大水に流された少年 ・ 今昔物語 ( 巻 26-3 )
今は昔、
美濃国に因幡河(イナバノカワ・長良川の古称)という大きな川がある。雨が降って水があふれる時には、はかり知れないほどの大洪水を起こす川である。
そこで、その川の近くに住む人々は、洪水の時に備えて、家の天井を丈夫に造り、板敷の床のように固く板を張っており、洪水になるとその上に登り、そこで作業や食事などもしていたと言う。
男は船に乗ったり泳いだりして用を足しに出かけるが、幼い者や女たちはその天井に残したままである。下々の者は、その天上の事を**(欠字。「ツシ」とも)と呼んでいた。
さて、二十年ほど経った。(何から二十年経ったのか、説明されていない)
その因幡河が大洪水を起こした時、ある家の天井の上に女二、三人、子供四、五人を登らせておいた。家に入ってきた水がまだ少ない間は、柱の土台も浮き上がらなかったが、水が天井を越え、さらに水かさが増えてくると、どの家も残らず流されてしまい、多くの人が亡くなってしまった。
ところが、この女と子供が登っていた家の天井は、他の家よりも特に頑丈に造っていたので、柱は土台とともに残り、屋根と天井とだけは壊れもしないで船のように流れて行った。
高い山に逃げ延びて見ていた者たちは、「あの流されて行く者たちは助かるだろうか。一体どうなるのだろう」と言いあっていた。
そのうち、天井で煮炊きをしていたが、その火が強風にあおられて屋根の板に吹き付け、勢いよく燃え上がった。天井にいた者たちはわめき叫ぶが、どうすることも出来ない。
それまで、水に流されて溺死してしまうだろうと思っていた者たちが、この様子を見ていたが助けに行く者もなく、瞬く間に火は燃え尽きて、全員焼け死んでしまった。
「水に流されながら焼け死ぬなんて、何とも不思議で珍しいことだ」と、なす術もなく見ていると、天井にいた十四、五歳ほどの子供が一人、火を逃れて水に飛び込んだ。しかし、流れは早く流されて行く。
「あの子は、火の難からは逃れたが、とうてい助かりそうもない。結局、水に溺れて死ぬ宿命を持っていたのだろう」などと言いあっているうちにも少年は流されて行ったが、草よりも短くて青い木の葉が水面に出ているのに手が触れたので、それを掴むと、それに引っ張られて流されなくなった。
その木の葉はしっかりしているようなので、少年はその手ごたえに力を得て探ってみると、「木の枝だ」と感じられたので、その枝をしっかりと掴んでいた。
この川は、大水が出るかと思うと、すぐに水が引く川なので、少しずつ水が引いていくにつれて捕まえていた木が次第に姿を現してきた。
そして、枝の股が現れたので、そこにきちんとまたがり、「水がすっかり引けば、こうしていれば助かるに違いない」と思っているうちに、日が暮れて夜になった。辺りは真っ暗になり何も見えなくなったが、その夜はこのまま明かし、「水が引いたら木から降りよう」と思ったが、夜はなかなか明けず待ち遠しく思っているうちに、やがて夜は明け日が昇ってきた。
そこで下を見ると、目も届かない雲の上に居るような心地がするので、「どうしたことだろう」と目を凝らして見下ろすと、遥かな高い峰の上から深い谷に向かって傾いて生えている木のてっぺんに居たのである。その木は、高さは十丈(約三十メートル)ほどもあり、幹には枝もなく、てっぺん近くに僅かに小枝があるばかりで、少年はその小枝にしがみついていたのである。
少しでも体を動かせると、小枝はゆらゆらと揺れるので、「この枝が折れると自分は落ちてしまってこの身は砕けてしまうだろう」と思うと、どうしようもなく心細く、幼心ながら観音を念じ奉って、「なにとぞ私を助けてください」と声をあげて叫んだが、すぐに聞きつけてくれる人もいない。
「水の難を逃れようとすると、火の難に合った。火の難を逃れようとすると、このような遥かに高い木から落ちてこの身は砕けて死んでしまう。何と悲しいことか」と思っていると、少年の叫ぶ声をかすかに聞きつけた人が、「あの声は何だ」と捜し求め、木の枝にしがみついている少年を見つけた。
