雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

テスバウ共和国 入国体験記 ・ 第十回

2011-08-17 11:14:30 | テスバウ共和国 入国体験記 
     第二章 共和国への道

          ( 1 )

三姉妹が生まれたのは、まだ道州制が施行される前の兵庫県南部の都市明石である。
淡路島が間近に見える海峡に面した小都市は、歴史的に見れば古代から重要な立地にあったといえる。奈良時代や平安時代、さらに大阪が軍事・経済の中心地として発展した時代においても、西国や、さらには唐天竺とも結ぶ陸海の交通の要衝として、山陽道と瀬戸内海の双方を押さえる重要拠点であった。

それは、江戸時代においても変わらず、明石藩は小藩ではあったが明石海峡を見張る城郭を有し、歴代城主に譜代の一族を配置し続けたことでも分かる。
そして、明治維新に断行された廃藩置県においても、当初明石県が設置されたことを見ると、薩長を中心とした維新政府もこの地の重要性を認識していたと言えよう。

時は下って、三姉妹が育った頃の明石は、日本全体の位置付けとしては特色の少ない街になっていた。
わが国の標準時となっている子午線の街であるとか、タイやタコなどの著名度の高い海産物もあるにはあるが、観光面や産業面から見る限り、際立った特徴を見出すほどの力にはならなかった。

しかしながら、万葉の時代から平安王朝華やかな時代にかけて、須磨明石は歌枕として名高く、風光明媚な景勝地として世に知られていた。その恵まれた景観は、千年の時を経てもその輝きを失ってはおらず、白砂青松はその規模を失ったとはいえ、海峡をまたぐ大橋をはじめとした人工物が補っている。海峡を行き来する大小の船やその先に広がる淡路島の優美な姿は、今も、ここに生きる人たちや旅する人たちに優しく語りかけていると思われる。
三人の姉妹に共通している、どこかしら茫洋としておおらかな性格には、幼年期をこの地で育ったことに影響を受けている部分もあるのかもしれない。

     **

三姉妹の両親がこの街に住居を持ったのは、父の勤務の関係からである。
父はもともとは関東の人であるが、なぜか京都の大学にあこがれて進学した。就職は東京に本社を有するエレクトロニクス関係のトップ企業を選んだのだが、半年ほどの研修のあと配属されたのは大阪支社であった。出身大学を考慮した人事らしいが関東にある研究所を希望していただけに気落ちする辞令であったようだ。
さらに、最初に販売部門を経験させるという会社の方針もあって、システムエンジニアとして販売員と同行する部署に配属された。

このように、社会人としてのスタートは父にとってあまり面白いものではなかったようであるが、その部署は単に経験を積ませるためのものであったらしく、半年後には、当時研究関係で協力関係にあった大阪の大学に出向となり、大阪支社の管轄下にある神戸の研究所と大学の研究室を行き来するような仕事が与えられた。
この仕事は、仕事というより研究者のような生活が中心で、関東ではなかったが父の希望していたものに近い環境であった。

そして、この過程で父は一人の女性とめぐり逢い結ばれた。それが、三姉妹の母である。
三姉妹の母となる人は、大手通信会社の受付をしていたが、父は出向している大学での研究テーマの関係でこの会社に再々出入りしていた。そして、全く偶然に、この会社で大学時代の教授と出会い、母となる人を紹介されたのである。

教授は、この会社とは研究分野のことで交流があり、しかも同窓の親しい知人が何人かいることもあって、公私両面で時々訪問していた。さらに、姪にあたる人が勤務していて、その人がすでに顔なじみになっている受付嬢の一人だったのである。
その時、教授はその女性をわざわざ応接室まで呼んで紹介してくれ、それをきっかけに父と母の交際が始まったのである。

その頃父は、阪神間にある会社の寮に住んでいたが、結婚と同時に明石に住まいを移した。
大学への出向が終わり、神戸市の西北部にある研究所勤務となったこともあり、通勤の関係と母の実家とも比較的近いことがその理由であった。
父の仕事は、おそらく本人としてはそれほど希望していたものではなかったと思われるが、研究所に所属しておりながら、営業色の強いものへと移っていった。いわゆるセールスエンジニアといった位置付けで、大阪支社の要請で、研究所の名刺のままで、営業職の社員に同道することが増えていっていた。

母は、長女出産の前に退職し、以後は家庭に入った。次女三女も明石の家で誕生し、長女が中学を卒業する直前までその家で過ごした。三女が小学四年生の頃までのことである。
明石の家は、明石城に近く、二階からは明石海峡を隔てて淡路島が間近に見え、海峡をまたぐ大橋も遠望できた。家屋そのものは新しいものではなく、庭もそれほど広くなかったが、海に向かっての眺望が気にいって借りたものである。
最初は広過ぎた家も、子供が誕生するごとに手狭になっていったが、三姉妹が伸び伸びと育った背景には環境に恵まれたこの家の存在も無視できないかもしれない。

秋沢家が大阪北部の街に移ったのは、やはり父の仕事の関係からである。
父が自分の仕事について娘たちに語ることは殆どなかったが、研究者として過ごしたいというのが父の希望であったようである。しかし、実際は営業の出来る研究者としてトップセールスの場に連れ出されることが多く、研究現場からは年齢とともに遠のいて行った。同時に、父の意志に関係なく、ポストは順調に昇って行き、経営職として大阪支社と東京本社を駆け巡るようになっていった。
大阪の新しい家は、明石の借家の老朽化が激しいことと、自宅を購入するだけの経済的な余裕とにより実現したものであるが、場所の選定は父の通勤を最優先させたものである。




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テスバウ共和国 入国体験記 ・ 第十一回

2011-08-17 11:12:10 | テスバウ共和国 入国体験記 
          ( 2 )

長女の和美が結婚したのは二十四歳の時で、両親もまだ健在であった。
夫となった人は、父の同僚の紹介により知り合った人で、温厚な研究者であった。年齢は和美より六歳上で、父が出向していた大阪の大学の卒業生で、就職した後も時々学校に顔を出していた。

二人は和美の実家の近くに住居を構えた。和美の父の強い希望で、秋沢姓を名乗ることになった。いわゆる婿入りの形であるが、当時はまだ夫婦が別姓を名乗ることは法律的に認められていなかったからである。
和美には名乗る苗字などあまりこだわっていなかったが、父はまだ家という考えを強く持っていて、三人の娘のうちの一人には、それも出来れば長女の和美に秋沢姓を継いでもらいたいと考えていた。幸い、夫となる人には兄がおり、すでに実家を継いでいたこともあって、このことで大きな問題にはならなかった。

夫となった人は、大阪に本社にある医薬品会社に勤めていた。長い歴史を持つ会社であるがその規模は小さく、販売は大手の会社に委託しており、会社として独立してはいるが形態としては大手会社の製造子会社のような位置づけといえた。
ただ、売り上げ規模は小さいが、それなりのブランド力のある製品をいくつか持っていて、経営状態は悪くなかった。特に、夫となった人にとっては、小さな規模の研究部門であるがその仕事に没頭できる環境にあり悪い職場ではなかったようである。

