雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

三日見ぬ間の

2018-03-23 20:11:25 | 日々これ好日
        『 三日見ぬ間の 』

     雨にたたられ 朝の散歩は三日ぶり
     三日見ぬ間の桜かな というほど大げさなことではないけれど
     三日ぶりの公園は 梅は大方散り 白モクレンは満開
     桜はまだ開花していないが 
     冷たい雨風の中で 春は進んでいる

                       ☆☆☆ 
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今昔物語集 巻第二  ご案内

2018-03-23 13:20:22 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          今昔物語集 巻第二  ご案内

     今昔物語集 巻第二は、全体の中の位置付けとしては、「天竺」にあたります。
     巻第一 から 巻第五 が、「天竺」となっています。その内容は、釈迦が生存中の出来事が中心となっています。
     内容には難解な部分も少なくなく、不確かな意訳も心配ですが、興味深い話も多く含まれています。
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父王の入滅 ・ 今昔物語 ( 2 - 1 )

2018-03-23 13:18:33 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          父王の入滅 ・ 今昔物語 ( 2 - 1 )

今は昔、
釈迦仏の御父カビラ国(迦毘羅国。迦毘羅衛国とも。他にも違う表記がある)のジョウボン(浄飯)大王は、老齢となり、病となってから日数が過ぎ、重くなるにつれたいそう苦しまれた。身体の痛みは、大麻の実から油を絞り出すほどであった。
いよいよこれが最期と思われて、御子の釈迦仏、ナンダ(難陀・釈迦の弟)、孫のラゴラ(羅睺羅・釈迦の子)、甥のアナン(阿難)らと会わずに死ぬのをお嘆きになった。

この大王の様子を仏(釈迦)の御許にお伝えしようとしたが、仏がおいでになるのはシャエ国であり、カビラ国から五十由旬(ユジュン・一由旬は古代インドの牛車一日の行程)の距離があり、使者が到着する前にジョウボン王は亡くなられると思われた。
そのため、后や大臣たちはどうすればよいか思い悩んでいたが、仏は霊鷲山(リョウジュセン・釈迦が多くの法を説かれた霊山。但し、所在地はマガダ国なので、本稿は思い違いがある)に在(マシマ)して、何も見聞きすることなく、父の大王の病が重く、多くの人が嘆きあっていることをお知りになり、ナンダ・アナン・ラゴラらを連れて、ジョウボン王の宮殿に行かれた。
すると、ジョウボン王の宮殿は、突然朝日の光が差し込んできたように、金色の光がくまなく降りそぎ照り輝いた。

その時には、ジョウボン王をはじめとして大勢の人々が驚き不思議に思うこと限りなかった。
大王も、この光に照らされると、病の苦しみはたちまち消えて、体はすっかり楽になった。
しばらくすると、仏は大空より、ナンダ・アナン・ラゴラらを引き連れて、到着された。まず、大王は仏を見奉られて、涙を流されること雨のようであった。合掌して限りなくお喜びになった。
仏は父王のそばに行かれて、本[ 欠字あるも不詳 ]経をお説きになると、大王は即座に阿那含果(アナゴンカ・煩悩をすべて断ち切り、相応の悟りを得る修業過程。四段階の修業過程の上から二番目で、阿羅漢果に次ぐ階位。)を得られた。大王は仏の御手を取って、ご自分の胸に引き寄せられた時、阿羅漢果を得られた。
その後しばらくたって、大王の御命は絶え果てられたのである。

その時、城の内にいる上・下の人々は皆泣き悲しむこと限りなかった。その声は城を響かせた。
その後、すぐに七宝で棺を作り、大王の御身には香湯(コウトウ・香木を煮出した湯)を塗り、錦の衣を着せ奉って、棺にお入れした。
お亡くなりになる時には、御枕もとには仏・ナンダの二人がおいでになり、御足もとにはアナン・ラゴラの二人が付き従っておられた。
こうして、葬送の時には、末世(マツセ・仏法のすたれた世)の衆生が父母の養育の恩に報いようとしないことを戒め給うために、父の御棺を担おうとされた時、大地は震動し、国中が騒然とした。そして、多くの衆生すべてが、突然踊り騒ぎだした。水上の船が波に揺られるが如くであった。