「あそこにいる子は、昨日川の中で焼けた家の中にいた者のうち、天井より落ちて川に流された子のようだ。どうして助けてやればよいだろうか」と人々は言い合ったが、手段が見つからない。
木の幹を見ると、枝はなく手をかける所もない。十丈ほどもある大木のてっぺんであるし、足場を組んで降ろすことも出来ない峰なので、思い悩んでいるうちに、これを聞きつけた人も多く集まってきた。
ああだこうだと意見を交わしてみたところで、これといった方法は出て来ない。
すると、木の上から少年が叫んだ。
「もう少しで、いやでも落ちてしまう。どうせ死ぬのなら、網をたくさん集めて、それを張って受けてくれ。『もしかすると助かるかもしれない』ので、それに向かって飛び降りるから」と。
集まっている人たちは、「それはいい思いつきだ」と言って、その近くにある網をたくさん持ち寄ってきて、重ねて強くした網を高く張り、さらにそれを支えるために幾重にも網を重ねて張った。
少年は、観音を念じ奉り、足を離して網に向かって飛び降りると、その体はふりふりと舞いながら落ちて行ったが、その時間の長かったこと。
仏の御利益なのであろうか、うまく網の上に落ちたのである。人々がそばに駆け寄ってみると、気を失って動かないので、そっと下に降ろして手当を施すと、一時(ヒトトキ・二時間ほど)ほどで息を吹き返したのである。
まことに、九死に一生を得た者といえる。次々と堪えがたい目に遭いながら命を全うしたのには、きっと前生の宿報が強かったからであろう。このことを聞いた人は、隣国の者までが不思議なことだと思った。
これを思うに、「人の命は、どのようなことでも、すべて宿報によるものなのだ」と人々は言いあった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
今は昔、
美濃国に因幡河(イナバノカワ・長良川の古称)という大きな川がある。雨が降って水があふれる時には、はかり知れないほどの大洪水を起こす川である。
そこで、その川の近くに住む人々は、洪水の時に備えて、家の天井を丈夫に造り、板敷の床のように固く板を張っており、洪水になるとその上に登り、そこで作業や食事などもしていたと言う。
男は船に乗ったり泳いだりして用を足しに出かけるが、幼い者や女たちはその天井に残したままである。下々の者は、その天上の事を**(欠字。「ツシ」とも)と呼んでいた。
さて、二十年ほど経った。(何から二十年経ったのか、説明されていない)
その因幡河が大洪水を起こした時、ある家の天井の上に女二、三人、子供四、五人を登らせておいた。家に入ってきた水がまだ少ない間は、柱の土台も浮き上がらなかったが、水が天井を越え、さらに水かさが増えてくると、どの家も残らず流されてしまい、多くの人が亡くなってしまった。
ところが、この女と子供が登っていた家の天井は、他の家よりも特に頑丈に造っていたので、柱は土台とともに残り、屋根と天井とだけは壊れもしないで船のように流れて行った。
高い山に逃げ延びて見ていた者たちは、「あの流されて行く者たちは助かるだろうか。一体どうなるのだろう」と言いあっていた。
そのうち、天井で煮炊きをしていたが、その火が強風にあおられて屋根の板に吹き付け、勢いよく燃え上がった。天井にいた者たちはわめき叫ぶが、どうすることも出来ない。
それまで、水に流されて溺死してしまうだろうと思っていた者たちが、この様子を見ていたが助けに行く者もなく、瞬く間に火は燃え尽きて、全員焼け死んでしまった。
「水に流されながら焼け死ぬなんて、何とも不思議で珍しいことだ」と、なす術もなく見ていると、天井にいた十四、五歳ほどの子供が一人、火を逃れて水に飛び込んだ。しかし、流れは早く流されて行く。
