雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

中宮彰子再び懐妊 ・ 望月の宴 ( 122 )

2024-10-10 08:01:11 | 望月の宴 ④

     『 中宮彰子再び懐妊 ・ 望月の宴 ( 122 ) 』


こうしているうちに年が改まり、寛弘六年( 1009 )になった。
世間の様子に変わりはない。
若宮(敦成)はたいそう美しくお育ちになられるのを、帝(一条天皇)と中宮(彰子)の御なかに連れて遊ばせ奉っていらっしゃると、帝が仰せになられるには、「やはり、考えてみると、昔は宮中には幼い子を住まわせることはなく、宮たちがこのように可愛らしいのに、五つか七つになって初めて対面するとて大騒ぎしてきたが、今日では、あらゆる事の中で大変堪え難い事であろう。このように、見ても見ても飽かないものを、思いやりながらも遠く離れていることは何と辛いことだ。あの一の宮(定子所生の敦康親王)にずいぶん久しく会っていなかったが、その有様を人づてに聞いて、我ながら常軌を逸しているほど会いたくて仕方がなかった」などと、お気持ちを打ち明けられていらっしゃるのも、まことにご立派であられる。

こうして、正月も過ぎていった。
中宮は、お産のあと、そのまま幾月かあの障りがおありでなかったが、十二月の二十日の頃にほんのしるしばかり御覧になったままで、今年になってもこのように今までそのままなので、やはりお産のあとの名残だろうと思っていらっしゃったが、去年の今頃と同じご気分になられたので、どうしたことかと思われているうちに、おそばに仕えている女房たちも、「またご懐妊なさったに違いない」と、ひそひそお噂申し上げるので、別の女房たちは、「幾らも経たないのに、いつの間にそのような事がおありになろうか」と言う者もあり、またある者は、「そうしたものですよ。また続いて、同じように皇子がお生まれになることは、ええ、そうなりますとも、それはそれは、どんなにすばらしいことでしょう」などと申したり思ったりしている。
殿(道長)も上(倫子)もみなお聞きになって、朗報に気色立っていらっしゃる。

そうこう言い合っているうちに三月にもなると、あきらかにご懐妊のご様子におなりである。殿の御有様は言い表せないほどのお喜びようである。
そのうちにこの事は、自然と世間の噂となる。
長年お仕えしている女御たちは、この噂を聞いて何とも面目ないことだと自覚なさっているに違いない。右大臣(女御元子の父顕光。)や内大臣(女御義子の父公季。)は、「このような事があってよいのか。われらも同じ血筋(藤原北家で、師輔の公季は子、顕光と道長は孫。)ではないか。このような思いのほかのことが起こるのは恥ずべき宿世ゆえなのだ」と思わずにはいられないだろう。
三月の末には、里邸に退出なさろうとなさったが、帝がとんでもないとお止めになられたので、しばらくは宮中で過ごされることになった。

こうしているうちに、殿の三位殿(道長の嫡男頼通。正しくは従二位に叙されていた。)が左衛門督(カミ・長官)におなりになった。
中宮(彰子)の安産の御祈祷は、やはり里邸で行うとて御支度を急がれて、四月十日過ぎに宮中を退出なさった。
帝(一条天皇)におかれてはたいそう心配なさって、この度は若宮(敦成親王)への御恋しさも加わって、お気が休まらず心を乱されていらっしゃる。

さて、中宮は京極殿(キョウゴクドノ・道長の土御門邸の別称。)にご退出なさったので、尚侍の殿(ナイシノカミノトノ・彰子の妹の妍子。この時十六歳。)は、若宮を今か今かと待ちかねていらっしゃって、早速にご対面なさる。その後、御乳母たちはただお乳を差し上げる間だけで、ひたすら尚侍の殿がお抱きになり可愛がられているので、御乳母たちもたいそう嬉しいことと思っていられる。
中宮の安産御祈祷は、前と同様である。すべてにわたってし残されるということはなかった。何一つ不足な点がなかった前回の御有様であったので、前に奉仕した僧たちも、前回と同じように御祈祷するように定められたので、そのままに違うことなく数々のご奉仕申し上げる。
この度は、皇子皇女のいずれであっても、前回ほどの強い希望はないようだが、やはり皇子お二人がお並びになる心強さは格別なので、同じく皇子の御誕生を願われるのであろう。

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