この時、四天王(シテンノウ・帝釈天の麾下の神将。持国天、増長天、広目天、多聞天、毘沙門天の四将で護法神)は、仏にお願いして棺を担い奉った。仏はこれを許して担わせた。仏は香炉を取って、大王の棺の前を歩かれた。
その墓所は、霊鷲山の山上である。(五十由旬の距離を葬列を組んで向かった、というのは少々無理がある。)
霊鷲山に入ろうとした時、羅漢(阿羅漢に同じ。釈迦の弟子たちであろう)たちがやって来て、海岸に流れ着いている栴檀(センダン・香木の一種)の木を拾い集めて、大王の御身を焼き奉った。参列の大衆の悲しみの声が大空を響かせた。
その時に、仏は無常の文(モン)をお説きになられた。焼き終ると、舎利(シャリ・遺骨)を拾い集めて、金の箱に入れて塔を建て安置し奉った、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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摩耶夫人 ・ 今昔物語 ( 2 - 2 )

2018-03-23 13:17:29 | 今昔物語拾い読み ・ その1
         摩耶夫人 ・ 今昔物語 ( 2 - 2 )

今は昔、
釈迦仏の御母摩耶夫人(マヤブニン)は、仏(釈迦)をお生みになった後、七日目にお亡くなりになられた。
その後、太子(釈迦)は城を出て、山に入って六年、苦行を修められて仏にお成りになられた。四十余年の間(悟りを開かれた後の期間を指している)、様々な法をお説きになって、衆生を教化なされたが、摩耶夫人は亡くなられた後、忉利天(トウリテン・六欲天の第二天。須弥山の頂上にあり、帝釈天を中心に三十三人の神が住んでいる。)にお生れになった。

そこで仏は、母を教化するために忉利天に昇られて、歓喜園(帝釈天の居城の周囲に配された四園の一つ)の中の波利質多羅樹(ハリシツタラジュ・この園にあるとされる香木)の根元においでになられて、文殊を使いとして、摩耶夫人の御許に行き、「願わくば、今私の所においでいただき、私を見、法を聞き、三宝(仏・法・僧)を敬礼(キョウライ・うやうやしく礼拝すること)してください」と伝えさせた。
文殊は仏の仰せに従って、摩耶夫人の所に参って、仏の御言葉をお伝えしたところ、摩耶夫人は、「もし、わが閻浮提(エンブダイ・人間のいる世界)において生んだ悉駄(シツダ・釈迦の出家前の名前)であるのなら、この乳の汁が、その口に自然と入るはずである」と申されて、二つの乳房をしぼられると、その乳汁は遥かに飛んで、仏の御口の中に入った。摩耶夫人はこれを見てお喜びになること限りなかった。

その時、天地は大きく震動した。摩耶夫人は文殊と共に仏の御許に参られた。仏は母がおいでになられたのをご覧になって、また大いにお喜びになられた。そして、母に向かって、「涅槃に達する修業をお積みになられて、世間の楽苦から永久に離れてください」と申し上げて、摩耶夫人のために法をお説きになられた。(忉利天は、六道のうちの三善道(極楽に近い?)の一つであるが、苦楽に煩わされる世界なので、そこからの離脱を勧められたのである。)
摩耶夫人は法の教えを聞いて、宿命(シュクミョウ・前世からの定め)を悟り、八十億(無限、といった意味)の煩悩を断たれて、たちまちのうちに須陀洹果(シュダオンカ・最高の修業階位である阿羅漢果に至る最初の修業階位)を修得された。
摩耶夫人は仏に申された。「私は、すでに生死に輪廻する境界を脱して、悟りを得ました」と。すると、その場にいた多くの者たちは、摩耶夫人の言葉を聞いて、全員が異口同音に仏に申し上げた。「願わくば仏、一切の衆生を皆このように解脱(ゲダツ・煩悩の世界から脱して悟りを開くこと)を得させてください」と。
そこで仏は、一切の衆生の為に法をお説きになった。このようにして、釈迦仏は三か月の間忉利天においでになられた。

