運命紀行
自ら輝く
明治十八年(1885)、わが国政府の要請で軍事顧問として来日したドイツのメッケル少佐は、陸軍大学の教官を務め、わが国軍隊の近代化に多大な貢献があったという。
そのメッケル少佐の教官時代に、こんな逸話が残されている。
関ヶ原の戦いにおける東西両軍の配置図を見て、メッケル少佐は即座に西軍の勝利を断言したと伝えられている。
この戦いは、わが国歴史の中でももっとも名高く壮大な戦いであったといえる。関ヶ原に集結した戦力でいえば、諸説はあるが、東軍およそ十万、西軍およそ八万といわれており、戦力数からいえばほぼ拮抗しているか、若干東軍の方が多かったと考えられる。
それらのことを承知の上と考えられるが、両軍各部隊の布陣の様子から、メッケル少佐は西軍の勝利を迷うことなく予測したのである。
しかし結果は、東軍の勝利に終わった。それもわずか半日で西軍は壊滅状態となったのである。
それでは、メッケル少佐の情勢判断が未熟であったのかといえば決してそうではなく、彼には決定的な情報が伝えられていなかったのである。
戦力数や、地勢や天候、各部隊の配置、保有兵力などは伝えられていたのであろうが、小早川秀秋らの反逆については伝えられていなかったのである。戦端が開かれた後、小早川秀忠軍一万五千、脇坂安治らの諸軍四千二百が寝返ったのであるから、とても西軍が互角に戦える合戦ではなかったのである。
小早川秀秋の寝返りを卑怯とするか、あまりに無防備な西軍首脳を未熟とするかはともかく、小早川秀秋の決断が、この合戦の勝敗に大きな影響を与えたことだけは間違いない。
関ヶ原において激突した合戦については、小早川秀秋が大きな鍵となったわけであるが、東西両軍の激突は関ヶ原だけで行われたわけではない。個々の戦いの規模はともかく、全国各地で両陣営の誘引合戦があり、激しい戦いも繰り広げられたのである。
そして、徳川家康が天下の権を握ることになるこの戦いの鍵となったのは、ひとり小早川秀秋だけではなかったのである。
慶長五年(1600)九月一日、京極高次(キョウゴクタカツグ)は大津城を出発した。東へ向かう西軍に加わっての出陣であった。
大津城は、京・大坂と東海との重要拠点にあり、東西両軍からの働きかけは熾烈を極めていた。
上杉征伐に向かう徳川家康は、わざわざ大津城に立ち寄り京極高次に味方するように働きかけている。かねてから家康とは資金援助を受けるなど良好な関係にあり、何よりもその器量の大きさは群を抜いていた。高次は、弟の京極高知と重臣山田大炊を徳川軍に参加させている。
しかしその一方で、西軍からの働きかけもさらに激しいものであった。というより、高次は豊臣秀吉に可愛がられており、今日の地位を得ているのはひとえに秀吉の引き立てあってのものであった。羽柴の姓を与えられ、従三位参議となり羽柴大津宰相と呼ばれることもあったほどなのである。しかも、妻は淀殿の妹であり、大坂方からすれば、むしろ中心戦力のように考えていた節がある。
大津城は、明智光秀の坂本城の後継として浅野長政が築いた堅城である。とはいえ六万石の城構えでは、東に向かう大坂方の大軍を防ぎ切ることなど不可能であった。
高次は西軍に味方することを決意し、嫡子熊麿(のちの忠高)を人質として大坂城に送り、東に向かう石田三成と大坂城で面談し味方することを伝えている。
その一方で、西軍の動向などを東軍方に伝えており、いかにも高次らしい行動ではある。
大坂方の進軍に合わせて出陣した高次は、二日には越前国東野に到着するが、ここで大決断をするのである。蛍大名などと揶揄されることの多かった京極高次が、自ら輝くための一世一代の決断であった。
