ちょっぴり『老子』 ( 32 )
『 善行は跡を残さない 』
聖人の行動
「 善行無轍迹、善言無瑕謫。善計不用籌策、善閉無關楗而不可開、善結無縄約而不可解。 」
『老子』第二十七章の冒頭部分です。
読みは、「 善く行くものには轍迹(テッセキ)無く、善く言うものには瑕謫(カタク)無し。善く計るものは籌策 (チョウサク・数を数える道具) を用いず、善く閉ざすものは關楗 (カンケン・かんぬきと鍵) 無くして開くことなく、善く結ぶものは縄約(ジョウヤク)無くして解くことがない。」
文意は、「 善く行くものは、自由自在で轍の跡のようなものを残さないように、本当に善い行いはその行跡は人目につかない。本当に善い言葉は、キズもトガもない。本当に善い計らいは道具を用いて計算されたようなものではなく、邪悪なものを防ぐための本当に善く閉ざされたものには、かんぬきも鍵もないが心ないものは開けることができない。自然の摂理の通りに善く結ばれでいるものは、括り付けて束縛しているわけではないが、解かれることがない。 」
第二十七章は、この後も続いています。
大体の文意は、 「 以上のようなことであるから、これらのことを知っている聖人は、常に人をよく救い、見捨てられる人がいない。常に善く物を用い、それぞれの居場所を作るので棄てられる物がない。これを襲明 (シュウメイ) という。
聖人の目から見れば、善人も不善人も共に存在価値があるものであるから、善人は不善人の師であり、不善人も善人に役立つ存在である。善人を貴ばず、不善人を愛さないならば、たとえ智者といわれる者であっても大いなる迷いに入っているのだ。この道理を、要妙という。 」
すべての人に価値があり、すべての物に用いるべき場所がある
この章は、聖人、すなわち『道』を体得している人は、善行や善言をこれ見よがしに示すようなことがなく、それでいて、優れた人もそうでない人に対しても、それぞれの生き方を指導することができるということを示しているようです。
あとの部分の「襲明」というのは難しいのですが、もともとの意味は、「明るいものを覆い隠す」といった意味のようです。ここでは、「智と愚・善と悪・長と短といった差別を知っている『明』を覆い隠す」という意味のようです。
また、「要妙」というのは、「要(カナメ)となる微妙な道理」といった意味のようです。
私たちの日常は、わずかな善悪や利害に振り回され、ちょっとした言葉の綾や仕打ちのために、大切な人を失ってしまったり、本当に大切なものを見失ってしまうことが少なくないように思われます。
聖人のような行動などは望むべくもありませんが、どんな人にもそれなりの人生があり、どんなものにも有るべき場所があるということを心に秘めておきたいものです。そして、その「どんな人」には、自分も入っているということも忘れないようにしたいものです。
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『 善行は跡を残さない 』
聖人の行動
「 善行無轍迹、善言無瑕謫。善計不用籌策、善閉無關楗而不可開、善結無縄約而不可解。 」
『老子』第二十七章の冒頭部分です。
読みは、「 善く行くものには轍迹(テッセキ)無く、善く言うものには瑕謫(カタク)無し。善く計るものは籌策 (チョウサク・数を数える道具) を用いず、善く閉ざすものは關楗 (カンケン・かんぬきと鍵) 無くして開くことなく、善く結ぶものは縄約(ジョウヤク)無くして解くことがない。」
文意は、「 善く行くものは、自由自在で轍の跡のようなものを残さないように、本当に善い行いはその行跡は人目につかない。本当に善い言葉は、キズもトガもない。本当に善い計らいは道具を用いて計算されたようなものではなく、邪悪なものを防ぐための本当に善く閉ざされたものには、かんぬきも鍵もないが心ないものは開けることができない。自然の摂理の通りに善く結ばれでいるものは、括り付けて束縛しているわけではないが、解かれることがない。 」
第二十七章は、この後も続いています。
大体の文意は、 「 以上のようなことであるから、これらのことを知っている聖人は、常に人をよく救い、見捨てられる人がいない。常に善く物を用い、それぞれの居場所を作るので棄てられる物がない。これを襲明 (シュウメイ) という。
聖人の目から見れば、善人も不善人も共に存在価値があるものであるから、善人は不善人の師であり、不善人も善人に役立つ存在である。善人を貴ばず、不善人を愛さないならば、たとえ智者といわれる者であっても大いなる迷いに入っているのだ。この道理を、要妙という。 」
すべての人に価値があり、すべての物に用いるべき場所がある
この章は、聖人、すなわち『道』を体得している人は、善行や善言をこれ見よがしに示すようなことがなく、それでいて、優れた人もそうでない人に対しても、それぞれの生き方を指導することができるということを示しているようです。
あとの部分の「襲明」というのは難しいのですが、もともとの意味は、「明るいものを覆い隠す」といった意味のようです。ここでは、「智と愚・善と悪・長と短といった差別を知っている『明』を覆い隠す」という意味のようです。
また、「要妙」というのは、「要(カナメ)となる微妙な道理」といった意味のようです。
私たちの日常は、わずかな善悪や利害に振り回され、ちょっとした言葉の綾や仕打ちのために、大切な人を失ってしまったり、本当に大切なものを見失ってしまうことが少なくないように思われます。
聖人のような行動などは望むべくもありませんが、どんな人にもそれなりの人生があり、どんなものにも有るべき場所があるということを心に秘めておきたいものです。そして、その「どんな人」には、自分も入っているということも忘れないようにしたいものです。
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