仏は、近侍している童子に告げて、「お前は閻浮提に降りて、私がほどなく涅槃(ネハン・ここでは入滅のこと)に入ろうしていることを、話してきなさい」と仰せられた。
童子は、仏の仰せに従って、閻浮提に下りて仏の御言葉を語ると、衆生は皆これを聞いて、悲しんで歎くこと限りなかった。そして、「私たちは、最近、仏がおいでの所を知りませんでした。今、忉利天に在(マシ)ますとお聞きしました。喜びを感じる所で、久しからずして涅槃にお入りになるということです。願わくば、衆生を哀れみ下さるために、急いで閻浮提に下りてきてください」と願った。
童子は忉利天に返って行き、衆生の願いを仏に申し上げた。仏はその願いをお聞きになって、「閻浮提に下りよう」とお思いになった。

帝釈天は、仏が下りられることを神通力により知って、鬼神(ここでは、帝釈天に従属する夜叉や羅刹などを指す)に命じて、忉利天より閻浮提へ三つの道を造らせた。中の道は閻浮提金(エンブダイゴン・地上で採れるもっとも純な砂金)、左の道は瑠璃、右の道は瑪瑙(メノウ)と、これらでそれぞれの道を飾り付けた。
その時に、仏は摩耶夫人に申し上げた。「生まれた者は必ず死ぬという定めを免れない身には、必ず別離があります。私は閻浮提に下りて、久しからずして涅槃に入ります。お会い出来ますのも只今限りでございます」と。
摩耶夫人はこれを聞いて、涙を流されること限りなかった。
仏は御母とお別れになり、この宝の階段(帝釈天が造らせた道)を歩いて、大勢の菩薩や仏弟子たちを引き連れて下られた。梵天・帝釈天・四大天王らは、みな左右に従っていた。その見事な様子は、想像願いたい。

閻浮提には、ハシノク王(コーサラ国(舎衛国)王)を始めとして、大勢の人々が仏が宝の階段より下りてこられるのを喜び、階段の本に皆並んでいた。
仏は、階段から下りられると、祇園精舎にお帰りになった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆




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旧恩に報いる ・ 今昔物語 ( 2 - 3 )

2018-03-23 13:16:37 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          旧恩に報いる ・ 今昔物語 ( 2 - 3 )

今は昔、
祇園精舎に一人の比丘(ビク・ここでは僧と同意)がいた。
重い病気を患って、五、六年もの間苦しんでいた。悪性の皮膚病で血膿(チウミ)が流れ、大小便の始末が出来ず、悪臭がし周囲が穢れた。そのため周りの人は、これを汚がって誰も近付こうとしなかった。住んでいる所もほとんど朽ちて壊れていた。
仏(釈迦)は、この人を見て同情されて、アナン(阿難・高弟の一人)・シャリホツ(舎利弗・高弟の一人)等の五百(大勢という表現)の御弟子たちを他所に移らせて、その比丘の所に行き、五つの指より光を放って遠くをお照らしになり、比丘に尋ねた。「誰か、あなたの世話をする人はいないのですか」と。比丘は、「長年患っているため、世話をしてくれる人はおりません」と答えた。

するとその時、帝釈天がその所に来て、宝瓶(ホウビョゥ・仏具の水瓶の尊称)に水を入れて仏に奉った。仏は、紫磨黄金(シマオウゴン・紫色を帯びた黄金。最も上質の黄金とされる)の御手で以ってこれを受け、右の手で以って注ぎ洗って、左の手で以って身体の瘡を撫でられると、御手の動きに従って病はみな癒えていった。
仏は、「そなたは、昔、私に恩を与えてくれた。今、私はやって来てその恩に報いたのです」と仰せられて、比丘のために法をお説きになった。比丘は、即座に阿羅漢果(原始仏教における最高の修業階位)に得た。

