雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

禍と福は背中合わせ ・ ちょっぴり『老子』 ( 64 )

2015-06-19 10:57:20 | ちょっぴり『老子』
          ちょっぴり『老子』 ( 64 ) 

               『 禍と福は背中合わせ 』

禍には福が、福には禍が寄り添っている 

「 其政悶悶、其民醇醇。其政察察、其民缺缺。禍兮福之所倚、福兮禍之所伏。孰知其極。其無正。正復爲奇、善復爲訞。人之迷、其日固久。是以聖人、方而不割、廉而不害、直而不肆、光而不曜。 」     
『老子』第五十八章の全文です。
読みは、「 その政悶悶たれば、その民は醇醇たり。その政察察たれば、その民は缺缺たり。禍(ワザワイ)は福の倚(ヨ)る所、福は禍の伏す所なり。孰(タレ)かその極を知らんや。それ正無し。正また奇となり、善また訞(ヨウ・怪しいもの)となる。人の迷えること、その日固(マコト)に久し。是を以って聖人は、方して割(カッ)せず、廉(レン・かど)して害せず、直(チョク)して肆(シ・伸ばす)せず、光あれども曜(カガヤ)かさず。 」
文意は、「 政治が悶悶(モンモン・暗くてぼんやりとしているさま)としていて為政者は何も為していないように見えるが、その時には民は醇醇(ジュンジュン・素朴で人情に厚いさま)として満ち足りている。政治が察察(サツサツ・細かい所まで察知しているさま)としていて為政者が細やかに民情を考えて施策を行っているように見えるときには、その時の民は缺缺(ケツケツ・破れ砕けるさま)として貧しく純朴さは破れ砕けている。世の中とは、禍だと思っている所に福が寄り添い、福だと思っている所に禍が伏せているものだ。その(何が禍で何が福か)究極の所は誰も知らない。つまり、絶対正しいというものなど無いのである。正常と思えるものが奇怪なものとなり、善と思えるものが怪しいものになったりする。人々がこのような迷いの中に踏み出してから、まことに久しい時が経つ。だから聖人は、その両方を包容して、これを割(サ)いて片方だけに固執するようなことをせず、かどは立てるが他を害するようなことはせず、真直ぐにはするが引き伸ばすようなことはせず、光は放つが輝かせるようなことはしないのである。 」

この章も為政者を念頭に置いた教えですが、一般の人への教えとしても通じる内容です。
悶悶・醇醇・察察・缺缺と、なかなか面白い表現になっています。
文章全体としては、『老子』の根源的な思想が展開されているといえます。

輝きを見せない

聖人、つまり『道』を修得したような人物は、「禍と福」あるいは「善と悪」「正と邪」といったものを包容して受け入れるということを教えていますが、私たちがよく聞く言葉としては、「清濁併せ呑む」というのがあります。
ほぼ同じ意味だと思うのですが、私たちが日常この言葉を使うときは、人物の大きさを表す場合もありますが、どちらかといえば、豪快さを表現することが多いように思われます。

『老子』も、この章では、聖人、つまり大人物のあり方を述べているのでしょうが、最後の部分こそが『老子』が強調したいことではないでしょうか。すなわち「光而不曜」という部分です。
『老子』の至る所で出てくる教えですが、「自らを磨き上げて、しかもその輝きを見せない」ということは、現実にはとても難しいことのように思われます。それに、本当にそのように実践している人がいた場合、凡人には、その人の値打ちを図ることができませんしねぇ。
せめて私としましては、「俺が、俺が」としゃしゃり出ることだけは慎もうと思うのですが、さて、それもなかなか難しいんですよ。

     ★   ★   ★

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 節約が安泰の礎 ・ ちょっ... | トップ | 正道を行く ・ ちょっぴり... »

コメントを投稿

ちょっぴり『老子』」カテゴリの最新記事