雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  軍師の花嫁

2012-02-13 08:00:04 | 運命紀行
         運命紀行  

              軍師の花嫁


「ご内室に大坂城にお移りいただきたい」
予測していたことではあるが、戦雲はすでに動き始めていた。

黒田家の大坂天満屋敷では、重臣以下このような大坂方の動きは承知していた。
六月十六日、当主黒田長政は、徳川家康の上杉討伐に従うべく出陣していった。
長政の父如水(官兵衛孝高)は国元にあったので、栗山四郎右衛門、母里多兵衛らの重臣に留守を託し、このように命じていた。
「石田三成が挙兵に動けば、家康殿に従った諸将の妻子を人質として大坂城に幽閉するはずである。もし、そのような事態が出来したなら、直ちに母上と妻を国元へ送り届けよ。そして、どうしても脱出が叶わぬときには、両人を殺して、そなたたちも自害せよ。断じて大坂城に連行され、生きて辱めを受けてはならぬ」

その命に従って、黒田家の天満屋敷では万が一の場合の脱出に備えは整えられていた。出入りの商人、納屋小左衛門宅に二人の内室を匿ってもらうように手筈がなされていた。
しかし、いざ実行に移そうとした時には、すでに大坂方の軍勢が、黒田家の屋敷を遠巻きに取り囲んでいた。
そこで重臣たちは策を練り、夜を待って、屋敷の裏手の湯殿の壁に穴をあけ、二人の内室を俵に詰めて外に出し、それを籠に入れ商人に扮装した母里多兵衛が天秤棒で担いで小左衛門宅に運び込んだ。
小左衛門宅では、内蔵に住まわせ、主人夫婦の寝所の床下に隠す手筈も整えていた。

だが、その後、黒田屋敷には、騎馬武者や鉄砲隊を含む六百余の軍勢が押し掛け、二人の内室の所在を確認しようとした。
「お二人とも屋敷内におります」
という家老の返答にも満足せず、二人の顔を見知っているという女性を連れてきていて、確認させようとした。
仕方なく、栗山四郎右衛門は二人によく似た侍女を選び出し、一人は病気と伝え一人が付き添っている形で遠くからその姿を見せ、在宅を認めさせたという。

やがて、国元である豊後中津城の如水が派遣した迎えの船が大阪湾に到着したが、すでに主だった湊や河川には大坂方の兵士が固めていて、特に女性の通行を厳しく取り締まっていた。
黒田家の天満屋敷の重臣たちが、二人の内室を船に送り込むための策に苦心していた時、玉造方面で火の手が上がり、大坂方の警備兵たちの多くがその方向に向かった。黒田家の家臣たちは、その好機を逃すことなく行動して、二人を無事に迎えの船に送り込むことが出来た。
この玉造方面の火の手というのは、細川家の屋敷が燃え上がったもので、大坂方から同じように城内に移ることを強制された細川家の内室、つまりガラシャ夫人が老臣の介錯に倒れ、屋敷に火を放ったものであった。

こうして、無事に大坂城下を逃れ出ることが出来た二人の内室とは、一人はついひと月前に長政に嫁いできた栄姫で、この時十六歳。この方は家康の養女であるが、実際は保科正直の娘であった。
そして今一人は、長政の生母であり、如水すなわち黒田官兵衛孝高の妻であった。


     * * *

如水の妻が嫁いだのは、十五歳の頃である。
この時の夫の名前は、小寺官兵衛孝高。永禄十年(1567)二十二歳の頃である。夫の名乗りは、やがて黒田姓となり、如水となるが、ここでは便宜上如水で統一したい。
如水は、天文十五年(1546)、播磨御着城主小寺政職の家老で姫路城代を務める小寺職隆の長男として生まれた。実家は、もとは黒田姓であったが職隆の代に小寺姓を名乗ったが、如水は主家没落後黒田姓に戻している。