高次は従軍する大津兵を無断で海津に向かわせ、ここから船で大津城に引き返したのである。
帰城と同時に、城内に兵員を集め兵糧を運び込んで籠城戦の体制を固め、家康の重臣井伊直政に西軍を迎え撃つと伝えた。
東軍陣営に加わることを高らかに宣言したのである。
京極勢の動きを知った西軍方は、近くにいた毛利元康に大津城攻撃を命じた。さらに、立花宗茂軍も加わり、大津城は瞬く間に一万五千とも、四万とも伝えられる大軍に襲いかかられた。
十重二十重に囲まれた上、大砲も撃ち込まれ、戦いは一方的な状態で、京極方はただ耐え忍ぶばかりであった。
それでも、十一日には逆に夜襲をかけて戦果を上げたりもしたが、態勢に変化をもたらすほどのものではなかった。
十二日には堀が埋められ、十三日には防備の落ちた城に対して総攻撃が開始された。高次は手傷を負いながらも自ら奮戦、ここを己の輝き場所と決めて懸命の働きを尽くしたが、衆寡敵せず三の丸、二の丸と落とされていった。
勝敗が明らかになった十四日には、和睦の使者が送られてきたが高次はこれを拒否、名門京極家の当主としての輝きの中での死を決意する。しかし、秀吉未亡人である北政所ねねの使者として孝蔵主の訪問を受け、さらには重臣らの説得もあって、夜になって降伏を受け入れた。
十五日の朝には、大津城から近い園城寺において剃髪し、七十人ほどの家臣らと共に宇治へと去り、その後に高野山に入った。
ちょうどこの日は、関ヶ原では合戦の火蓋が切られていて、高次が宇治に落ちて行った頃には、西軍はすでに敗走に移っていたのである。
京極高次、一世一代の決断は、西軍数万の戦力を大津城に釘付けにして、関ヶ原における東軍勝利の大きな要因を生み出していたのである。
* * *
京極氏は、宇多源氏の流れをくむ近江源治佐々木氏の別家に当たる。
鎌倉時代、近江ほか数カ国の守護に任じられていた佐々木信綱は四人の息子に近江を分割相続させたが、そのうちの一人氏信は北近江と京都の京極高辻の邸を与えられたが、その末裔が京極氏を名乗るようになる。
その京極氏は、室町時代には出雲・隠岐・飛騨の守護を務め、代々侍所所司に就ける四職の一つとして繁栄した。
しかし、応仁の乱後は家督争いなどの混乱で一族は力を失い、出雲・隠岐などは守護代である尼子氏に実権を奪われ、さらに飛騨は三木氏に、北近江は浅井氏の圧迫を受けていた。
京極高次は、凋落してゆく名門の嫡男に生まれた。
高次の祖父高清は近江にあり、京極氏の当主として君臨していたが、実際はすでに凋落は誰の目にも明らかな状態であった。家督継承についても、高清の推す次男高吉と浅井亮政らの推す長男高広との間で争いが生じ、高清方が敗れ追放されるという事態が起きている。この時は、すぐに和睦が成立して江北の地に戻れたが、これは京極氏を名目上の守護として実質支配を狙った浅井亮政の思惑からのもので、この頃にはまだ京極という名前の威光は残っていた。
しかし、しばらく経って、京極高吉が六角氏と組んでかつての栄光を取り戻そうと挙兵したが敗れ、京極氏の江北支配は終りを告げる。
高次の父高吉は足利義昭に仕えていたが、義昭が織田信長と対立した時に出家し、高次は美濃国へ人質として送られ、幼少期は人質としての生活であった。
しかし、元亀四年(1573)七月、宇治の槇島城にこもる義昭を攻めた信長に従っており、その功により近江国奥島五千石が与えられている。高次十一歳の頃のことであり、いかに名門の血筋とはいえ、信長は高次の将来性を評価してでのことと思われる。
天正十年(1582)六月二日、本能寺の変が起こり、信長は明智光秀に討たれる。
