『 二人の女御 ・ 望月の宴 ( 127 ) 』
ところで、宣耀殿女御(センヨウデンノニョウゴ・娍子)の御許には、故村上の帝が、かの昔の宣耀殿女御(藤原芳子。娍子の叔母にあたる。村上帝の寵愛を受けた。)の為にお仕立てになられた御道具としては、蒔絵の御櫛の筥一双が伝わっていて、今の宣耀殿女御の御許に伝えられているが、以前に東宮は、その中をご覧になってたいそう感銘を受けられたが、督の殿(妍子)がご持参になった御道具と比べてご覧になると、あちらの方はいかにも古風に感じられる。
実は、村上の先帝の様々な御心配りは、この世のどの帝の御心配りより優れていらっしゃったが、自らの御口で申されたり、筆で描いて示されたりして、造物所(蔵人所に属する道具類の製作所。)で制作した物を御覧になられては、作り直しを命じられたが、今度の物は格別に見事だと御覧になられるにつけても、時世に従って好みが変わり当世風の物に心が引かれるのかとお考えになられたが、やはり、この度の品々はまことに立派なので、殿(道長)の御心の並々ならぬことが察しられ、これほど立派なのだとお思いになられた。
あちらの御道具類は、数々の屏風には、ためうじ(人物未詳)や常則(飛鳥氏。宮廷に出入りしていた画家らしい。)などが絵を描き、道風(小野氏。書に優れ、三蹟の一人。)が色紙形に書き入れており、たいそう立派な物である。昔の物ではあるが、まだ新しい物のように塵ばむこともなく、きれいに使用されていたが、こちらの物は、弘高(巨勢氏。当代の代表的な画家。)が描いた数々の屏風に、侍従中納言(藤原行成。書に優れていた。)がお書きになったようである。
これらのどちらに劣り勝りがあろうかと、東宮はご自身の思案に余られては、殿や左衛門督(頼通)などが参上なさるのをお迎えして、お話しし判じられたりなさったが、お年もお召しになっているだけに、何事もよく承知されていて、用意した御道具などの良さをご理解なさっているので、恐縮して、ますます何事につけ東宮へのご配慮を格別になさっている。
督の殿付の女房たちは、まことに見事な身形や装束であって、実にすばらしい織物の唐衣を着て、豪勢な大海の摺り裳を一同が腰にまとい、扇を顔に差しかざして、そちらこちらに集まって、何事か話し合いながら笑っているのも、東宮は気恥ずかしく感じられ、こちらの御部屋にお渡りの折には、その為の御心配りをなさった。さりげない御衣の色合いや香の薫りなども、宣耀殿女御の方で立派に用意なさっておいでである。
帝や東宮と申し上げるお方は、年若くまだ子供っぽくいらっしゃるのを、格別のお方と人はお思い申し上げるのだが、この東宮はお年も召しておいでで、御有様も並々ならず、たいそう優美で物慣れなさり洗練されていらっしゃるので、こちらが気後れするようなことが多くおありだが、督の殿も他の女御方とは、ちょっとお召しになる御衣の袖口や褄の重なり具合などがたいそう美しくいらっしゃるので、殿の御前(道長)も、ますます力をお入れになって、衣装を重ねてお着せ申し上げているようである。
宣耀殿には、他人も近侍の人も、「どんな思いでいらっしゃるのだろう。安らかに御寝みになれるのだろうか」などと取沙汰申しているので、女御は、「この数年、このような事になるのが当然であったのに、そうならなかったので、東宮の御為にたいそう申し訳なく思っておりましたので、督の殿が参上なさった今は、安心してお見立て申しています」などと仰せになって、東宮のご装束を明け暮れご立派にお仕立てになり、御薫物なども常に調合なさって差し上げていらっしゃる。
東宮は、この女御をまるで母后のようにお思い申し上げておいでなのも、なるほどそうなのだとお見受けされる。
殿の上(道長の妻倫子)は、中宮(彰子)とこの女御(妍子)とを、全く手抜きなさることなく参上なさっているが、まことに申し分のない御有様である。
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