和美は最初の子供の出産を機に勤めを辞め家庭に入った。子供は二人の男の子に恵まれ、穏やかな家庭生活が続いた。
夫は、いわゆるサラリーマンとしては上昇志向の少ない人で、研究部門の一線で働き続けた。上級幹部に就くことはなかったが、平穏な家庭を構築してくれた。いわゆる中流家庭の専業主婦として和美自身には何の不満もない日々であった。

その夫が亡くなったのは、二年前のことである。
夫は頑健なタイプではなく、むしろ見かけは蒲柳の質といってもよい感じの人で、事実風邪や胃腸の不調などを訴えることは少なくなかったが、結婚以来大病することはなく入院の経験も一度もなかった。
和美も健康面ではさしたる問題はなかったが、六十歳を過ぎた頃からは膝に痛みを感じるようになり、そのため運動や外出を控えるようになったことも影響してか、若干体重が増え、それがさらに膝や腰に負担をかけているらしく、そのことが気掛かりで将来の生活について漠然とした不安を感じるようになっていた。

そして、和美の描く将来設計の中には、当然のこととしてパートナーとしての夫の存在があったが、夫は急な発病から三か月ばかりの入院生活のあとこの世を去ってしまった。
夫は、六十五歳を過ぎてからは関連子会社の役員として遇されていたが、給料は本社時代よりは遥かに少なく、仕事も得手な分野のものではなかった。会社の慣例としては、あと二年在籍できることになっていたが、二年早く退職し、和美との次の生活を計画し始めていた矢先の発病であった。

一人残された和美は、さすがに落胆の日々を過ごした。
経済的な面では、夫の長い会社勤めのお陰で、第二年金からの遺族年金があり、退職金などを取り崩しながらではあるが不安はなかった。
二人の男の子もすでに独立していて、親としての責任は終えていた。
子供は二人とも東京の大学に進み、その時点で経済的にはともかく生活的には親離れしてしまっていた。

長男は夫に似たのか温和な性質で、子供の頃から弟や友達とも争うことはあまり好まなかった。その子が東京の大学へ行きたいと言いだしたのには、和美は驚きもし不安もあったが、夫は、これも珍しいほど積極的に賛成したのも意外であった。
長男は大学院まで進み、その後も大学に残り、現在は東京の私立大学の教壇に立っている。

次男は、長男とはかなり違う性格をしていた。積極的というよりは、幼い頃から物事に動じないようなところがあった。学校の成績は長男の方が断然上であったが、高校までは兄と同じ学校に進んだ。ただ、大学の選定については、早くから志望校を決めていて、学校の成績ではとても無理だと言われていた有名私立大学に合格した。
大学でも、単位が足るとか足らないとか言いながらも、再三海外を回ったり、半年ばかりは名前だけのような留学をしたりしていた。渡航費用などは親から支援もしたが学業より忙しいほどのアルバイトで大半を稼いでいた。
結局、大学卒業には六年かかったが、兄貴が大学院までいったのと同じだなどと涼しい顔で、卒業と同時にこれも信じられないような大手商社に入社した。その後も海外と日本と半分ずつで、現在は青い目をした嫁と二人で東京で生活しているが、いつまた外国に行くか分かったものではなかった。

和美は、夫の一周忌を終えた頃から自分の生活を真剣に考え始めた。
子供たちはそれぞれの生活を自立させているので、その面の心配はなかったし、同時に自分が子供たちの生活に波風を立てるようなことは絶対にしないつもりであった。これは、夫が健在な頃から二人で話し合ってきたことであるが、一人になってからさらにその思いが強くなってきていた。
しかし、同時に、足や腰の痛みは和らぐことはあっても完治するとも思えず、そうそういつまでも一人暮らしを出来るわけでもないことは確かであった。

幸い、経済的な面では、生涯世話を約束してくれるそこそこの高齢者施設に入居する程度の物はあった。
子供たちがそれぞれ就職してからは、少しずつではあるが蓄えが出来ていたし、夫の退職金と遺族年金、自分も第二年金を積み立ててきているので、それらで大体賄えるはずであった。
それと、和美は五十代の時に両親を亡くしていたが、その遺産もほとんど手つかずで残されていた。ほんの僅かは妹たちと三人が使えるようにしたが、ほとんどは和美が管理していた。別に和美が一人占めするつもりなどないが、妹たちの考えで、和美が一括管理することになったのである。妹たちの言い分は、自分たちが困った時はその三分の一の範囲で助けて欲しいが、その必要がない時は姉さんが自由にしてくれというものであった。

和美は、幾つかの資料を集めたり、実際に施設などを見に行ったりもした。「テスバウ共和国」もその中の一つであったが、特別に魅力を感じていたわけではなかった。
それと、実際に幾つかの高齢者施設を見てみると、考えさせられることも少なくなかった。確かに、安心は出来そうであるし、かなり高価ではあるが魅力的な施設の所もある。けれども、そのどれもが、何だか人生を卒業してしまったような気持がしてしまいそうな一面を持っていた。
一人暮らしが出来るぎりぎりまで頑張ってみよう、という気持ちに傾きつつあった。

そんな和美の気持ちに決断を与えたのは、長男夫婦が訪ねて来たことであった。
夫の病気や死去などで、子供たちと顔を合わすことが増えていたが、三回忌を迎える少し前に、長男夫婦が訪ねてきて、同居を勧めてくれたのである。同居というよりも、同じマンションに売却物件があるので、そちらへ移ってきてはどうかという申し出であった。
和美が高齢者施設に移ろうと決断した一番の理由は、このことにあった。いつの間にか、子供たちの生活に波風を立てようとしてしまっていることに愕然としたのである。

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テスバウ共和国 入国体験記 ・ 第十二回

2011-08-17 11:11:28 | テスバウ共和国 入国体験記 
          ( 3 )

君枝は三人の中で最も活発な子供であった。
父は自分たちには男の子が生まれなかったが、その代わりにこの娘を授けてくれたのだとよく冗談に言っていた。
小学生の頃までは、妹の雅代とお揃いのような服を着せられることが多かったのだが、それは小学五年生頃までは二つ下の妹と殆ど身長が変わらなかったからでもあった。妹が高かったのではなく、君枝が小柄だったのである。

同学年の中では一番小柄な方であったが、その分何かにつけすばしっこく、飛んだり走ったりに関しては学年の中ではいつもトップクラスであった。そのころ盛んであった子供のスポーツクラブからは、いくつも誘いを受けたがあまり興味を示さず結局どこにも属さなかったが、運動会などで走ると短距離から長距離まで学校内では無敵に近かった。
いくら誘いを受けてもスポーツクラブには入部しなままであるが、学内で行われるいろいろな催しや集会などには積極的に参加し、リーダーシップを取ることも珍しくなかった。

妹の雅代と競い合っていた身長も、小学六年の頃からぐんぐん伸びはじめ、中学卒業する頃にはクラスでも背の高い方になっていった。今でも、三人の姉妹の中では君枝が一番背が高いが、妹の雅代はいつまでたってもそれが気にいらないようである。
高校生になってからも系統だったスポーツは何もせず、むしろ理科系の授業に興味を示して父を喜ばせたりしていた。自宅での勉強量は、三人姉妹の中で一番少なかったが、学校の成績は一番良く、中学の頃から常にクラスのトップ近くの成績を続けていた。