この時二十歳の高次は、姉が嫁いでいた若狭国の武田元明と共に光秀方に与し、秀吉の居城長浜城を攻撃するも、十三日の山崎の戦いで光秀はあっけなく敗れてしまう。十九日に武田元明は自害するが、高次は美濃国に逃れ、さらに若狭国の武田領へと逃げのび、一時は柴田勝家に匿われていたらしい。
自害した武田元明に嫁いでいた姉の竜子は捕らえられ、その後秀吉の側室となる。
この竜子は、数多い秀吉の側室たちの中で美貌第一といわれた女性であるが、高次の妹とする説も根強い。ただ、夫が自害した時には三人の子供がいたということなので、姉である可能性の方が高いように思われる。
大変下世話な表現ではあるが、京極高次は蛍大名と表現されることが、ままある。
これは、秀吉の側室となり京極殿、あるいは松の丸殿と呼ばれた姉の竜子や、後に妻となる浅井長政とお市の三姉妹の中の姫お初という二人の閨閥により高次は出世したのだと揶揄されたものである。
実際に秀吉が側室から受ける影響は小さなものではなかったが、中でも松の丸殿に対する秀吉の執着は相当のものであったらしい。夫が自害した後捕らえられ、その後秀吉の側室になった彼女の心境を推し量る資料は見当たらないが、二十歳そこそことはいえすでに三人の子を儲けていた。しかし、それでいてもなお秀吉の側室第一と噂される美貌は、その血統と共に秀吉を惹きつけるに十分であったと思われる。
しかも、なかなかに見識も高く、淀殿と杯の順番をめぐって争ったとの逸話があるように、淀殿の浅井氏などはわが京極の家来筋だとの思いを持っていたのであろう。
明智方の敗軍の将として逃げ隠れていた高次は、松の丸殿の嘆願が功を奏してか、許されて秀吉に仕えるようになり、近江国高島郡に二千五百石が与えらた。翌々年には五千石に加増され、同年の九州征伐の功により一万石に加増、大溝城を与えられ大名になるのである。
蛍大名の面目躍如ということであるが、あの怜悧な目を持つ信長が、十一歳の高次に五千石を与えたことを考えると、高次自身にも人心を引きつける何かを持っていたに違いない。
天正十八年(1590)の小田原征伐の功により近江八幡山城主として二万八千石に加増され、文禄四年(1595)には近江大津城主として六万石が与えられている。大津城は、京都防衛の意味からも南西近江の要衝の城である。さらには、羽柴姓を称することがゆるされ、官位も従三位参議にまで引き上げられ、羽柴大津宰相と呼ばれるまでになったのである。
この頃までの出世の要因は、その大部分が姉や妻、あるいは名門の出であることの恩恵とされることが多いが、実際その面が少なくないことを認めるとしても、秀吉が没し、豊臣政権を守ろうとする大坂方と徳川に将来を託す陣営との対立が深まっていくと、両陣営とも京極高次を自陣に取り込もうと画策しているのである。大津という要衝に城を持っていたことも理由に挙げられるが、やはり、高次という人物の持つ魅力も少なくなかったと思われてならない。
そして、蛍大名と揶揄されるのを耐え忍んでいた京極高次はついに自ら輝くべく決断したのである。
関ヶ原の戦いのあと、家康は高次の働きを高く評価した。
高次は井伊直政からの使者を受け、早々と高野山を下りるよう伝えられる。剃髪までした身であり、さすがに再三辞退するも、弟の京極高知まで説得に加わるにおよび下山する。
大坂で家康に面会、その働きを称えられ若狭国八万五千石への栄進が伝えられた。
ついに、自らの輝きを見せたのである。
なお、弟の高知も丹後国守となり、名門の復活を見せ、子孫たちは転封や改易などを経験しながらも、大名家として明治維新を迎えている。
