鉄板入りの安全靴だから、下手をしたら歯を折るぐらいではすまない。

静観していたが止みそうにないので、警察に電話をして来てもらうと親方はニコニコして謝り、その後は怒鳴り声のみになった。


笑って誤魔化していた親方も醜かったが、蹴られていた若者が笑っていたのには腹が立った。
どうして「やり返さない若者」を見ると、腹が立つのだろう。

原子力発電所だけでなく、他発電所や例えば造船所の現場などでは、残念ながら暴力が無くならない。
知人や上司にそのことを話すと、そんなことはよくあることだと笑い飛ばしていた。
私は10年も現場で働いているので、よくあることだというのはわかっている。
もっとひどい現場もあると言われたが、それもよくわかる。そのくらいは想像がつく。
だが暴力について、よくあることだと笑い飛ばすことは、下手をすると暴力そのものよりも大きな問題になるかもしれないとその知人や上司はわかっているだろうか。



一方で、若者にもどうしようもないヤツがいる。
人の話を大切に聞かず、同じことを繰り返し、空いた時間が少しでもあるとスマホを見るために首を垂れるような若者だ。
そういう若者を見ると、いっそ殴られてしまえ、と思うので、やはり暴力は無くならないかもしれない。もちろん若者だけでなく、中高年も標的にされる。
この世の果てのような現場では特に、今までどうやって生きてきたんですか、というほど仕事ができない人がたくさんいる。極端にいうと箸を持てないとか、字を書けないとか数字が数えられないとかそういった人だが、本当によく殴られる。
殴る人も、殴られる人も、まるで運命の恋人のように同じ現場に存在していて、ごく自然に両者の関係は出来上がっていく。


私は暴力に出会う度に不快な気持ちになる。
どうやら振るう人、振るわれる人、そのどちらのことを思っても元気がなくなるようだ。
もちろん、自分が馬鹿にされた時も不快感を覚える。
一日中イライラするばかりか、大抵その人間の悪いところ、気に入らないところを思い浮かべ、腹の中で常に復讐に燃えている。
そうは言っても、ほとんどの場合実行には移さない。
だが例えば安全靴で顔面を蹴られていて、目の前に警察が来たとしたらどうだろう。
私だったら実際に負った傷を警察に見せて、必ず被害を訴える。
本人曰く熱い指導だろうが、それが業界の「よくあること」だろうが、腫れ上がった傷を見せればその親方は職を失う。






若者よやり返せ、と言いたいわけではない。
私もギリギリ若者だが、通り魔や犯罪に走る若者は大勢いても、やり返さない若者は非常に少ない。どうしてだろうか。
以前有給休暇がとれないと悩む歯科衛生士の女友達がいて、組合に相談したらと言うとその女友達は組合という言葉自体を知らなかった。
明日職を失うと自殺しかない、というところまで追い込まれている人は別として、組合を知らない、というような若者に「やり返す」という概念が生まれるわけがない。



「やり返さなければ」と思うと、何かに対する飢えが生まれる。
ありとあらゆる方法で、強者に勝たなければいけないと思う。そのためには何が必要か考えることになる。


飢えの対象は、多分人それぞれだが、土曜の夜と日曜の朝にかけて小説でも読んでみるといいかもしれない。