大学は京都で、その頃は君枝自身も研究者の道を選ぶつもりであった。大学卒業後は父のように研究所のある職場を選ぶつもりであったが、当時交際していた同学年の男性の影響で大学院に進みたいと両親を説得するようになっていった。
長女の和美はお嬢さん学校といわれるような大学を出て、すぐに就職して結婚に備えているような状態であることから、両親の本心は就職して欲しかったようであるが、和美の強い後押しもあって大学院に進むことが決まりかけていた。

しかし、君枝の希望を両親が承知してくれて間もない頃、一緒に大学院に進むことを相談し合っていた男性が不慮の事故に合い、生涯最大の挫折を味わうことになってしまった。
君枝は、大学院も就職も投げ捨ててしまい、卒業までを何することもなく送ってしまった。卒業後は大学院進学を指導してくれていた教授が心配して、自分の研究室の臨時職員として採用してくれた。給料はアルバイトにも満たないものであったが、絶望の日々を埋めてくれる時間を提供してくれる貴重な助けではあった。

半年後、君枝はアメリカに留学した。長女の和美が結婚した直後のことである。
留学に特別なテーマがあったわけではないが、とにかく誰も知り合いのいない場所に逃げ出したいことが目的であった。
結局アメリカで二年間を過ごしたが、そこでは大学での専攻とは全く関係のない経営理論について学び、アルバイトのような形で出入りしていた会社に認められて、その日本法人に勤めることになった。
君枝はその間一度も日本に帰らなかったが、両親や姉夫婦がそれぞれ訪ねてくれたし、妹は二か月ばかり滞在してくれた。

帰国後は東京での仕事が殆どであったが、両親や姉や妹とは普通に交際できるまでに回復していた。何人かの男性と友人以上の雰囲気に発展したこともあったが、結局結婚することはなかった。
東京で勤めることになったのは特殊な電子部材を取り扱う会社で、日本法人といっても形式的なもので、実際はアメリカ本社の支店みたいなものであった。ずっと総務部門に所属していたが、仕事の内容は庶務的な実務に時間を取られていたが、本社の彼女への期待は日本法人の監査的な目配りとアメリカ本社との連絡役であったようだ。

そして、四十代も終わりに近づいた頃に、大阪にも同様の別会社を設立することになり、役員待遇でそちらに移ることになった。東京とはずっと規模が小さく、関西エリアの取引先に対するデリバリーが中心であったが、和美の仕事内容は同じようなものであった。
ただ、この移籍により、長く離れていた実家に寄る機会が増え、両親の最期を看取ることが出来た。

実は、君枝には老後の生活というものに関心を持つことは殆どなかったのである。
両親の死に直面してからは、自分の将来ということも考えなかったわけでもないが、少なくとも六十五歳くらいまでは現在の会社で働ける見通しが立っていたし、収入も、役員とは名ばかりで大手会社の管理職にも及ばない程度のものであるが、一人暮らしの身には多過ぎるほどであった。ただ、これは性格もあるのか、貯蓄するという意識はあまりなく、妹の雅代に笑われるほど蓄えは少なかった。それでも会社を通じての第二年金や、第三年金は掛け続けてきたので、将来の生活に困るとは思えず、先のことは現在の会社を辞めてからでいいと思っていた。

君枝が、テスバウ共和国について関心を持ったのは、妹からの強い働きかけからであった。
妹の雅代の誘いに対しても、全く関心がないと伝えていたが、「姉さんを一人で行かせるつもりじゃないでしょうね」と、誘いというよりは脅迫に近い強引さに負けて、入国体験講座だけは受けるということで、会社に長期休暇を申し出ることになってしまったのである。







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テスバウ共和国 入国体験記 ・ 第十三回

2011-08-17 11:10:42 | テスバウ共和国 入国体験記 
          ( 4 )

一番下の娘雅代は、おおらかな性格の持ち主であった。
すぐ上の姉の君枝に言わせると、およそ雅代ほど図々しく自分勝手で、それでいて泣き虫なのは見たことがない、などと常々言っていたが、さすがにそれは少々オーバーな表現である。ただ、雅代の特徴をかなり正確についているともいえる。

第一、雅代には君枝のことを姉だなどという意識がなかったのだから、生意気な振る舞いがあるのは当然ともいえた。少なくとも小学校の低学年の頃までは、双子のような感覚を持っていたようである。
大学は長姉の和美と同じ大学に進んだが、あまり勉強は好きな方ではなかった。成績は中の上かもう少し上のクラスで悪くはなかったが、勉強そのものにあまり興味が持てなかったようである。全科目に対して、いずれも平均以上の成績を収めていたが、特別優れた成績の科目もなかった。
その代わりというわけではないが、人当たりが良く世話好きで、君枝に対する口のきき方の悪さからは信じられないほど外では敵のいない性格だった。

両親は、家庭の主婦には雅代が一番適していると思っていたが、意外に縁がなく、結婚したのは四十歳になってからである。
大学卒業後は、中堅の商社に勤務したが、その後は二、三年ごとに勤め先を変えていた。あまり物事にこだわらないようであり、人当たりも好感をもたれるタイプと思われるのだが、こと職場に関しては、許せないことに接すると辛抱するつもりは全くないようであった。
簡単に勤め先を投げ出してしまう半面、次の職場もそれほど苦労することなく見つけてきて、大学卒業後結婚するまでの間で遊んでしまった期間はごく僅かである。

結婚した相手は、勤め先の上司から紹介された人で、大型貨物船の船長であった。若い頃から船員として働いており、根っからの船乗りであった。
一年のうち半分は船の上、四分の一は海外暮らし、四分の一程度だけを日本で過ごすという生活が続いているようで、日本にいる期間の大半は休暇のような生活であった。
年齢は雅代より八歳ほど上で、すでに五十歳に近かった。彼もこれまで結婚する機会がなくどちらも初婚であった。

お互いにそれなりの人生経験を積んだ者同士の新家庭は、彼の会社の日本での拠点である名古屋でスタートしたが、二か月ほどの新婚生活のあとは、夫となった人は再び海上生活へと出ていった。
彼が乗務する大型貨物船の船籍は、アフリカ某国であるが、実質的なオーナーは東南アジアに本社を置く会社であった。その会社は、主として、インド、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、日本を結ぶ航路に船団を配置していて、彼が乗る船も船団の一翼を担っていた。

二人の新家庭は、会社が用意してくれた小さなマンションでスタートしたが、彼が海外勤務に就くと雅代はさっさと君枝の家に押しかけ、時には実家に戻ったり長姉の和美の家に居候したりといった生活で、自宅には月に三日もいなかった。
彼が海外の寄港地で休暇がある時には、雅代が訪ねて行くことも何度もあった。香港、インド、ドイツ、南アフリカ、サンフランシスコなどを旅行できたのはそのお陰である。彼の会社から振り込まれる給料の一部は、雅代が自由気ままな生活をするのに十分なものであり、たまに彼と見知らぬ街を歩く生活は悪いものではなかったが、二人の生活は四年ほどで破たんした。