「あの子は、火の難からは逃れたが、とうてい助かりそうもない。結局、水に溺れて死ぬ宿命を持っていたのだろう」などと言いあっているうちにも少年は流されて行ったが、草よりも短くて青い木の葉が水面に出ているのに手が触れたので、それを掴むと、それに引っ張られて流されなくなった。
その木の葉はしっかりしているようなので、少年はその手ごたえに力を得て探ってみると、「木の枝だ」と感じられたので、その枝をしっかりと掴んでいた。
この川は、大水が出るかと思うと、すぐに水が引く川なので、少しずつ水が引いていくにつれて捕まえていた木が次第に姿を現してきた。
そして、枝の股が現れたので、そこにきちんとまたがり、「水がすっかり引けば、こうしていれば助かるに違いない」と思っているうちに、日が暮れて夜になった。辺りは真っ暗になり何も見えなくなったが、その夜はこのまま明かし、「水が引いたら木から降りよう」と思ったが、夜はなかなか明けず待ち遠しく思っているうちに、やがて夜は明け日が昇ってきた。
そこで下を見ると、目も届かない雲の上に居るような心地がするので、「どうしたことだろう」と目を凝らして見下ろすと、遥かな高い峰の上から深い谷に向かって傾いて生えている木のてっぺんに居たのである。その木は、高さは十丈(約三十メートル)ほどもあり、幹には枝もなく、てっぺん近くに僅かに小枝があるばかりで、少年はその小枝にしがみついていたのである。
少しでも体を動かせると、小枝はゆらゆらと揺れるので、「この枝が折れると自分は落ちてしまってこの身は砕けてしまうだろう」と思うと、どうしようもなく心細く、幼心ながら観音を念じ奉って、「なにとぞ私を助けてください」と声をあげて叫んだが、すぐに聞きつけてくれる人もいない。
「水の難を逃れようとすると、火の難に合った。火の難を逃れようとすると、このような遥かに高い木から落ちてこの身は砕けて死んでしまう。何と悲しいことか」と思っていると、少年の叫ぶ声をかすかに聞きつけた人が、「あの声は何だ」と捜し求め、木の枝にしがみついている少年を見つけた。
「あそこにいる子は、昨日川の中で焼けた家の中にいた者のうち、天井より落ちて川に流された子のようだ。どうして助けてやればよいだろうか」と人々は言い合ったが、手段が見つからない。
木の幹を見ると、枝はなく手をかける所もない。十丈ほどもある大木のてっぺんであるし、足場を組んで降ろすことも出来ない峰なので、思い悩んでいるうちに、これを聞きつけた人も多く集まってきた。
ああだこうだと意見を交わしてみたところで、これといった方法は出て来ない。
すると、木の上から少年が叫んだ。
「もう少しで、いやでも落ちてしまう。どうせ死ぬのなら、網をたくさん集めて、それを張って受けてくれ。『もしかすると助かるかもしれない』ので、それに向かって飛び降りるから」と。
集まっている人たちは、「それはいい思いつきだ」と言って、その近くにある網をたくさん持ち寄ってきて、重ねて強くした網を高く張り、さらにそれを支えるために幾重にも網を重ねて張った。
少年は、観音を念じ奉り、足を離して網に向かって飛び降りると、その体はふりふりと舞いながら落ちて行ったが、その時間の長かったこと。
仏の御利益なのであろうか、うまく網の上に落ちたのである。人々がそばに駆け寄ってみると、気を失って動かないので、そっと下に降ろして手当を施すと、一時(ヒトトキ・二時間ほど)ほどで息を吹き返したのである。
まことに、九死に一生を得た者といえる。次々と堪えがたい目に遭いながら命を全うしたのには、きっと前生の宿報が強かったからであろう。このことを聞いた人は、隣国の者までが不思議なことだと思った。
これを思うに、「人の命は、どのようなことでも、すべて宿報によるものなのだ」と人々は言いあった、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます