『 哀れ 小中将の君 ・ 今昔物語 ( 31 - 8 ) 』
今は昔、
女御の御許にお仕えしていた若い女房がいた。小中将の君(伝不詳。「紫式部日記」に同名の人物が登場するが、関係は不詳。)と呼ばれていた。
容姿端麗で、気立ても悪くなかったので、同僚の女房たちは皆、この小中将の君に好意的であった。
これといった定まった男はいなかったが、美濃守藤原隆経朝臣(フジワラノタカツネノアソン・生没年未詳。1071年頃、美濃守であったらしい。)が時々通ってきていた。
ある日、この小中将が薄紫色の衣に紅の単衣を着て、女御の近くに伺候していたが、やがて夕方になり、御燈台に火が灯されたが、その火に、この小中将が薄紫色の衣を着て立っている姿形が少しも変わらず、袖で口を覆っている目許、額つき、髪の垂れ具合などが露ほども違わず映っているのを、女房たちは「何とよく似ていること」などと言って騒ぎ合ったが、この女房たちの中には、こういう折の対応が出来る年配者がいなかったので、只集まっておもしろがって見ているうちに、灯心を掻き落としてしまった。
その後で、女房たちが「こういう事があったのですよ」と小中将に話すと、「まあ、どれほど卑しげでひどい女だったのでしょうね。すぐに掻き消さないで、いつまでも見ていたなんて恥ずかしいことですねぇ」と言った。
その後、年配の女房たちがこれを聞いて、「あれは[ 欠字あるも、不詳。]なる物を。あの若い娘たちは、私たちにこうだと告げないで、掻き落としてしまうなんて」と言ったが、どうすることも出来ないで終った。
それから二十日ばかり経った頃、この小中将はこれといった原因もなく、風邪(現在の風邪より、範囲が広かったようだ。)を患って、二、三日は局で寝ていたが、やがて「苦しい」と言って自宅に退出した。
さて、隆経朝臣は、ちょっとした用事があって、知人の所へ出掛けようとして、女御の御部屋に参上したついでに、[ 欠字。「局の名前」か? ]を尋ねると、「ただ今は、里に退出されています」と大盤所(ダイバンドコロ・食物を調理する所。)の女童が言ったので、すぐに女の家を尋ねた。
七日、八日頃の月が西に傾く頃であったが、西向きの妻戸の内側に小中将が出ているので、隆経は妻戸を押し開いて入り、「明け方には出掛けなければならないので、その旨だけを告げて帰ろう」と思っていたが、この小中将を見ると、いつにも増して身にしみて愛おしく思われる上に、小中将も心細げな様子で、少し具合が悪そうなので、隆経朝臣は一旦は帰ろうと思ったものの、留まることにして共寝した。
夜もすがら語り明かし、明け方に帰るのも小中将が恋しそうにしているのを振り切って出てきたが、隆経は我が家に帰る道すがらも何か気にかかっていた。
家に帰り着くと、「気になって仕方がありません。用事を急いで済ませて帰ってきます」などと書いて届けさせたが、その返事を今か今かと待っていたが、ようやく届いたので、すぐさま開いてみると、他には何も書いていなくて、ただ「鳥部山」とだけ書かれていた。
隆経はこれを見て哀れに思い、それを懐に入れ肌に当てて、旅に出た。
その道すがら、これを何度も取り出して見たが、筆跡もまことに美しい。旅先では、しばらく滞在しなければならなくなったが、あの人の恋しさに、急いで帰った。
京に帰り着き、まず急いで女の家に行ってみると、家から人が出て来て、「すでにお亡くなりになりましたので、昨夜、鳥部野に葬り奉りました」と言う。それを聞いた隆経朝臣の心中を、どう喩えればよいのだろうか。さぞ、悲しかったことであろう。
されば、人の姿が火影に立って見えたならば、その芯の燃えくずを掻き落として、その人に飲ますべきである。(一部に「欠字」あり推定した。)また、祈祷も十分しなければならない。大変不吉なことであることを知らずして、飲ますことなく掻き落としてしまえば、昔からの言い伝え通り、このように死んでしまうのである、
となむ語り伝へたるとや。
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* 「鳥部山」の部分ですが、「鳥部野」「鳥辺野」とも呼ばれ葬送の地でした。
そして、当時、拾遺集にある『 鳥部山 谷に煙の 燃えたらば はかなく消えし われと知らなむ 』と言う歌が広く知られていて、この小中将の手紙の「鳥部山」も、この歌を指していたはずです。
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