離婚に至るような大きなトラブルがあったわけではないが、思い返してみれば、結婚の段階から双方ともが新生活にそれほどの期待を描いていなかったように思われた。
生活のほとんどが海上で、放浪のような生活を続けてきた男にとっては、将来を考えた場合のしっかりとした自分の家を持ちたいと考えたことは事実であり、真剣な気持ちからであった。しかし、いざ家庭を持ってみると、妻となった人に不満はないが、やはり以前の自由気ままな生活が忘れられず、経済的な面からも制約があることを認識し始めていた。
雅代にしても、優しくて自由な生活を保障してくれる夫には感謝していたし、時々訪れる外国の街でのひとときは、豊かな気持ちを醸し出してくれていた。しかし、両親や長姉夫婦の家庭と比べてみた場合、何かが違うという思いが少しずつ膨らんできてはいた。

二人が離婚について真剣に話し合った直接のきっかけは、彼が昇進により本社勤務に変わったことであった。その後も海上勤務が発生するようであるが、主体は本社での管理業務となり、生活のほとんどが本社のある東南アジアの某都市ということになったためである。
互いに憎み合うことなど全くなかったが、彼はその街で骨をうずめるつもりのようであり、雅代には日本を離れてしまう決断が出来なかったのである。

離婚が成立した後、雅代は僅かな荷物を持って君枝のもとに転がり込んだ。
君枝の都合など知ったことではなく、君枝もそんな雅代を積極的に拒むようなことはなく、これまで納戸代わりになっていたマンションの一室を整理して雅代の住処とした。その後は雅代は働きに出ることはなく、家事一切を引き受け、自分が掛ける保険や小遣い以外は全て君枝の収入で生活することになった。

その後君枝が大阪に移ると同じように移動し、同居の形に変わりはなかったが、実家に通うことが多くなり、やがてそちらが生活の拠点となって、両親の世話をし見送ることになった。
父も母も、決して長命といえないまでも、まずまず天寿に近いものをまっとうし、三人の娘がいずれも近くにいる環境の中で悪くない晩年だったといえる。
両親を亡くした後は、雅代が実家の家を守っていたが、やがて長姉和美が夫に先立たれた後は、実家を処分して和美の家に移った。

雅代が同居を始めた頃には、すでに和美は健康面での不安を訴えるようになっていた。
雅代が同居することになり、生活面の不自由さは解決できたが、和美はいずれかの施設に入る決意を固めていて、あちらこちらを訪ねたりしていた。雅代も一緒に訪問したりしていたが、和美が何らかの施設に移る時には雅代も同行するつもりなので、そんな二人を受け入れてくれるのに適した施設はなかなか見つからなかった。
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テスバウ共和国 入国体験記 ・ 第十四回

2011-08-17 11:10:02 | テスバウ共和国 入国体験記 
          ( 5 )

三人の姉妹は、穏やかな家庭で育てられたが、三人それぞれに幾つかの波に翻弄されながら生きてきた。
ただ、三人は形は様々とはいえ常に離れることなく、どこかで結ばれるような形で過ごしてきていた。

その中で、長女の和美は自分の将来はいずれかの高齢者施設に世話になることに決めていて、健康面での不安と共にその時期は差し迫っていると考えていた。
かなりの数の資料を取り寄せ、その幾つかには実際に足を運び、まずまずと思われるものも選び出すことが出来ていたが、テスバウ共和国に興味を持ったのは、テレビ番組の中でかなり詳しく報道されているのを見たことからである。
そして、ここの入国体験講座を受講しようと決断させたのは、息子から東京へ来ないかと誘われたことであった。関西しか知らない和美には、東京という街は住むということでは全く未知の土地であったし、何よりも、自分が子供たちの生活を乱そうとしていることに驚いたからである。

雅代はまだ六十歳になったばかりだが、和美がいずれかの施設に入るのなら自分も当然一緒だと考えていた。それに雅代には、現在の生活も高齢者施設に入ってからの生活もさしたる変化があるようには考えていないようであった。むしろ、日常生活の面倒なことが軽減され、より自由な生活が保障されるような感覚を抱いていた。
ただ、和美が気に入っている高齢者施設は、入居一時金がとても高く、蓄えをほとんど持っていない雅代としては姉について行くのは困難なように思えた。その点では、テスバウ共和国はそのハードルが比較的低く、しかも姉について行くのには最も適しているように思われ、三人そろって移ることを二人の姉に働きかけていた。

二番目の君枝は、あと三年程度は今の生活を続け、その後数年は海外で過ごすのも良いと漠然とした考えを描いていた。独身で、しかも平均的な会社員よりは高い収入を得てきていたが、貯蓄らしいものはあまりなかった。六十五歳まで勤めさえすれば、あとは退職金と各種の年金だけで、別に不便することなく暮らせると考えていた。
しかし、妹の雅代から長姉の和美も加えた三人で生活しようと再三口説かれているうちに少しずつ気持ちが動いていた。
自分の将来設計の中には、病気などは計算に入っておらず、二十年、三十年後の自分の姿を加味していないことに気付いてきたからである。

もちろん、君枝とて自分が老いていくことは当然のことと認識していたが、雅代に何度も言われているうちに、自分が介護を必要とする自分の姿と向き合ったことなどなかったことに気付いたのである。それに、六十五歳まで働くというのも、年金受給までの収入のためで、経済的なことにめどがつくのなら特別拘ることもないようにも思えてきたのである。

     **

結局、三人の姉妹は、とりあえずテスバウ共和国の入国体験講座だけは一緒に受けるということで意見の一致を見た。
長女の和美は、最後まで自分についてくることはないという意見であったが、雅代がそれを承知しなかった。今こそ、三人の姉妹は新しい共同生活をスタートさせるべきであって、君枝に有無を言わせないつもりのようであった。
もっとも、君枝も少しずつテスバウ共和国という存在が気になりだしていたのだが、それよりも、昔からどうも雅代が苦手だった。妹のくせに実に生意気なのだが、どうも憎めなくて、気がつくというままにされていることがよくあった。そして君枝は、それがあまり嫌ではなかったのである。

結論が出たところで資金面の計算をすることになったが、一番強気な雅代が全く資金の目処が無く三人で大笑いになってしまった。
テスバウ共和国の案内書によると、一人で入国する場合は、月当たり二十五万円程度の安定収入が最低条件であった。二人以上での入国の場合は、条件にもよるが二十万円程度になる。
他に一時金が、三百万円と、予備資金が最低百万円、入国体験講座が五十万円が必要であり、入居のための運送費など諸費用を考えると、一人当たり五、六百万円は必要となる。

すでに六十五歳になっている和美の場合はこの金額でいいわけだが、妹二人には他に必要なものが追加される。
一つには、テスバウ共和国市民に対して、母国政府から一人当たり年間六十万円の補助金が支給されているが、これは六十五歳以上の人に限るので、それ以下の入国者にはその分を個人負担しなければならず、一時金での納付が必要になる。正式入国の日にもよるが、君枝の場合で百五十万円程度、雅代の場合は二百五十万円程になる。
さらに二人の場合は、年金を受け取る時期まで月々の費用も準備が必要で、月に二十万円としても、君枝で六百万円、雅代は一千万円程度必要になってくる。

