指貫のくくり紐 ・ 今昔物語 ( 巻 26-4 )
今は昔、
大学頭藤原明衡(ダイガクノカミ フジワラノアキヒラ・1066年七十八歳で没。出雲守、文章博士など務めたが、従四位下が最高位と藤原氏としてはあまり恵まれていなかった)という博士がいた。その人がまだ若い頃、しかるべき所に宮仕えしていたある女房と深い仲になり、ひそかに通っていた。
ある夜、その女房のもとを訪れ、局に入り込んで寝るつもりであったが都合が悪くなり、その屋敷の近くの下賤の者に、「お前の家に女房を呼び出し、そこで寝させてほしい」と頼み込んだ。
たまたま家の主人の男は留守をしており、妻が一人でいたが、「お安いことです」と了承したが、何分狭くて小さな家なので、自分が寝る所以外に寝る場所などなかったので、自分の寝場所を提供した。
そこで、この女に女房の局の畳(ござの上等の物)を取って来させ、それを敷いて、そこで明衡と女房は共寝した。
ところで、その家の主人の男は、かねてから、「自分の妻がほかの男とひそかに通じている」と聞いていたが、「その間男は、今夜きっとやってくるはずだ」と告げる者があったので、「何としてもその現場を押さえて、その男を殺してしまおう」と思い、妻には遠くに出掛けて四、五日は帰らないと言っておき、出かけたふりをして様子を窺っているところだったのである。
そのような事とはつゆとも知らず、明衡は女房と共にすっかり打ち解けて寝ていると、真夜中頃になって、この主人の男がひそかにやって来て家の中の様子を立ち聞きすると、男と女がひそひそと話し合っている気配が伝わってきた。
「やっぱりそうであったか。聞いていた通り本当だったのだ」と思い、足音を忍ばせて家の中に入り、聞き耳を立てると、自分の寝所の辺りで男と女が寝ている様子である。
暗いのではっきりとは見えないが、主人の男はいびきのする方にそっと近寄り、刀を抜いて逆手に持ち、腹の上と思しき所を探り当て、「突き刺そう」と腕を振り上げたちょうどその時、屋根板の間から差しこんだ月の光が、指貫のくくり紐が長く垂れ下がっているのが目に入った。
「わしの妻のもとに、このような指貫を着た人が間男として来るはずがない。もし人違いなら、とんでもないことになる」とためらっていると、たいそう良い香りが漂ってきたので、「やはり、人違いだ」と手を引っ込め、着ている衣をそっと探ってみると、手触りも柔らかである。
その時、女房が目を覚まし、「そこに誰かいるようですが、どなたなのですか」と忍びやかに言う声は柔らかで、自分の妻の声ではなかった。
「やっぱりそうだった」と主人の男が後退りすると、明衡も目を覚まし、「誰だ」と誰何すると、隅の小部屋で寝ていた男の妻もその声を聞きつけて、「昼間、夫の様子がどこかおかしくて、それでもどこかへ出かけて行ったのだが・・。もしかすると、そっと帰って来て人違いでもしたのだろうか」とも思ったが、飛び起きると「お前は何者か。泥棒か」などと喚き立てた。
その声が妻の声であることに気付いた男は、「さっきの女はわしの妻ではない。他の人たちが寝ていたのだ」と確信すると、その場から逃げ出し、妻が寝ている小部屋に入り、妻の髪を引き寄せ、小声で、「これはどうしたことか」と尋ねた。
妻は、「思っていた通りだった」と思いながら、「あそこは、高貴なお方が今夜だけと言って借りに来られたのでお貸しして、私はここに寝ていたのよ。とんでもない過ちをするところだっね」と答えた。
この頃には明衡も騒ぎに気付いて、「いったい何事だ」と声をかけた。
その声で主人の男は声の主が誰であるかに気付き、「私めは、甲斐殿の雑色(下働き)何々丸と申す者です。御一門の殿がおいでになられているのを知らず、あやうくとんでもない過ちをしてしまうところでございました」と謝った。
そして、「実は、しかじかの事がありまして、ひそかに様子を窺っていましたところ、寝室のあたりで男女の気配がしましたので、『案の常だ』と思いまして、そっと近づき、刀を抜いて腕を振り上げましたところ、幸いなことに差しこんだ月の光に御指貫のくくり紐を見つけ、『私らごときの妻のもとに、間男とはいえこのような指貫をつけた人が来るはずがない。人違いだと大変なことになる」と思い止まりました。もし、御指貫のくくり紐を見つけませんでしたら、とんでもない大事を引き起こしていました」と話した。
これを聞いて明衡は、肝も心も抜けたようになり、ただあきれるばかりであった。
この甲斐殿というのは、明衡の妹の夫で、藤原公業という人であった。
この家の主人の男は、甲斐殿の雑色なので、よく明衡の屋敷に使いに来ていたので、しじゅう顔を合わせていた男であった。まことに思いがけないことに、指貫のくくり紐のおかげで、実に危い命を全うしたものである。
「人は、忍ぶこととはいいながら、下賤な者の家などに立ち寄ってはならぬものだ」と、これを聞いた人々は言いあった。
但し、これもまた前世からの報いである。死なぬ報いがあったからこそ、身分の低い下郎であったが、あのような思慮をめぐらしたのである。もし、死ぬべき報いがあったなら、思慮をめぐらすことなどなく、突き殺してしまっていたであろう。
されば、すべてのことはみな宿報によるものと知るべきだ、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
