ちょっぴり『老子』 ( 4 )
万物の母
天地の始め
『老子』の冒頭部分「道可道 非常道」に続く部分は、
『 名可名 非常名、無名 天地之始、有名 萬物之母 』となっています。
日本語にすれば、「名の名とすべきは 常の名に非ず、名なし 天地のはじめには、名あり 萬物の母によってこそ」(ナのナとすべきは ツネのナにアラず、ナなし テンチのはじめには、ナあり バンブツのハハによってこそ)といった感じです。
これが『道』だと説明されたようなものは、本当の『道』ではない、というのと同様に、これは何々だと名付けられているものなどは、不変の名前ではない、と続いています。
つまり、天地の始めには、あらゆるものに名前など付けられていなかったというのですが、これは私たちでも十分理解できます。万物の母である天地が拓かれて初めて、天・地という名が登場し、あらゆるものに名前が付けられていったのです。
従って、例えば「山」であれば、天地が拓かれたことにより「ヤマ」は生まれてきましたが、それは便宜上「山」という名前が付けられているだけであって、「山」という名前が、「ヤマ」の本質を表しているわけではない、ということなのでしょうか。
本質を見よう
『老子』第一章は、今少し続いていますが割愛させていただきます。
おそらく『老子』の教えとはかなり外れた説明になると思うのですが、私たちの身の回りにあるものには、全て名が付けられています。しかしそれらは、便宜上付けられた名前であって、本質を表しているわけではない、ということは理解できます。
だからといって、それがどうした、ということになります。
しかし私たちは、例えば、これは「ダイヤモンド」だといわれれば、値打は分からなくとも高価なものだと考えてしまいます。つまり、本質が分かっていないのに名前に判断が左右されてしまうことはよくあります。
それは、品物ばかりでなく、人物にしても同様です。学歴という名前、資産という名前、職業という名前等々、私たちは、いろいろな名前によって本質を見失っていることがよくあります。
もっとも、その本質というのが何かといえば、これがまた難しくなってしまうのでしょうが、『老子』先生に言わせれば、「『道』を体得していれば自ずから見えてくる」とでも仰るのでしょうねぇ。
(第一章より)
* * *
万物の母
天地の始め
『老子』の冒頭部分「道可道 非常道」に続く部分は、
『 名可名 非常名、無名 天地之始、有名 萬物之母 』となっています。
日本語にすれば、「名の名とすべきは 常の名に非ず、名なし 天地のはじめには、名あり 萬物の母によってこそ」(ナのナとすべきは ツネのナにアラず、ナなし テンチのはじめには、ナあり バンブツのハハによってこそ)といった感じです。
これが『道』だと説明されたようなものは、本当の『道』ではない、というのと同様に、これは何々だと名付けられているものなどは、不変の名前ではない、と続いています。
つまり、天地の始めには、あらゆるものに名前など付けられていなかったというのですが、これは私たちでも十分理解できます。万物の母である天地が拓かれて初めて、天・地という名が登場し、あらゆるものに名前が付けられていったのです。
従って、例えば「山」であれば、天地が拓かれたことにより「ヤマ」は生まれてきましたが、それは便宜上「山」という名前が付けられているだけであって、「山」という名前が、「ヤマ」の本質を表しているわけではない、ということなのでしょうか。
本質を見よう
『老子』第一章は、今少し続いていますが割愛させていただきます。
おそらく『老子』の教えとはかなり外れた説明になると思うのですが、私たちの身の回りにあるものには、全て名が付けられています。しかしそれらは、便宜上付けられた名前であって、本質を表しているわけではない、ということは理解できます。
だからといって、それがどうした、ということになります。
しかし私たちは、例えば、これは「ダイヤモンド」だといわれれば、値打は分からなくとも高価なものだと考えてしまいます。つまり、本質が分かっていないのに名前に判断が左右されてしまうことはよくあります。
それは、品物ばかりでなく、人物にしても同様です。学歴という名前、資産という名前、職業という名前等々、私たちは、いろいろな名前によって本質を見失っていることがよくあります。
もっとも、その本質というのが何かといえば、これがまた難しくなってしまうのでしょうが、『老子』先生に言わせれば、「『道』を体得していれば自ずから見えてくる」とでも仰るのでしょうねぇ。
(第一章より)
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