( 完 )
自ら輝く
明治十八年(1885)、わが国政府の要請で軍事顧問として来日したドイツのメッケル少佐は、陸軍大学の教官を務め、わが国軍隊の近代化に多大な貢献があったという。
そのメッケル少佐の教官時代に、こんな逸話が残されている。
関ヶ原の戦いにおける東西両軍の配置図を見て、メッケル少佐は即座に西軍の勝利を断言したと伝えられている。
この戦いは、わが国歴史の中でももっとも名高く壮大な戦いであったといえる。関ヶ原に集結した戦力でいえば、諸説はあるが、東軍およそ十万、西軍およそ八万といわれており、戦力数からいえばほぼ拮抗しているか、若干東軍の方が多かったと考えられる。
それらのことを承知の上と考えられるが、両軍各部隊の布陣の様子から、メッケル少佐は西軍の勝利を迷うことなく予測したのである。
しかし結果は、東軍の勝利に終わった。それもわずか半日で西軍は壊滅状態となったのである。
それでは、メッケル少佐の情勢判断が未熟であったのかといえば決してそうではなく、彼には決定的な情報が伝えられていなかったのである。
戦力数や、地勢や天候、各部隊の配置、保有兵力などは伝えられていたのであろうが、小早川秀秋らの反逆については伝えられていなかったのである。戦端が開かれた後、小早川秀忠軍一万五千、脇坂安治らの諸軍四千二百が寝返ったのであるから、とても西軍が互角に戦える合戦ではなかったのである。
小早川秀秋の寝返りを卑怯とするか、あまりに無防備な西軍首脳を未熟とするかはともかく、小早川秀秋の決断が、この合戦の勝敗に大きな影響を与えたことだけは間違いない。
関ヶ原において激突した合戦については、小早川秀秋が大きな鍵となったわけであるが、東西両軍の激突は関ヶ原だけで行われたわけではない。個々の戦いの規模はともかく、全国各地で両陣営の誘引合戦があり、激しい戦いも繰り広げられたのである。
そして、徳川家康が天下の権を握ることになるこの戦いの鍵となったのは、ひとり小早川秀秋だけではなかったのである。
慶長五年(1600)九月一日、京極高次(キョウゴクタカツグ)は大津城を出発した。東へ向かう西軍に加わっての出陣であった。
大津城は、京・大坂と東海との重要拠点にあり、東西両軍からの働きかけは熾烈を極めていた。
上杉征伐に向かう徳川家康は、わざわざ大津城に立ち寄り京極高次に味方するように働きかけている。かねてから家康とは資金援助を受けるなど良好な関係にあり、何よりもその器量の大きさは群を抜いていた。高次は、弟の京極高知と重臣山田大炊を徳川軍に参加させている。
しかしその一方で、西軍からの働きかけもさらに激しいものであった。というより、高次は豊臣秀吉に可愛がられており、今日の地位を得ているのはひとえに秀吉の引き立てあってのものであった。羽柴の姓を与えられ、従三位参議となり羽柴大津宰相と呼ばれることもあったほどなのである。しかも、妻は淀殿の妹であり、大坂方からすれば、むしろ中心戦力のように考えていた節がある。
大津城は、明智光秀の坂本城の後継として浅野長政が築いた堅城である。とはいえ六万石の城構えでは、東に向かう大坂方の大軍を防ぎ切ることなど不可能であった。
高次は西軍に味方することを決意し、嫡子熊麿(のちの忠高)を人質として大坂城に送り、東に向かう石田三成と大坂城で面談し味方することを伝えている。
その一方で、西軍の動向などを東軍方に伝えており、いかにも高次らしい行動ではある。
大坂方の進軍に合わせて出陣した高次は、二日には越前国東野に到着するが、ここで大決断をするのである。蛍大名などと揶揄されることの多かった京極高次が、自ら輝くための一世一代の決断であった。
高次は従軍する大津兵を無断で海津に向かわせ、ここから船で大津城に引き返したのである。
帰城と同時に、城内に兵員を集め兵糧を運び込んで籠城戦の体制を固め、家康の重臣井伊直政に西軍を迎え撃つと伝えた。
東軍陣営に加わることを高らかに宣言したのである。
京極勢の動きを知った西軍方は、近くにいた毛利元康に大津城攻撃を命じた。さらに、立花宗茂軍も加わり、大津城は瞬く間に一万五千とも、四万とも伝えられる大軍に襲いかかられた。
十重二十重に囲まれた上、大砲も撃ち込まれ、戦いは一方的な状態で、京極方はただ耐え忍ぶばかりであった。
それでも、十一日には逆に夜襲をかけて戦果を上げたりもしたが、態勢に変化をもたらすほどのものではなかった。
十二日には堀が埋められ、十三日には防備の落ちた城に対して総攻撃が開始された。高次は手傷を負いながらも自ら奮戦、ここを己の輝き場所と決めて懸命の働きを尽くしたが、衆寡敵せず三の丸、二の丸と落とされていった。
勝敗が明らかになった十四日には、和睦の使者が送られてきたが高次はこれを拒否、名門京極家の当主としての輝きの中での死を決意する。しかし、秀吉未亡人である北政所ねねの使者として孝蔵主の訪問を受け、さらには重臣らの説得もあって、夜になって降伏を受け入れた。
十五日の朝には、大津城から近い園城寺において剃髪し、七十人ほどの家臣らと共に宇治へと去り、その後に高野山に入った。
ちょうどこの日は、関ヶ原では合戦の火蓋が切られていて、高次が宇治に落ちて行った頃には、西軍はすでに敗走に移っていたのである。
京極高次、一世一代の決断は、西軍数万の戦力を大津城に釘付けにして、関ヶ原における東軍勝利の大きな要因を生み出していたのである。
* * *
京極氏は、宇多源氏の流れをくむ近江源治佐々木氏の別家に当たる。
鎌倉時代、近江ほか数カ国の守護に任じられていた佐々木信綱は四人の息子に近江を分割相続させたが、そのうちの一人氏信は北近江と京都の京極高辻の邸を与えられたが、その末裔が京極氏を名乗るようになる。
その京極氏は、室町時代には出雲・隠岐・飛騨の守護を務め、代々侍所所司に就ける四職の一つとして繁栄した。
しかし、応仁の乱後は家督争いなどの混乱で一族は力を失い、出雲・隠岐などは守護代である尼子氏に実権を奪われ、さらに飛騨は三木氏に、北近江は浅井氏の圧迫を受けていた。
京極高次は、凋落してゆく名門の嫡男に生まれた。
高次の祖父高清は近江にあり、京極氏の当主として君臨していたが、実際はすでに凋落は誰の目にも明らかな状態であった。家督継承についても、高清の推す次男高吉と浅井亮政らの推す長男高広との間で争いが生じ、高清方が敗れ追放されるという事態が起きている。この時は、すぐに和睦が成立して江北の地に戻れたが、これは京極氏を名目上の守護として実質支配を狙った浅井亮政の思惑からのもので、この頃にはまだ京極という名前の威光は残っていた。
しかし、しばらく経って、京極高吉が六角氏と組んでかつての栄光を取り戻そうと挙兵したが敗れ、京極氏の江北支配は終りを告げる。
高次の父高吉は足利義昭に仕えていたが、義昭が織田信長と対立した時に出家し、高次は美濃国へ人質として送られ、幼少期は人質としての生活であった。
しかし、元亀四年(1573)七月、宇治の槇島城にこもる義昭を攻めた信長に従っており、その功により近江国奥島五千石が与えられている。高次十一歳の頃のことであり、いかに名門の血筋とはいえ、信長は高次の将来性を評価してでのことと思われる。
天正十年(1582)六月二日、本能寺の変が起こり、信長は明智光秀に討たれる。