その時、帝釈天は仏に尋ねた。「どういうわけで、この病の比丘に恩を報じられたのでしょうか」と。
仏は帝釈天に答えて、「無量阿僧祇劫(ムリョウアソウギコウ・無量は量りしれない、阿僧祇は無数を意味する言葉、劫は時間の単位でとてつもなく長い時間。つまり、とてつもなく長い時間であることを強調している)の過去世に、ある国王がいた。財宝を手に入れるために、無道にも一人の男と密かに相談して、『お前は、もし誰かが官物を横領するようなことがあれば、その者を罰せよ。そしてその官物を私とお前とで手に入れよう』と約束した。その男の名は伍百という。その頃、一人の優婆塞(ウバソク・在家の男性の仏教信者)がいた。その優婆塞がほんの少し官物を横領した。王が伍百に命じて罰しようとしたが、この優婆塞が日頃善を行ずる人(仏教徒を指しているらしい?)だと聞いて、伍百は罰しなかった。優婆塞は罪を免れて、喜んで去っていった。その時の伍百というのはこの病の比丘なのである。そして、その時の優婆塞というのは、今の私なのである。それ故に、私はやって来て恩を報じたのである」と仰せになられた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆
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釈迦の卒塔婆 ・ 今昔物語 ( 2 - 4 )

2018-03-23 13:15:40 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          釈迦の卒塔婆 ・ 今昔物語 ( 2 - 4 )

今は昔、
仏(釈迦)はカヒン国(カピラエ国の一称。釈迦の生国)に在(マシ)まして、喩山陀羅樹(ユサンダラジュ・喩山の意味は不詳、特別なものとして使われているらしい・陀羅樹はシュロに似たヤシ科の高木。)の下にお出ましになられた。
そこに一つの卒塔婆(ソトバ・仏塔、仏跡などを示す塔。)があった。仏はこれを礼拝された。
すると、アナン(阿難)・シャリホツ(舎利弗)・カショウ(迦葉)・モクレン(目連)などの御弟子たちが、その様子を不思議に思い、仏にお尋ねした。「どういうわけがあって、仏は懇ろにこの卒塔婆を礼拝なさるのでしょうか。仏は人からこそ礼拝されるのであって、仏の他に礼拝なさるほど優れたものがあるのでしょうか」と。

仏はこれに答えてお話された。
「昔この国に大王がいた。子供がなかったので、天に授かるよう乞い、竜神に祈って願った。ほどなく、その后は懐妊して一人の男の子を生んだ。大王の妃は、この子供を養育するのに心を尽くした。この子供が十余歳になった時、父の大王が病となり、天神に祈請するも叶わなかった。医薬で以って治療するも癒えなかった。ところが、一人の薬師がやって来て、『生まれてこの方、露ほども激しい怒りを発(オコ)したことのない人の眼及び骨髄を取り出して、調合して用いれば、王の御病は即座に癒えるでしょう』と言った。
『そうとはいえ、仏の他に、激しい怒りを発さない人などいるはずがない。とても難しいことだ』と言って嘆いていると、太子(その子供)はそれを聞いて、『私こそ、未だ激しい怒りを発していない者だ』と思って、母の后に向かって、『生まれる者は必ず滅します。会った者は別れる定めです。誰がこの事から免れることができましょうか。なすことなく死に至るよりは、私はこの身を捨てて父の御命をお助けしようと思います』と申し上げた。

母の后は、この言葉を聞いて、激しく泣いて答えることが出来なかった。太子は心の内で、『孝養のために、私は命を惜しんではならない。もし惜しむ心があれば、不幸の罪を得るだろう』と思った。『たとえこの身が長命であったとしても、いずれ死を免れることはできない。死んで三悪道(地獄・餓鬼・畜生の三道)に堕ちることは疑いない。ただひたすらにこの身を捨てて、父の御命を助けて、やがて無上道(ムジョウドウ・最高の悟り)を得て、一切衆生(生あるものすべて)を救おう』と誓いを発して、密かに一人の旃陀羅(センダラ・古代インド社会を構成する四姓の枠外に置かれた最下層民。)に話を持ち掛けたが、旃陀羅は大変恐れおののいて応じなかった。しかしながら、太子はなおも孝養の心は深く、旃陀羅に厳しく命じて、五百(多くの、といった意味)の剣を与えて、自分の眼と骨髄を取り出させた。これを調合して父の王に奉った。この薬で以って治療すると、病はたちまち癒えた。

そうとはいえ、大王はこの事を知っておらず、その後になって、『太子を私の所に来させよ。久しく来ないのは、どういうわけだ』と言った。ある大臣が王に申し上げた。『太子はすでに命をお失くしになりました。ある医師が、「生まれてこの方、激しい怒りを発したことのない人の眼・骨髄を以って大王の御病を治すべし」と言いました。これの為に太子は、「生まれてこの方、激しい怒りを発したことのない者は、私こそそれにあたる。私は孝養のために身を捨てよう」と仰せられて、密かに旃陀羅に命じられて、眼と骨髄を取り出させて大王に奉りなさいました。これを以て大王の御病を治療し、すでに完治することが出来たのです』と。

大王はこれを聞き、泣き悲しむこと限りなかった。そして、しばらくして、『私は昔聞いたことがある。父を殺して王位を奪うことがあったと。しかし、未だ聞いたことがない。子供の肉塊を喰らって命を長らえたということを。悲しいかな、私はそれを知らずして、病の癒えたことを喜んでいた』と仰せになり、すぐさま太子のために喩旃(喩山)陀羅樹の下に一つの卒塔婆をお立てになられた。
その時の王は、我が父浄飯(ジョウボン)王であり、その時の太子は、この私なのだ。私の為に立ててくださった卒塔婆なので、今、やって来て礼拝するのである。この卒塔婆によって、私は正覚(ショウガク・正しく完全な悟り)を修得して、一切の衆生を教化するのである」
と、お説きになった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆


* 今昔物語の中には、釈迦の父である浄飯王や、釈迦入滅に関する事は再三登場しています。それらを参考にしてしまうと、本話の浄飯王と釈迦の父子関係が分かりにくくなってしまいますが、本話で釈迦が述べているのは、遥か遠い過去世においても、二人が父と子であったことがあり、その時の出来事と考えられます。

     ☆   ☆   ☆
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一宿の恩義・ 今昔物語 ( 2 - 5 )

2018-03-23 13:14:56 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          一宿の恩義 ・ 今昔物語 ( 2 - 5 )

今は昔、
仏(釈迦)はシャエ(舎衛)国のある人の家に行かれて、六日間滞在して供養(ここでは、飲食の提供)をお受けになった。
七日目の朝、お帰りになろうとすると、空が曇り風が吹き出し、洪水が山河で発生した。その家の主人は仏に申し上げた。「今日はお留まりください。雨風が難儀でございます。また、ちょうど七日の供養をさせていただきます」と。シャリホツ(舎利弗)・モクレン(目連)・アナン(阿難)・カショウ(迦葉)らの御弟子たちも、「今日はお留まりください」と申し上げると、仏は、「それは駄目だ、そなたたちは極めて愚かである。一言の言葉を交わし、一夜同じ宿に泊まり合わせるような縁は、みな前世からの因縁によるものである。家の主、よく聞きなさい。そなたは前世において、人として生まれたが(この部分は、別の文献では「虱(シラミ)」となっており、その方が正しいようだ。)人に捨てられて寒さのため死ぬところであった。その時、私がそなたを拾って身に付けて、六日の間温めて命を助けたのだ。七日目の朝、そなたは寒さに堪えられず遂に死んでしまった。そのことから私は、今そなたの家で六日泊って供養を受けたのである。そういうことなので、私は今日この家に留まるわけにはいかないのだ」と仰せになって、耆闍崛山(ギジャクツセン・霊鷲山に同じ)にお帰りになった。
家の主人も御弟子たちも、このことを聞いて貴ぶこと限りなかった。

されば、一言・一宿もみな前世の契りによるものだと知った、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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米の汁を奉る ・ 今昔物語 ( 2 - 6 )

2018-03-23 13:14:11 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          米の汁を奉る ・ 今昔物語 ( 2 - 6 )

