『 値上げが じわりじわり 』
数多くの商品が 値上げされたり 分量が減ったり
とうとう マヨネーズやインスタントラーメンも 値上げとか
11月の企業物価指数は 過去最大の9%上昇
これも やがては 消費者物価に影響を与えるだろう
消費者物価は じわりじわりと上昇に向かい
2%を超えれば 政策の勝利だとでも
宣う人が いるのでしょうかなぁ
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『 木でもなく草でもなく 』
読人しらず
木にもあらず 草にもあらぬ 竹のよの
端にわが身は なりぬべらなり
ある人のいはく、高津内親王の歌なり
( 巻第十八 雑歌下 NO.959 )
きにもあらず くさにもあらぬ たけのよの
はしにわがみは なりぬべらなり
* 歌意は、「 木でもなく 草でもない 竹の節(ヨ)のように 中途半端な身の上に わたしはなってしまいそうだ 」と、わが身の上を嘆いたものでしょう。
なお、『よ』は「世と節(ヨ)の掛詞」、『端』は「半端者といった意味と、節と節の間といった意味が掛けられている」など、技巧的な面が目立ちますが、作者が嵯峨天皇の妃の地位を追われた後の、わが身と浮き世を嘆いたもののようです。
* 古今和歌集は、本歌の作者を「読人しらず」として収録し、左注に「高津内親王」の名前を記しています。
その理由を、作者と決める情報が不確実と考えたためともいえますが、むしろ、天皇の妃の地位を廃された人物の名を明記することを憚ったのではないかと思われるのです。もしかすると、「読人しらず」の中には、こうした人物の歌が「左注」も付されないまま収録されているものがあるような気がするのです。
* 本稿では、本歌の作者を高津内親王と断定させて頂きます。
高津内親王(タカツノヒメミコ)は、桓武天皇の第十二皇女として誕生しました。誕生年は未詳です。ただ、801 年に加笄の儀(カケイノギ・女子の成人式にあたる。)を、高志内親王らと共に行っていますが、高志内親王の生年が 789 年なので、高津内親王もこの年前後と考えられます。おそらく、十三歳くらいだったのでしょう。
この後、ほどなくして異母兄にあたる神野親王と結婚します。神野親王は 786 年生まれなので、三、四歳年上だったと推定されます。
* 高津内親王の母は、坂上苅田麻呂の娘です。坂上氏は弓馬に秀でた一族で、あの征夷大将軍などを務めた坂上田村麻呂は母の兄弟にあたります。
809 年、神野親王は第五十二代嵯峨天皇として即位します。これにより「妃」の地位を得ますが、ほどなくその地位を廃されています。その原因ははっきりしません。
高津内親王は、業良親王と業子内親王の二人を儲けています。業子内親王は夭折したようですが、業良親王は嵯峨天皇の第二皇子として五十数歳まで生存していますが、生涯叙品されていません。精神的な疾患があったとされていますが、健康なまま晩年を迎え、868 年に急死したと伝えられています。子供もなしているようですから、精神的な疾患はあったとしても、母の高津内親王と同様に宮中から切り離されていたと思われ、それらが単に業良親王の病状が原因とは思われません。
この時代は、薬子の変など皇位をめぐる紛争が激しかった時代であり、高津内親王の母の実家である坂上氏は武勇に抜きん出た一族であることなども合わせ、高津内親王が妃の地位を廃された理由に関係があるように思えてならないのですが、伝えられている資料は無いようです。
* 高津内親王が妃の地位を追われたのは、815 年の少し前と推定されます。その後についての情報は極めて少ないようですが、立場上、内裏に残っていたとは考えられず、生活に困るようなことはないとしても、母の実家を頼ったのではないでしょうか。
高津内親王が亡くなったのは 841 年のことで、五十歳を幾つか過ぎた頃と思われます。妃の地位を離れてから三十年近くが過ぎています。
掲題の和歌は、天皇のもとを離れてそれほど経たない頃の作と思われますが、妃の立場を離れてからの三十年もの期間を、この和歌のように悶々として過ごしていたとは考えたくありません。
しかし、残念ながら、その消息を探る手がかりさえ掴むことが出来ませんでした。
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