この時二十歳の高次は、姉が嫁いでいた若狭国の武田元明と共に光秀方に与し、秀吉の居城長浜城を攻撃するも、十三日の山崎の戦いで光秀はあっけなく敗れてしまう。十九日に武田元明は自害するが、高次は美濃国に逃れ、さらに若狭国の武田領へと逃げのび、一時は柴田勝家に匿われていたらしい。
自害した武田元明に嫁いでいた姉の竜子は捕らえられ、その後秀吉の側室となる。
この竜子は、数多い秀吉の側室たちの中で美貌第一といわれた女性であるが、高次の妹とする説も根強い。ただ、夫が自害した時には三人の子供がいたということなので、姉である可能性の方が高いように思われる。
大変下世話な表現ではあるが、京極高次は蛍大名と表現されることが、ままある。
これは、秀吉の側室となり京極殿、あるいは松の丸殿と呼ばれた姉の竜子や、後に妻となる浅井長政とお市の三姉妹の中の姫お初という二人の閨閥により高次は出世したのだと揶揄されたものである。
実際に秀吉が側室から受ける影響は小さなものではなかったが、中でも松の丸殿に対する秀吉の執着は相当のものであったらしい。夫が自害した後捕らえられ、その後秀吉の側室になった彼女の心境を推し量る資料は見当たらないが、二十歳そこそことはいえすでに三人の子を儲けていた。しかし、それでいてもなお秀吉の側室第一と噂される美貌は、その血統と共に秀吉を惹きつけるに十分であったと思われる。
しかも、なかなかに見識も高く、淀殿と杯の順番をめぐって争ったとの逸話があるように、淀殿の浅井氏などはわが京極の家来筋だとの思いを持っていたのであろう。
明智方の敗軍の将として逃げ隠れていた高次は、松の丸殿の嘆願が功を奏してか、許されて秀吉に仕えるようになり、近江国高島郡に二千五百石が与えらた。翌々年には五千石に加増され、同年の九州征伐の功により一万石に加増、大溝城を与えられ大名になるのである。
蛍大名の面目躍如ということであるが、あの怜悧な目を持つ信長が、十一歳の高次に五千石を与えたことを考えると、高次自身にも人心を引きつける何かを持っていたに違いない。
天正十八年(1590)の小田原征伐の功により近江八幡山城主として二万八千石に加増され、文禄四年(1595)には近江大津城主として六万石が与えられている。大津城は、京都防衛の意味からも南西近江の要衝の城である。さらには、羽柴姓を称することがゆるされ、官位も従三位参議にまで引き上げられ、羽柴大津宰相と呼ばれるまでになったのである。
この頃までの出世の要因は、その大部分が姉や妻、あるいは名門の出であることの恩恵とされることが多いが、実際その面が少なくないことを認めるとしても、秀吉が没し、豊臣政権を守ろうとする大坂方と徳川に将来を託す陣営との対立が深まっていくと、両陣営とも京極高次を自陣に取り込もうと画策しているのである。大津という要衝に城を持っていたことも理由に挙げられるが、やはり、高次という人物の持つ魅力も少なくなかったと思われてならない。
そして、蛍大名と揶揄されるのを耐え忍んでいた京極高次はついに自ら輝くべく決断したのである。
関ヶ原の戦いのあと、家康は高次の働きを高く評価した。
高次は井伊直政からの使者を受け、早々と高野山を下りるよう伝えられる。剃髪までした身であり、さすがに再三辞退するも、弟の京極高知まで説得に加わるにおよび下山する。
大坂で家康に面会、その働きを称えられ若狭国八万五千石への栄進が伝えられた。
ついに、自らの輝きを見せたのである。
なお、弟の高知も丹後国守となり、名門の復活を見せ、子孫たちは転封や改易などを経験しながらも、大名家として明治維新を迎えている。
( 完 )