如水は、十六歳で小寺政職の近習として出仕、禄高は八十石であった。元服はこの翌年のことである。そして、結婚の前後の頃に父は隠居し家督を継いでいる。
妻の父は、播磨志方城主櫛橋伊定(クシハシコレサダ)の息女。名前は伝わっておらず、幸圓(コウエン)という雅号が伝えられているが、ここでは仮に櫛橋殿とする。
櫛橋伊定は、早くから如水の人物を評価していたらしく、結婚の一年前には如水に合子形兜と胴丸具足を贈っており、娘を嫁がせたいと願っていたらしい。それに、娘もまた、容色麗しく才徳兼備の姫であると伝えられている。
また、この兜は「如水の赤合子」と呼ばれて今日に伝えられている。

櫛橋殿は、嫁いだ翌年、永禄十一年十一月に嫡男松寿丸(後の長政)を出産、幸せな結婚生活をスタートさせている。
二人の新婚生活ががどのようなものであったのか、具体的に伝えられているものは少ないようであるが、戦国武将の大半が複数の妻妾を持つのが普通の時代にあって、如水は生涯櫛橋殿一人を妻として大切に遇していたと思われる。その意味からも、父の目は確かだったようで、櫛橋殿は幸せな家庭を得たといえよう。

しかし、時代は戦国時代、それも終りに近く、それだけに激しい時代であった。
しかも、櫛橋殿が生まれた志方城(兵庫県加古川市)も嫁いで行った姫路城(今日のものとは違い小規模なもの)も、毛利勢力と織田勢力が激突する接点にあった。
夫となった如水は、主家を説得して織田陣営に属するように働き、以後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時代の奔流の中心に位置して活躍を続けたが、それは出世と危機とを背中合わせにしたものであった。そして、妻である櫛橋殿も、その荒波を受け続けたものであったことだろう。

その第一の悲劇は、嫡男松寿丸を人質として差し出したことである。
その頃の播磨は毛利家の影響下にある豪族が多く、小寺家もそうであった。如水は、織田信長の並々ならぬ勢いを察知し、主家に織田家への帰属を進言、その使者として自ら安土に向かった。その時に松寿丸を同道したのである。
天正三年(1575)のことで、松寿丸八歳の頃である。人質は、一旦同盟関係にひびが入れば命の保証はない。幼い一人息子を送り出す櫛橋殿の心痛は察して余りある。

如水の働きにより主君小寺政職は織田陣営に属すことになったが、三年後に摂津有岡城主荒木村重が信長に背くという事件が発生、政職は荒木村重と通じていたので、政職を説得し村重に翻意させるため自ら有岡城に向かった。
しかし、小寺政職は荒木村重と行動を共にする意思を固めていて、如水の殺害を依頼していたのである。
如水は有岡城内の牢に幽閉されてしまい、それは一年にも及び、このため如水は足が不自由になる。
如水の父職隆は、事情を知って憤り、御着城下の如水屋敷に火をかけ、櫛橋殿を姫路城に移した。

さらに、音信が取れなくなった如水に疑いを持った信長は、人質の長政(松寿丸)殺害を命じた。
この時長政は、秀吉の居城長浜城に預けられていたが、秀吉を経由した命令が伝えられてきた。だが、歴史の不思議というべきなのか、たまたまその留守を預かっていたのが竹中半兵衛であった。如水と半兵衛は、共に秀吉の軍師として知られているが、お互いもその器量を認め合っていた。そのこともあって、半兵衛は如水が謀反を起こすことなど絶対にあり得ないと信じ、処刑の命令に応じた旨返答をし、密かに自身の領地である美濃菩提山城に匿ったのである。

もちろんこのことは、秀吉や信長ばかりでなく、姫路城の人々が知るはずもなく、櫛橋殿にとっては、主家との対立、夫の生死不明、嫡男処刑の噂などが積み重なって、生涯で最も苦しい期間ではなかったか。
如水が幽閉されてから一年後、有岡城が落され、如水は助け出された。
翌天正八年(1580)二月、小寺政職が出奔し、如水は黒田姓に戻した。そして、閏三月には、長政が四年ぶりに人質を解かれて戻り、秋には黒田家は一万石の大名へと出世した。