今は昔、
天竺に迦葉尊者(カショウソンジャ・摩訶迦葉とも大迦葉とも呼ばれる。仏弟子たちの長老格で、釈迦入滅後の教団を統率し、第一回経典結集を主催した。)という人がいた。その尊者が里に出て乞食(コツジキ・托鉢)をされていた。
その時尊者は、「私は豊かな家へは、しばらくは行かないことにしよう。貧しい所に行って、その人たちの布施を受けよう」と思われて、まず三昧定(サンマイジョウ・一切の心の乱れを鎮静した瞑想の境地。この境地に入ると、心眼により不可視、不可識の対象が洞察できるとされる。)に入り、「誰か貧しい人はいないか」と思い浮かべられ、すぐさま王舎城(オウシャジョウ・マガダ国の首都。霊鷲山があり、釈迦の居住が最も長かった地。)に入り、一人の老母(ロウモ)の所に行った。

老母は極めて貧しく、人畜の糞の集積場の中の堆積した糞土をくりぬいた穴に住んでいて、病をえて臥せっていた。腐りかけた米の汁を、欠けた素焼きの土器に入れて、寝ている左右の近くに置いていた。
迦葉はそこに行くと、食べ物を乞われた。老母は、「私は貧しくして、身体も病気を患っています。そのため、供養し奉るべきものは露ほどもありません。ただ、腐りかけた米の汁だけがあります。これを差し上げたいと思いますが、お食べになられるでしょうか」と言った。
迦葉は、「それはありがたい。早速頂戴します」と言った。老母はその言葉を聞いて、差し上げた。
迦葉はその汁を受け取ってお飲みになった。飲み終わるとすぐに、天空に昇って十八変(ジュウハチヘン・神通力によって現出する十八種類の神秘的、超人的所業。)を現じた。老母はこれを見て、起き上がってそれを仰ぎ見た。

迦葉は老母に告げた。「そなたは、この米の汁を供養したという善根(善い行い)をもって、願うものは何でしょうか。転輪聖王(テンリンジョウオウ・正義をもって天下を治める王)のような身になることを願いますか、帝釈天となることを願いますか、四天王となることを願いますか、人間であることを願いますか、仏の身となることを願いますか、菩薩となることを願いますか」と。
老母は、「私は、この世の貧しい苦しみを厭うが故に、天界に生まれることを願います」と答えた。
その後、程なくして老母は死んだ。そして、すぐに忉利天(トウリテン・帝釈天の居城がある天界の一つ。)に生まれ変わった。その姿は、威厳に満ちた気高い天女であり、天地は震動し、放たれる光明は七つの太陽が一度に現れたようであった。

その時、帝釈天はこの女をご覧になって、天女に転生したいわれを尋ねた。
女は、天界に幾度も生まれているので詳しく語った。(このあたりの意訳は、少々自信ありません。)「私が天界に生まれて快楽(いわゆる極楽の生活と言った意味で、普通に使われる快楽とは違う。)を受けるのは、迦葉尊者を敬ったからです。私はそのご恩に報いよう」と思って、侍者の天女を引き連れて、香と花を持って天界より下りて迦葉を供養し奉ったのである。供養し終わったので、再び天界に帰ったのである。

その時に仏は、アナン(阿難・高弟の一人。釈迦の従弟。)に、「この老母の布施したものは、ごく僅かなものであるが、心を尽くしたことによって得た福はたいそう多い。されば、そなたは、多くの人に勧めて、布施を行わさせねばならない」とお説きになった、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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貧乏を売る ・ 今昔物語 ( 2 - 7 )

2018-03-23 13:13:21 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          貧乏を売る ・ 今昔物語 ( 2 - 7 )

今は昔、
天竺のアハンダイ国に一人の長者がいた。家は大きく豊かで財宝に満ちていた。ところがこの人は、貪欲にして慈悲の心を有していなかった。
その家に一人の召使いの女がいた。少し過ちを犯したため、長者はこの女を打擲し、縛って倉に閉じ込め、衣を着せず、食事を与えず、僅かに少しばかりの水だけを与えて放っていた。女は悲しんで、声をあげて泣いた。