「とても、わたしには準備できないわ」
雅代が早々と音を上げた。

君枝の場合は退職金をあてに出来るが、手持ちの蓄えではほとんど使ってしまうことになる。
あと二、三年働いて、そのあとは海外を中心に自由に旅行してまわるような生活を思い描いていただけに、このまま高齢者組織に直行するのには抵抗があった。さらに、経済的な面でも、これからの三年足らずの期間に将来のための貯蓄に励めば、五百万円やそこらは簡単に貯められるはずである。それを、その間の生活費に六百万円必要だと言われれば、やはり躊躇してしまう。

「何度も言うようだけれど、あなた方は何も私についてくる必要などないのよ」
長姉の和美は、何度もこの言葉を繰り返している。
「三人で一緒に暮らすのが良いことだとしても、あなた方はもう少し先で来ればいいのよ。まあ、君枝さんがせっかく休暇の手配まで済ましたのですから、入国体験講座は一緒に受けるとしても、あくまでも三人で長期旅行を楽しむ程度の気持ちで受けましょうよ。
それとね、お金のことだけど、私が預かっているお父さんとお母さんのお金、もし必要であればあれは使ってもいいのよ」

三人の姉妹は、何度も相談を重ねた上で、入国体験講座の申し込みをしたのだが、そのあとでも、三人が集まると同じような話を繰り返していた。
いくら仲の良い姉妹だといっても、やはり三人三様の考えがあり、テスバウ共和国という未知の世界に飛び込んでいくのは簡単なことではなかった。



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テスバウ共和国 入国体験記 ・ 第十五回

2011-08-17 11:09:18 | テスバウ共和国 入国体験記 
     第三章  私たちの国

          ( 1-1 )

入国体験講座が始まった。
もっとも、配布された資料にある講座日程表によれば、昨日の役員挨拶が最初のプログラムになっているので、正しくは講座の二日目が始まったということになる。
会場は昨日と同じで、全員が昨日と同じ席に着いた。朝は九時に集合、九時十五分に講義が始まり、午後四時半に終了というのが大体の日程になっている。
日程表には全八週間の大まかな内容が書かれていて、第一週目の五日間は国家全体の組織とか、運営体制、財政状況などの説明が主体で、土曜と日曜の二日間はお休みで講義は予定されていなかった。

二日目最初の講義は、昨日も挨拶に立った理事長の石田順三が講師であった。講義の表題は、『私たちの国テスバウ共和国が目指すもの』となっている。
石田は、昨日に続き参加者に対して歓迎の言葉を述べたあと、簡単な自己紹介を始めた。
それによると、石田理事長は現在満七十歳、テスバウ共和国の市民権を得たのが六十五歳の時なので、当然のことながら、まだ五年余りしか市民生活の経験がなかった。

もともとは大化学者を目指した優秀な研究者で関東の有力大学の教授になる一歩手前までは順調だったのだが、そこで悪い仲間に誘われて民間企業に移り娑婆の世界を経験したと、冗談を交えながら自己紹介した。

中堅の化学会社の研究室に招かれた石田は、大学の研究室とは肌の違う厳しい競争環境の中で戸惑いながらも、幾つかの成果を生み出していった。目まぐるしいばかりの競争は、その中に身を任せているうちにある種の充実感を与えてくれるものでもあった。
いつか社内での身分も上がり、同時に自ら望んだわけではなかったが、職務範囲は広がり研究者というより経営陣の一員として活動するようになっていった。経済的にもそれなりに恵まれていたし、子供はいなかったが妻との生活にも満足していた。
しかし、ある時ふと漏らした妻の一言が彼に衝撃を与えた。

「結局わたしたち、慌ただしく一生を終えるのでしょうね・・・」
妻は社交的な性格ではないが、若い研究者や会社の部下たちを自宅に招いた時には気持ちの良い応対をしてくれていて、現に今でも妻のファンだという後輩が何人かいるのである。
近隣の人や、古くからの友人も何人かおり、旅行や習い事などそれなりに充実した毎日を送っているように見えていた。子供がいないという面はあるが、たまたま授からなかっただけで、結婚以来二人だけの家庭というものを築き上げてきたつもりであった。
しかし、妻の漏らした一言は、彼には少なからぬ衝撃となって伝わってきた。考えてみると、二人で築いてきた家庭だといっても、殆ど全てが彼を中心に慌ただしく動いていた。妻が家庭生活をどう考えているかなど考えてもみなかった。

この妻の一言は、単に妻の人生を思いやる切っ掛けになったばかりでなく、石田自身の将来に思いを巡らす切っ掛けとなった。彼も、いつか六十歳に手が届こうとしていた。
石田は、自分の人生というものを真剣に考え始めた。それは、初めてといってよい経験であった。
もちろん、若い頃には人並みに仲間とそれぞれの将来を語り合ったこともよくあった。研究者としての進路を定めた後も、折々に思い悩むことも少なくなかった。自ら望んだことではなかったが、いつか研究者から管理者へと進み、幾つかの研究チームを統括する立場になっていった。

自らが研究に没頭する時間は失われていったが、若い研究者に活躍の場を作るべく腐心することも、それはそれでやりがいのある仕事であった。
高い能力を持ちながらチャンスに恵まれず挫折していく部下がいた。なまじ先が見えるばかりに、闇の向こうにある真実を見つけることの出来ないエリートがいた。偶然掴んだ新発見を己の能力の成せるわざと勘違いして、社内地位の向上と共に傲慢で面白味のない男になっていった者もいた。愚直なまでにこつこつと縁の下の力役を務め、属したチームは常に相応の成果を上げながら職業人としては日の目を見ることの少ない男もいた。

幸いにも会社は大きく成長し、石田は数百人の研究員を統括する立場に立っていた。
目まぐるしく発展する技術競争の中で身を削るような緊張こそが生きがいだと考えていた。自分は、研究者としてよりも、多くの研究者に活躍の場を与える仕事の方が適しているように思えるようにもなり、いささかの自信も掴みかけていた。
しかし、「結局わたしたち、慌ただしく一生を終えるのでしょうね・・・」という妻の言葉に、石田は愕然としたのである。

「そのような、気持ちが激しく動揺している頃に、私は大月先生に会ったのです」
石田順三は、一呼吸置くように言葉を切り参加者を見渡した。
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テスバウ共和国 入国体験記 ・ 第十六回

2011-08-17 11:08:41 | テスバウ共和国 入国体験記 
          ( 1-2 )

理事長職は、テスバウ共和国にとっては総理大臣にあたる職務である。それがどの程度の権限を有するものか参加者たちは知らなかったが、国家の代表者であることは全員がパンフレットなどで承知していた。小なりとはいえ共和国を名乗る組織のトップの講義ということで、参加者全員が緊張していたが、石田順三はまるで昔話を懐かしむかのように話を続けていた。

「大月雅文先生・・・、昨日皆様にご挨拶申し上げました常任委員会議長の大月雅文先生です」
当時、大月はテスバウ共和国の理事長であったが、すでに社会福祉などの分野では著名な存在になっていた。母国政府や州政府などの関係機関から要請される諸会議などへの出席依頼は凄まじい数であったが、当然のことながらテスバウ共和国の最高責任者としての実務を優先することから、外部行事への出席は限定されていた。