今は昔、
大学頭藤原明衡(ダイガクノカミ フジワラノアキヒラ・1066年七十八歳で没。出雲守、文章博士など務めたが、従四位下が最高位と藤原氏としてはあまり恵まれていなかった)という博士がいた。その人がまだ若い頃、しかるべき所に宮仕えしていたある女房と深い仲になり、ひそかに通っていた。
ある夜、その女房のもとを訪れ、局に入り込んで寝るつもりであったが都合が悪くなり、その屋敷の近くの下賤の者に、「お前の家に女房を呼び出し、そこで寝させてほしい」と頼み込んだ。
たまたま家の主人の男は留守をしており、妻が一人でいたが、「お安いことです」と了承したが、何分狭くて小さな家なので、自分が寝る所以外に寝る場所などなかったので、自分の寝場所を提供した。
そこで、この女に女房の局の畳(ござの上等の物)を取って来させ、それを敷いて、そこで明衡と女房は共寝した。
ところで、その家の主人の男は、かねてから、「自分の妻がほかの男とひそかに通じている」と聞いていたが、「その間男は、今夜きっとやってくるはずだ」と告げる者があったので、「何としてもその現場を押さえて、その男を殺してしまおう」と思い、妻には遠くに出掛けて四、五日は帰らないと言っておき、出かけたふりをして様子を窺っているところだったのである。
そのような事とはつゆとも知らず、明衡は女房と共にすっかり打ち解けて寝ていると、真夜中頃になって、この主人の男がひそかにやって来て家の中の様子を立ち聞きすると、男と女がひそひそと話し合っている気配が伝わってきた。
「やっぱりそうであったか。聞いていた通り本当だったのだ」と思い、足音を忍ばせて家の中に入り、聞き耳を立てると、自分の寝所の辺りで男と女が寝ている様子である。
暗いのではっきりとは見えないが、主人の男はいびきのする方にそっと近寄り、刀を抜いて逆手に持ち、腹の上と思しき所を探り当て、「突き刺そう」と腕を振り上げたちょうどその時、屋根板の間から差しこんだ月の光が、指貫のくくり紐が長く垂れ下がっているのが目に入った。
「わしの妻のもとに、このような指貫を着た人が間男として来るはずがない。もし人違いなら、とんでもないことになる」とためらっていると、たいそう良い香りが漂ってきたので、「やはり、人違いだ」と手を引っ込め、着ている衣をそっと探ってみると、手触りも柔らかである。
その時、女房が目を覚まし、「そこに誰かいるようですが、どなたなのですか」と忍びやかに言う声は柔らかで、自分の妻の声ではなかった。
「やっぱりそうだった」と主人の男が後退りすると、明衡も目を覚まし、「誰だ」と誰何すると、隅の小部屋で寝ていた男の妻もその声を聞きつけて、「昼間、夫の様子がどこかおかしくて、それでもどこかへ出かけて行ったのだが・・。もしかすると、そっと帰って来て人違いでもしたのだろうか」とも思ったが、飛び起きると「お前は何者か。泥棒か」などと喚き立てた。
その声が妻の声であることに気付いた男は、「さっきの女はわしの妻ではない。他の人たちが寝ていたのだ」と確信すると、その場から逃げ出し、妻が寝ている小部屋に入り、妻の髪を引き寄せ、小声で、「これはどうしたことか」と尋ねた。
妻は、「思っていた通りだった」と思いながら、「あそこは、高貴なお方が今夜だけと言って借りに来られたのでお貸しして、私はここに寝ていたのよ。とんでもない過ちをするところだっね」と答えた。
この頃には明衡も騒ぎに気付いて、「いったい何事だ」と声をかけた。
その声で主人の男は声の主が誰であるかに気付き、「私めは、甲斐殿の雑色(下働き)何々丸と申す者です。御一門の殿がおいでになられているのを知らず、あやうくとんでもない過ちをしてしまうところでございました」と謝った。
そして、「実は、しかじかの事がありまして、ひそかに様子を窺っていましたところ、寝室のあたりで男女の気配がしましたので、『案の常だ』と思いまして、そっと近づき、刀を抜いて腕を振り上げましたところ、幸いなことに差しこんだ月の光に御指貫のくくり紐を見つけ、『私らごときの妻のもとに、間男とはいえこのような指貫をつけた人が来るはずがない。人違いだと大変なことになる」と思い止まりました。もし、御指貫のくくり紐を見つけませんでしたら、とんでもない大事を引き起こしていました」と話した。
これを聞いて明衡は、肝も心も抜けたようになり、ただあきれるばかりであった。
この甲斐殿というのは、明衡の妹の夫で、藤原公業という人であった。
この家の主人の男は、甲斐殿の雑色なので、よく明衡の屋敷に使いに来ていたので、しじゅう顔を合わせていた男であった。まことに思いがけないことに、指貫のくくり紐のおかげで、実に危い命を全うしたものである。
「人は、忍ぶこととはいいながら、下賤な者の家などに立ち寄ってはならぬものだ」と、これを聞いた人々は言いあった。
但し、これもまた前世からの報いである。死なぬ報いがあったからこそ、身分の低い下郎であったが、あのような思慮をめぐらしたのである。もし、死ぬべき報いがあったなら、思慮をめぐらすことなどなく、突き殺してしまっていたであろう。
されば、すべてのことはみな宿報によるものと知るべきだ、
となむ語り伝へたるとや。
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