「遠交近攻(エンコウキンコウ)」という言葉があります。
広辞苑によりますと、「中国、戦国時代に魏の范雎(ハンショ)の唱えた外交政策。遠い国と親しく交際を結んでおいて、近い国々を攻め取る策。秦はこれを採用して他の6国を滅ぼした。」と説明されています。
日常生活で、この言葉を使う機会はあまりないと思うのですが、比較的よく知られている言葉です。しかし、この言葉を現代人が広く知るようになったのは、それほど古いことではありません。
この言葉は、1941 年に発見された「兵法三十六計」にある言葉だそうで、かの有名な孫子の兵法とは別です。兵法書としては、古くから伝えられている「孫子」や「呉氏」などの方が評価が高いようです。
「敵の敵は味方」というのも、発想としては似ているような気がします。それに、現在の国際関係などには、これに該当しそうな状況が幾つが実在しているように思われます。
「敵の敵は味方」という言葉は時々耳にしますので、実際にそういう状況が見られるからなのでしょう。
それでは、この関係を裏返した、「味方の味方は敵」という言葉はどうなのでしょうか。このような言い方はあまり聞きませんから、通常は、「味方の味方は味方」というのがごく常識的な関係だと思いたいのですが、現実的にはそうそう甘くはない、という状況も少なくありません。むしろ、「味方の味方は味方」という関係が崩れた場合のダメージは大きくなります。さらに言えば、「味方と思っているが本当に味方?」という関係もたくさん存在しているようです。
東西冷戦時代と呼ばれた時代が終ったことで、世界の秩序は大きく変化し、多くは、比較的平穏な時代を迎えたと考えられていたように思われます。しかし、局地的な紛争は常に発生しており、砲火を交えない争いは絶えることがありません。
そして、もしかすると、ロシアによるウクライナ侵攻は、そうした微妙なバランスを打ち砕く切っ掛けだった可能性を感じます。そしてさらに、米露による停戦交渉が実現し、終結までに至った場合の条件によっては、世界の秩序が大国同士によって決められていく危険な道筋の入り口になる可能性さえ感じてしまいます。
世界の歴史は戦争の歴史だと言われることがよくあります。まさにその通りだとしても、この80年、軍事的侵略を経験していない私たちは、戦争の歴史を過去のものと錯覚している面があるように思えてなりません。
大国による侵略を、その国より遙かに弱小な国が、一国で防ぎきることは不可能です。
それどころか、国内の騒乱さえ和解できない国が数多くありません。
第二次世界大戦後、軍事大国同士が本格的に戦う場面は避けられてきましたが、その裏では、「遠交近攻」や「敵の敵は味方」といった戦略が繰り広げられ、最近では、「味方の味方は味方?」とか、「誰が味方?」といった複雑な国際情勢が表面化してきています。
幸い、わが国は、いくつかの島嶼が占領をされ、あるいは占領される危機にありますが、まずまず平和を保ってきました。
それは、世界全体の秩序が、大きく崩れなかったからこそです。しかし、よく見てみれば、その安定は、巨大な国や勢力の微妙なバランスが辛くも保たれていたからかもしれません。その微妙なバランスとは、「三すくみもどき」とでも表現したいような、互いに相手の隙を狙っているようなバランスだとすれば、やがては大崩れする可能性を否定することは出来ません。
さて、こうした前提が正しいとすれば、私たちはどのような国を目指すべきなのでしょうか。軍事大国は無理であっても、ハリネズミのような鋭い針を備えるのか、話せば分かると無手勝流の平和外交を進めるのか、おそらく、中途半端にその中間を進むのでしょうが、これも又々、そのバランスが難しいのですよねぇ。
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