石田はある集会で先輩から大月を紹介され、その時のごく短い時間の懇談でその崇高な人格に魅せられたのである。
そして、その僅かな縁を頼って自社のセミナーでの講演を依頼しようとした。しかし、セミナーを担当している部署の責任者も、運営を任せている社員研修の専門会社も、とても無理だと難色を示した。大月のスケジュールに組み込んでもらうのは、民間会社では一年や二年では駄目だというのである。

石田は大月に面会の許可を取りテスバウ共和国を訪ねた。そして、何とか時間を作ってくれと頼み込んだ。
大月に講演を依頼したいと思ったセミナーは、石田が統括する部門の社員のためのものであった。研究者として新しく入社してくる若者は毎年五十人に及ぶが、それに近い人数の研究者を送り出すことになる。どのような職種であっても同じことかもしれないが、特に研究者の場合は配置転換に対する拒絶反応が強い。若手で他部署へ移る場合はともかく、長年研究部門一本でやってきた人物の配置転換や、退職後のケアーは難しい仕事であった。

肉体と神経を削っていくような研究所の仕事は高齢者には厳しい。この高齢者という表現は正しくないが、実験を中心とした一線の仕事に携わる者の適正年齢は意外に低いものである。
石田の会社の場合は原則としてチームを組んでいるので、年齢とともにリーダーであるとか管理職としてなど経験を生かした職務に就いていくことになるが、当然その数は限られる。そのラインから外れた者に対しては、他の部署か、関連会社か、斡旋できる取引先などを勧めることになるが、研究者としての経験が長ければ長いほど本人の抵抗や落胆は強く、受け入れる側も拒絶勝ちになる。

このセミナーは、数年前から五十歳を迎える全社員に対して将来設計を考えさせるために実施しているが、石田の会社では中間管理職の大半はこれ以前に配置転換されている例が少なくない。その影響もあってか、この層のモラル低下や、戦力としての活用が十分されておらず、経営陣にとって大きな課題になっていた。
その中でも研究部門経験者に対する配置換えが一番の難題になっていた。

大月に依頼した講演は、セミナーの一環として行われたものであるが、石田の働きかけもあって、本社部門での希望者には参加できるようにした。
このセミナーで大月は、「人生半ばを過ぎれば、一度自分の生きざまを見つめ直すことも大切なことだ」と語った。
御社のような一流企業に勤めているということは、ある意味では恵まれた生活を送ってきたのだろうと推察できるが、それはまた同時に、激しい競争社会の真っ只中を駆け抜けているともいえる。人の一生が短いものなのか長いものなのかはともかく、体験できることはごく限られている。
しかし、一度立ち止まってみて、己の生きざまを見つめ直してみると、意外なものが見えてくるかもしれない。これまでの生活を否定する必要など全くないが、その世界が全てだと考えるのも少し惜しいように思う・・・。

大月は、百人ほどの参加者に向かって熱っぽく語った。そして、その講演を間近で聞いていた石田の心を揺り動かした。妻の言葉から将来に漠然とした不安を抱いていた石田は、大月は自分に語りかけているのだと思った。
これを機に、二人の親交が始まった。もちろん石田が大月に師事する形であったが、テスバウ共和国を度々訪れるようになり、市民権を得られる年齢を待ち兼ねるようにして妻と共に入国したのである。

「理事長という大役は未熟な私には少々荷が重いのですが、大月先生の講演を始めてお聞きした時の感動を一人でも多くの人に伝えようと思って引き受けました。
皆さまが、私たちの国テスバウ共和国の市民としての生活を選ばれました時には、これまでの経験を生かすのも結構、新たな働き場所にチャレンジするのも結構、存分に活躍いただきたいと思うのです。皆さま自身で選ばれたポジションでの仕事が、この国のためになり、この国に生きる市民たちのためになり、そして、そのことが、何よりも皆さまご自身にとって幸せであり充実していると感じられる毎日であること・・・、テスバウ共和国での一日一日がそのようであるようにと私は願っております。

テスバウ共和国の市民になるということは、多くの世話や介護が受けられて安穏な生活が得られるということではありません。共に生活する市民たちのために自分が役立つ場所を見つけ出すことが出来る所だと考えていただきたいのです。
そして、やがて老いて、あるいは病に倒れ、あるいは苦しい出来ごとにつまずいた時、周りの市民たちが、そして私たちの国が当然のこととして手を差し伸べてくれる・・・。私は、テスバウ共和国をそのような国家にしたいのです」


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テスバウ共和国 入国体験記 ・ 第十七回

2011-08-17 11:08:00 | テスバウ共和国 入国体験記 
          ( 2-1 )

石田理事長の講義の後は、若干の休憩時間を挟んで国家組織についての説明となった。
講師は総務部総務局に属する女性で、進行役からは、テスバウ共和国全体の人口動向や組織体への人員配置を統括する仕事のエキスパートだとの紹介があった。

女性講師は自己紹介の後、国家全体の運営体制について説明に入った。配布されている資料にはかなり詳しい組織図も示されており、それに基づいての説明である。

「それぞれの担当部署の役割につきましては、一度にお話しましても混乱するでしょうし、これから先それぞれの担当者から説明があると思いますので、私の方からは私たちの国テスバウ共和国がどのように運営されているかを説明させていただきます。
皆さまが正式に市民になられますと、いずれかの住居が割り当てられることになります。
住居地は大きく分けますと五つのブロックに分かれております。各ブロックには八棟の建物がありますが、本部ブロックは少し形態が別になっています。その理由につきましては別の機会に説明させていただきますが、大半の方は本部以外の四ブロック三十二棟のいずれかに住まわれることになります。

各棟は四階建てで、ワンフロアーに三十二戸、合計百二十八戸あります。これが運営組織の基本体となります。もちろん、各棟は四階に分かれていますし、各フロアーも八戸ずつに区分されていますので、日常生活ではその八戸が一つの組織のようになっているのが実態のようです」
講師は、ここで少し間を取った。参加者の間で少しざわめきがあったからである。

「お話だけでは分かりにくい面がありますでしょうが、順次現地を見ていただきますので、今日のところはお手元の資料でご辛抱下さい。また、ご質問事項もあるかと思いますが、後ほど時間を作りますので、その時にまとめてお受けすることにさせて下さい。
それから、途中で休憩時間は取りますが、お手洗いやお飲み物なのでお立ちになるのは自由にしていただいて結構ですよ。

さて、それでは再びご説明を続けましょう。
一つの棟にはおよそ二百五十人程の市民が生活しております。その中から二人の代議員と八人の地区委員が選出されます。選出される方法は様々ですが、原則は選挙によります。代議員の数は、本部ブロックを加え合計七十人が選ばれます。

地区議員の八人は、一つの棟、つまり二百五十人程のコミュニティの運営にあたります。属している市民たちの生活環境や生活状況などに問題ないかチェックし、全ての市民が心豊かな生活が送れるようにする世話役でもあります。もちろん本部からの支援もありますし、実際に行動するのは後で述べます互助組織の担当者が主体となります。

代議員は、母国の体制に当てはめますと国会議員にあたります。市民から選出された七十人の代議員が、私たちの国テスバウ共和国を運営する中心になるのです。但し、母国の国会議員と違うところは、彼らは選出された地域のために働くのではなく、国家全体のために働きます。
決してこれは皮肉で申し上げているのではなく、母国の国会議員の場合は選出された地区住民の意向を意識せざるを得ない一面がありますが、私たちの国の代議員は国家全体のために働くのが与えられた役割なのです。