天正十年六月二日、織田信長が本能寺で討たれた。世情は一気に流動化する。
この時如水は、秀吉に従って毛利軍と対峙していたが、悲報に接すると「中国大返し」を進言し、自ら殿軍を務めた。そして、明智光秀を討った秀吉は天下人へと上っていく。
翌年四月、秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いでは、如水は十五歳の長政を連れて出陣していたが、櫛橋殿は、次男熊之助を出産した。十五年ぶりの出産である。

天正十一年十一月、櫛橋殿は大坂の天満屋敷に居を移した。秀吉は大坂城築城にあたり、大名たちに土地を与え妻子を住まわせるよう命じたのである。
この一年ほど後のことであろうか、如水は、キリスト教に入信している。高山右近に導かれたもので、いわゆるキリシタン大名となったのである。記録にはないが、当時のキリシタン大名は一族を入信させているので、櫛橋殿も洗礼を受けた可能性が高い。
そして同じ頃、嫡男長政が結婚。花嫁は秀吉の養女であるが、かの蜂須賀小六正勝の息女であった。
その後も如水は四国・九州を転戦、九州制圧後の天正十五年には、豊前国六郡十二万石の所領が与えられた。

しかし、その二年後、如水は長政に家督を譲った。如水はまだ四十四歳の働き盛りであった。家督相続の原因には幾つかの逸話が残されているが、要は秀吉にとって自分が危険人物として見られているらしいことを察知したためと思われる。
家督の相続は認められたが、名軍師如水を隠居させるようなことは秀吉の頭になかった。その後の朝鮮の役では主要戦力として働いているが、その時に石田三成の讒言もあって、無断で帰国し秀吉の怒りを受け切腹を申しつけられている。
如水は剃髪し謹慎したが、「如水」を名乗るようになったのはこの時かららしい。
如水の罪は、その後長政の働きに免じて許されたが、黒田家には大きな悲劇が待っていた。

如水の妻櫛橋殿は、夫や子供たちの波乱の日々を大坂天満の黒田屋敷で見守り続けていた。
如水と長政が渡鮮している間、国元である豊前中津城は、十六歳の次男熊之助が守っていたが、父や兄と同じ戦場に赴きたく、同じ年頃の家臣らと密かに中津から船出し、玄界灘で暴風雨に遭い船が沈没、水死してしまったのである。
櫛橋殿は「自分が中津にあればこのようなことはさせなかった」と、嘆き悲しんだ。櫛橋殿は、生前に落飾したと記録されているが、もしかするとこの時であったのかもしれない。

やがて、不世出の英雄秀吉が没すると、全土が大きく揺らぎ始めた。徳川家康を中心とした権力闘争は、激しさを増し、その動きの一つとして、嫡男長政が秀吉養女の妻を離縁し、家康の養女を新しく正妻に迎えるという出来事も起こっている。
そして、冒頭にある二人の内室の黒田家天満屋敷からの脱出劇は、その直後のことである。

関ヶ原の戦いは、長政は黒田家主力軍と共に家康に従い、如水は国元にあって、九州制圧を意識していたらしい。しかし、関ヶ原の戦いは僅か一日で決着、このため、あと島津を残すばかりの状態まで兵を進めていた如水は、そこで無念の断念をしたと伝えられている。
戦後、長政の働きを高く評価した家康は、筑前五十二万余石を与えた。黒田家は大大名となったが、如水に満足の気持ちはなく、以後隠遁の生活に入ったと伝えられている。福岡城完成の後は、三の丸に家を立てて、櫛橋殿とともに詫び住まいを始めたという。
この頃に、一族を集めた連歌の催しの記録が残されており、如水夫人の雅号が[幸圓」と残されている。

慶長九年三月、如水は京都伏見屋敷で五十九歳で生涯を終えた。
この時櫛橋殿は五十二歳。この後二十三年の年月を生きることになる。
さらに、長政にも先立たれることになるが、徳川将軍家との縁も深まり、お家の将来を憂うこともなく、七十五歳の生涯を福岡で終えている。
最も激しい時代を、最も激しい渦中に生きる夫は、まだ幼さの残る頃に嫁いできた妻を生涯護り通した男でもあった。櫛橋殿は、武将の妻として最も幸せな女性だったのかもしれない。

                                         ( 完 )







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