その頃、カセンネン(迦栴延・弁才に優れ、算術も得意であったという仏弟子)はその国にいらっしゃって、その召使いの女の泣く声を遠くからお聞きになり、その所に行き、女に語りかけた。「お前の身が貧しいのであれば、どうしてそれを売らないのだ」と。女は、「どこに『貧乏』を買う者がいるというのですか。『貧乏』を得ることが出来るのなら、それを売りますよ。どうして売ればいいのですか」と答えた。
カセンネンは、「お前が、もし『貧乏』を売ろうと思うのなら、私の言葉に従って、布施を行いなさい。その功徳によって、『貧乏』を売るのです」と言った。
女は尊者(カセンネンのこと。仏弟子に対する尊称。)に申し上げた。「私は今、大変貧しくて、衣も食べ物もありません。ただ、この少しばかりの水があるだけです。これは主人が与えてくれた物です。これをお布施とすることは出来ますでしょうか」と。尊者は、「さっそくそれを布施としなさい」と言った。

召し使いの女は、「尊者の申されることに従おう」と思って、鉢に入っていた水を尊者の鉢に移し入れた。
尊者は水を受け取り、女のために呪願(シュガン・真言などの呪文を唱えて、相手に仏の加護があるように祈願すること。)して、次に戒律を授けられて、念仏(ネンブツ・これは後世の称名念仏ではなく、ひたすら仏を念ずる観想行。)を勧められた。それから、女に尋ねた。「お前はどういう所で寝ているのか」と。
女は、「私は、臼をついたり煮炊きする所で寝ています。あるいは、便所のこともあります」と答えた。尊者は、「お前は、その主人が寝たのをうかがって、密かに寝所の戸を開け、そこから入って草を敷いて坐り、仏を観じて(御姿を心中に思い描いて祈念すること)、悪念(アクネン・雑念や煩悩)を抱かないようにしなさい」と仰せらた。

女は夜になると、尊者に教えられたように、戸を開けて入って草を敷いて坐り、仏を観じ、悪心(悪念)をおこすことなくして、死んで行った。そして、即座に忉利天(トウリテン・帝釈天を天主とする天界の一つ。)に生まれ変わった。
主である長者は、明け方になって、召使いの女が死んでいるのを見て、激しい怒りを表して、使用人に命じて、足に縄をつけ、山林の中に引っ張って行き、共同墓地に投げ棄てた。
忉利天に生まれ変わった召し使いの女は、天眼を以て自分の以前の身体を見て、すぐさま、五百(大勢をこの形で表現することが多い。)の天人を引き連れて、香と花をもってその山林の中に下りて行き、香をたき、花を散らして亡骸を供養した。また、光明を放って山林を照らした。
長者や遠くや近くの人大勢が、山林に集まってきてこの様子を見た。
そこで、長者は、「どういうわけで、この召使い女の亡骸を供養するのか」と言った。
それに天人は答えて、「この亡骸は、私の以前の身体なのです」と言って、天に生まれることになったいきさつを語った。

長者は、これを聞いて、不思議なことだと思った。天人はそこからカセンネンの所に行き、香をたき花を散らして、尊者を供養して恩を感謝した。尊者もまた、天人のために法をお説きになった。五百の天人は、これを聞いて、みな須陀洹果(シュダオンカ・阿羅漢果に至る最初の修業階位。)を得た。そして、果を得て、みな天上に返って行った、
となむ語り伝へたるとや。

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金色の夫婦 ・ 今昔物語 ( 2 - 8 )

2018-03-23 13:09:51 | 今昔物語拾い読み ・ その1
          金色の夫婦 ・ 今昔物語 ( 2 - 8 )

今は昔、
シャエ(舎衛)国のなかに一人の長者がいた。家は大きく豊かで、財宝は数えきれないほどであった。
その長者に、一人の男の子が誕生した。その子供の身体は、金色(コンジキ)であり容姿は比べる人がないほど端麗であった。父母はその姿を見て、喜び愛すること限りなかった。
子供の身体が金色だったので、名前を金天(コンテン)と付けた。その子供が生まれた日、家の中に自然に泉が出来て、水が出て来た。その泉の大きさは、周囲が八尺、深さも八尺あった。その水はとても清らかで、その泉からは、飲食物・衣服・金銀・珍宝などが出てきて、必要に応じてこれらを取り出して用いた。
子供はしだいに成長していったが、才能に恵まれ、性格も思慮深く優れていた。その父は、「わが子は、容姿・才能ともにとても優れている。この子の妻とすべき者を探そう」と思った。

その頃、シュクジョウ国(宿城国・所在不祥)に大長者がいた。一人の女の子を持っていた。名前を金光明(コンコウミョウ)という。容姿端麗にして、身体の色は金色であった。
その女の子が生まれた日、その家に自然に八尺の泉が出来て、その泉から様々な財宝・衣服・飲食物が出てきて、人々の思いのままに用いられた。その女の子の父母も同じように、「わが娘は容姿端麗にして、世間に例がないほど優れている。嫁がせるべき夫を探したところ、あの金天が良さそうだ」と思った。
そういうことで、やがて金天は金光明を妻とした。その後、金天は仏(釈迦)をお迎えして供養し奉った。仏は金天のために法をお説きになった。金天と妻やその父母たちもこれを聞いて、全員が須陀洹果(シュダオンカ・最高の修業階位である阿羅漢果に至る最初の修業階位。)を得た。
金天夫妻は共に出家を望み、「父母、出家を許して下さい」と願った。父母は即座に許した。
そこで、仏の御許に参って、夫婦ともに出家して共に阿羅漢果を得た。

この時にアナン(阿難・高弟の一人。釈迦の従弟にあたる。)は、これを見て仏に申し上げた。「金天夫妻は、過去世においてどのような福(善根となるもの)を積んで、富貴の家に生まれ、身体は金色にして、さらに家には自然と八尺の泉が出来、様々な財宝が出て来たのでしょうか。また、仏にお会いし奉って、早々と果を得ることが出来たのでしょうか」と。
仏は阿難に告げて仰せられた。「昔、過去世を遠く遡ること九十一劫(キュウジュウイチコウ・無限の時間といった遥かな過去を指しているが、この九十一劫の昔というのは、菩薩であった釈迦が、菩薩が成仏(仏となること)するのに要する百劫の修業を九劫早く出世成仏したとされる時にあたる。)の時、毘婆尸仏(ビバシブツ・過去七仏(釈迦とそれ以前にこの世に出現した六仏)の第一仏。)が入滅されて後、大勢いた比丘(ビク・僧)は遊行(ユギョウ・各地を遍歴して教化して回ること。)して、ある村の中に着いた。

村の人たちは、この大勢の比丘を見て、競い合うようにして供養した。そこに、夫婦である二人の人がいた。家貧しくして、僅かばかりの米もなかった。その夫は、村の人たちが比丘たちを供養するのを見て、妻に向かって涙を流して泣いた。その涙は妻の臂(ヒジ)の上に落ちた。
妻は夫に向かって、「あなたは、何ゆえに泣くのですか」と尋ねた。夫は、「わが父の有りし時は、財宝を倉に満ち溢れて計ることも出来ないほどであった。私の代になって、大変な貧乏となり、今、比丘にお会いしても、供養することもできない。これは前世において布施を行わなかったために、今この貧乏という報いを受けているのだ。今また、布施をすることが出来なければ、来世の報いはこれ以上になるだろう。そういうわけで、私は泣いているのだ」と答えた。
それに対して妻は夫に、「あなた、試しにお父様の古い家に行って、『たとえ僅かな物でもないか』隈なく探し求めてごらんなさい」と言った。夫は妻のいう言葉に従って、親の古い家に行って探してみると、金(コガネ)の銭を一つ見つけることが出来た。妻の所に持って行って見せると、妻もまた鏡を一つ持っていた。さらに瓶も一つ探し出していた。
そこで、清い水を瓶一杯に満たし、銭を瓶の中に入れて、鏡をその上に置き、夫婦そろって比丘の所に行き、これを布施として差し上げ、来世を祈願して返って行った。

この時の布施を行った貧しい夫婦は、今の金天夫妻なのである。その布施の功徳によって、その時より九十一劫の間、悪道(アクドウ・・地獄・餓鬼・畜生の三悪道のこと。)に堕ちることなく、天上・人中(ニンジュウ・人界すなわち人間界のこと。)に生まれて、常に夫婦となって、身体は金色にして福楽を受けるのである。
今、私と出会って、出家して悟りを開くことが出来たのである」と、お説きになった、
となむ語り伝へたるとや。

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