選出された代議員からは、十二人の理事が互選により選ばれます。その他の代議員は、国家運営組織である八つの部署のいずれかの担当になります。その任務は、それぞれの分野をより充実させるために監察したり、各部署の希望や不満を理事会に反映させたりすることです。必要に応じて、母国などのノウハウを導入するための立案などもします。

理事に選ばれた十二人は、互選により理事長を選出します。
選ばれた理事長は国家の代表者としての任務に就きます。母国における首相にあたります。理事長は、理事会を統括し各理事の役割を決めます。母国制度にあてますと、大臣を任命するのに似ています。
現在の体制は、石田理事長のもと、三人の副理事長、各部門の担当理事が八人という体制になっています。

私たちの国テスバウ共和国は、理事メンバーが内閣であり、代議員総会が国会という感じで運営されていますが、その性質は母国のものとはかなり違います。詳しい説明は省略させていただきますが、例えば、各部門を担当する理事は、母国の大臣のように部門の最高責任者になるわけではありません。その組織が国家の意とする方向に動いているか、もっと良い運営の仕方がないかなどを部門の長と理事会との意思統一を計るのが主な仕事なのです。

そして、これとは別に、常任委員会という組織があります。
お手元の組織図にもありますように、組織上は、この常任委員会が私たちの国の最高機関ということになっています。
常任委員会は国家の運営に直接携わることはありませんが、代議員総会あるいは理事会が決定した事項のうち重要なものについては、この委員会の承認が必要となっています。例えば、国家予算の決定、理事の解任、市民分担金の変更、財団基金の運用に関する事項、市民権停止の決定などがあります。

常任委員会の構成は、理事経験者の六人と現役の理事四人の十人で構成されています。このうち現役理事の四人は理事長が選任しますが、現在は理事長と三人の副理事長が常任委員を兼務しています。理事経験者からの六人は、自薦他薦とも可能で定員オーバーで調整できない場合は、理事会が決定することになっていますが、これまでそのようなことは一度も行われていません。
理事経験者から選ばれる委員の任期は四年で、再任も可能です。欠員が出た場合は、常任委員会が候補者を選び補充します。
そうそう、常任委員会の現委員長は、昨日ご挨拶申し上げました大月雅文で、私たちの誇りなのです。

先程も申し上げましたが、常任委員会はこの国の最高機関でありますが、むしろ、わが国の良識と考えていただいてよいと思うのです。私たちの国は、市民全員で少しでも住みよい国家になるようにと努力をしておりますが、常任委員の方々はその先頭に立っている人であり、万が一、この国が間違った方向に向かおうとする場合には、最後のブレーキ役になってくれる委員会なのです。
さらに、常任委員会の重要な仕事には、国外の知識やノウハウを吸収することや、寄付を募ること、有能な人材の確保などがあります。

私たちの国テスバウ共和国を将来にわたって心豊かな国家として存続させるためには、すばらしい技術や制度を取り入れていかなくてはなりませんし、国外の善意の人の技術的・経済的支援も必要です。
そして、何よりも、心豊かな方々に次々と市民になっていただかなくては私たちの国は消滅してしまうのです。
何せ、私たちの国では、誕生してくる子供が一人もいないのですから・・・」

会場から笑いが起こった。
おそらく参加者の殆どが予想していなかったような固い講義内容に戸惑っていたと思われるが、講師の言葉に空気が少し緩んだ。
内藤と名札を付けている女性講師も引き込まれるように笑顔を見せ、休憩を告げた。


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テスバウ共和国 入国体験記 ・ 第十八回

2011-08-17 11:07:00 | テスバウ共和国 入国体験記 
          ( 2-2 )

三姉妹も、講義内容に違和感を感じていた。特に末っ子の雅代は二人の姉を見つめて肩をすくめた。
「まるで就職試験でも受けるみたい」
と、不満そうにつぶやきながら席を立った。

休憩の後、講師は質問を受け付けた。質問者の数は少なかったが、「代議員や地区委員の方は負担が大きいように思われるが、立候補する人は多勢いるのか」というものがあった。
「残念ながら多くはありません」
女性講師は静かに首を振った。

「私たちの国は、市民一人一人の力で成り立っています。身体や知恵を働かせることが出来る人は、全員が何らかの仕事を持っています。代議員や地区委員もそんな仕事の一つという位置付けですが、やはりご苦労の多い仕事です。代議員七十人のうち半分近くの人が自分から希望してなったのではなく、周囲の人に押されてやむなくなったというのが実態のようです。しかし、代議員でいえば、任期を終える時点では八割以上の人がその任務に誇りとやりがいを感じています。互助部が行ったつい最近の調査でも、そのような結果が出ています。

皆さまが私たちの国の市民になられました節には、ぜひ積極的に代議員や地区議員に名乗りを上げて欲しいのです。一度経験されますと、やりがいのある仕事だということが分かっていただけると思うのですが、これは、私たちの国の宿命なのですが、経験豊かな代議員や理事の方々は次々と身を引かれていきます。やはり、他の職場に比べて責任のある立場ですから、体力の衰えから引かざるを得ないことが多いのです。

私たちの国の市民は、働ける人は全員が仕事を持っています。それも、持病があったり身体の一部が不自由な人も含めてです。実際に市民の生活振りを見ていただくとよく分かると思うのですが、介護を受けながら生活している人がごく短い時間であれ何らかの仕事をしているという例は少なくないのですよ。
私たちの国は小さな国ですが、それでもいろいろな職種があります。市民の方々には、可能な限り希望の職種についてもらうようになっていますが、経験を積んで一つのチームの中心戦力になってきますと、やがて体力の衰えがやってきます。これはどうすることも出来ない現象なのです。
私たちの国テスバウ共和国は、新しく市民になってくださる方々の力なくしては成り立たないのです・・・。

あまり負担を感じられますといけませんが、逆に考えていただきますと、新しく市民になられた方にとって、やりがいのある仕事が満ち溢れているところでもあります。
市民全員が、体力や精神力の許す範囲で生き生きと他の人のために働き、そして余暇には、何の憂いもなく過ごせる楽しみを見つけ出す・・・、私たちの先輩たちは、テスバウ共和国をそんな国に仕上げてくれているのです」

女性講師の熱弁に、期せずして拍手が起こった。初めはためらいがちな拍手だったが、次第にその音が大きくなっていった。
「ありがとうございます」
女性講師もこれほどの拍手は予期していなかったらしく、頬を染めて礼を述べた。

「固いお話が続き恐縮ですが、もうしばらくご辛抱下さい。
ここまでは、常任委員、理事、代議員など、国家の運営の中心になるメンバーについてお話してきましたが、これからは、実際に運営していく組織体がどうなっているかについてご説明させていただきましょう。母国の体制に当てはめますと官僚組織ともいえます。
但し、母国の官僚組織は公務員によって組成されていますが、私たちの国には公務員にあたる者は一人もおりません。全市民がいずれかの組織に属して責任と労力を担っているのです。

私たちの国を実際に運営するための組織は、八つの部に分かれています。具体的にはお手元の資料を見ていただきたいのですが、八つの部といいますのは、総務部、財務部、厚生部、互助部、交通防災部、国土管理部、地域運営部、市民生活部です。そして、それぞれの部には幾つかの局があります。さらに局には幾つかの班あるいはチームがあります。
私たちテスバウ共和国市民は、健康が許す限りいずれかの部署に属して働くことになります。私たちの国には、私営の企業がありません。国営の企業もありません。全てが国家組織の一部になっており、私たち市民は全員が組織の一員として市民サービスに努め、同時に全員が豊かな生活を確保するためのサービスを受けることが出来るのです。
つまり、私たちの国テスバウ共和国は互助組織により成り立っているのです。

例えば私は、総務部総務局の組織班に属していますが、私に与えられている仕事は、この国の組織がどのように成り立っているのか、改善するところはないのか、市民全員に組織について理解してもらうこと、各組織がうまく運営できているのか、組織間の意志疎通は十分なのか・・・、などについて研究や調査を行っています。
本日皆様にお話しさせていただいておりますのも、私たちの国の体制について理解していただくための、私の重要な任務なのです。

私たちの班は八人で構成されていますが、市民の方に直接お世話させていただく機会は殆どありません。しかし私は、毎日の買い物や外食なども便利に利用させていただいております。健康診断も定期的に案内していただけますし、病気になれば入院も簡単に出来ます。部屋の中は自分で掃除をしますが、公共部分や建物全体の管理や補修はそれぞれの担当の方がやってくれます。
図書館や映画館などもありますし、お茶やお花を楽しもうと思えば同好会が幾つもあります。詩吟や合唱、ご詠歌の会さえもあります。もちろん全てが無料というわけではありませんが、市民権を得るのに必要だという経済的条件のぎりぎりしか用意できなかった私ですが、充実した一日一日を送っていくのに何の不自由もありません。

大変大雑把な説明でしたが、私の持ち時間が無くなって参りました。ご理解いただけない部分も多いかと思いますが、順次、個別の部署についてそれぞれの担当者から説明させていただきますし、実際に現場を見ていただくことで理解していただけるようになるかと思います。
どうぞ皆さま、私たちの国テスバウ共和国の良いところ悪いところを十分に見ていただき、その上で、全員のお方が私たちの仲間になられるよう切に願って終了とさせていただきます」



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テスバウ共和国 入国体験記 ・ 第十九回

2011-08-17 11:06:23 | テスバウ共和国 入国体験記 
          ( 3-1 )

昼食は昨日と同じ食堂であった。
メニューの選択はあまり出来ないが、プロの食堂というより家庭料理に近い献立や味付けが、何か安心感のようなものを感じさせた。

午後の講義は、三班に分かれて施設を見学することであった。
三姉妹が属する第二班は、最初に隣接する病院施設を見学し、その後講義を受けている会場がある本部棟を案内された。

病院施設は、地下一階地上五階建てでテスバウ共和国最大の建物である。
地階は案内されなかったが、機械室が中心で霊安室などもあるらしい。
一階は外来診療のスペースで、大規模な公営病院といった感じである。大きくは、内科、外科、歯科、眼科に分けられていて、それぞれの科の中がさらに細分化されていた。例えば内科では、消化器・循環器・皮膚・アレルギー・心療内科・放射線科などという診察室が並んでいた。
参加者から質問があったのは、上記の分類とは別に一般診療という受付があり、その辺りがいやに空いていることであった。

「ええ、ここはいつもこんなものですよ」と引率者は笑顔で答えた。
ここを案内すると、殆どの見学者から同様の質問が出るそうである。詳しくは後日の講義で説明があると思いますが、と前置きしながら説明してくれたのによると、一般というのは予約のないという意味らしかった。
市民は、体調不良などを感じた時は、通常は各棟にある診療所で診察を受け、その後必要な場合はこの本院に通うことになっていた。従って、来院者の多くは予約診療になっているのである。

それではどういう人が一般診療の対象者かというと、大半が夜間などの緊急の患者である。また、診療所が診察している時間帯であっても、明らかに重症であるとか、業務や行事などの関係で本院の方が便利な場合は利用することが出来るし、母国などから見学や視察で入国している人が発病したり怪我をしたりした場合も、ここが担当することになっていた。
当国の医療施設はテスバウ共和国市民以外の診療を行わないのが原則であるが、緊急時に国外の人を診療できるように、州立病院の僻地対策施設としての資格を得ていた。

二階は殆どが入院施設になっていた。この階の入院患者は治療のための患者で、当然通常の生活に戻るための治療が行われている。
三階は、病院職員のための施設が中心になっていた。
医師や看護師や介護士の他にも、清掃や食事など補助的な業務に携わる市民の数も多数いる。病院関係で働く市民の数は、当国実働市民の三分の一にあたるとのことであった。それらの人たちのための施設がずらりと並んでおり、大きな食堂や喫茶室もあった。
三姉妹たちの班は、その喫茶室でしばらく休憩を取り、それから四階、五階に向かった。

四階は、重症患者のための病室が並んでいた。意識はかなりはっきりしているが、普通の生活への復帰はまず望めない患者たちだと説明があった。
参加者たちは思わず身を固くし、自然に足音を忍ばせるように進んだ。
しかし、意外なことに、行き交う看護の世話にあたっている看護士などは驚くほど活発な動き方をしていた。団らん室らしい大きな部屋には、車椅子で来ている患者が二十人ほど集まっていたが、参加者たちが部屋に入ると介助にあたっている人たちからは、「こんにちは!」と元気な声をかけてきた。それも、患者たちに一緒に挨拶するように促しながらである。

参加者たちは全員が驚き、身をすくめるような姿勢になったが、それでも恐る恐る挨拶を返した。
「もしよろしければ、近くに寄って大きな声で話しかけてやってください」
参加者たちの後方から背の高い女性が近づき声をかけてきた。この階を担当している看護士たちのリーダーの一人だと世話役が紹介した。

「普通の人たちと同じように接していただければいいのですよ。この部屋にやってくる人たちは、病状が安定している人たちなのです。ちゃんとした会話が成り立つことは少ないのですが、皆さんから話しかけられるとうれしいんですよ。時には、昔話など語ってくれることもありますのよ。
懸命に生きている患者さんたちに私たちがして差し上げられことは、本当にしれています。声をかけたり、手を握ったり・・・。もちろん医学的な治療も大切ですが、あの方たちの心に訴えかけることが出来る科学的な治療など未だにないのです」

参加者たちは、患者や付き添いの人たちとぎこちない形でだが懇談した。
三姉妹が接した介護士の一人は、この病棟を担当するようになってから自分がすごく明るくなった、と話した。沈んだ気持ちでこの人たちとお話するなんて、もってのほかですものね、とも語った。
リーダーの看護士の話では、車椅子を押して付き添っているのは全員が介護の専門家ではなかった。もちろん初級介護士の資格は持っているが、それはこの国の市民のほぼ全員が持っており、専門的な介護士としての業務に就くのは中級以上の者だということであった。

「でも、どうですか? 介護させていただくということは、専門的な知識の有無などあまり関係ないと思われませんか?」



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