因果応報 ・ 今昔物語 ( 3 - 20 )
今は昔、
天竺において、仏(釈迦)は頭陀(ヅダ・乞食修行)をなさろうとして、ある人の家に入られた。その家の主の名は鸚鵡(オウム・人の名前)という。
仏がご覧になっていると、鸚鵡が出てきて、鉢に米や魚などを入れて混ぜ合わせて犬に食わせた。仏は、その犬をご覧になって、犬に語りかけた。「お前は、前世において梵天(ここでは、天国の一つといった意味か。)に生まれ変わることを願っていたものだ。どうしてこのような姿でいるのだ」と、恥ずかしめられた。
犬はそれを聞いて、腹を立て、この食べ物を食べずに、横に座り込んで、不機嫌そうにしている。
仏は、霊鷲山(リョウジュセン・釈迦の説法所として名高い。)にお帰りになった。
その後で鸚鵡がやって来て、あのように犬が狗曇(クドン・釈迦の実名)にはずかしめられた為、あの鉢の物を食べずに腹を立てているのを見て、大いに瞋恚(シンイ・激しい怒り。仏教では、貪欲、愚痴と共に善行を妨げる三毒の一つとされている。)を起こして仏を口汚く罵った。
仏は霊鷲山において、御弟子たちに告げられた。「あの鸚鵡は、あのように瞋恚を起こして私を罵った罪によって、地獄に堕ちて長く苦しみを受けることになる。悲しいことだ」と。
ちょうどその時、鸚鵡は瞋恚を抑えきることが出来ず、仏の御許にやって来て、直接文句を言った。「狗曇、どういうわけで、わが家の犬をはずかしめたのだ。鉢の中の物を食べなくなってしまったぞ」と。
仏は鸚鵡に仰せられた。「お前は知らないのであろう。あの犬は、お前の父兜調(トチョウ)が生まれ変わったのだということを。あの兜調は、火天(カテン・古代インドの自然神の一人。バラモン教の火神アグニで、後に仏教に取り込まれて仏法の守護神ともなる。)を祭って梵天を願っていたが、犬の身となって、お前に養われているのだ」と。
鸚鵡はそれを聞いて、ますます瞋恚を増して、「仏よ、何によって、わが父兜調が犬になったと知ることが出来たのだ。また、何を証拠にそのような事が分かるのだ」と言った。
仏は仰せられた。「鸚鵡よ、お前は家に帰って、錦の座を設けて、金の鉢に極上の食べ物を入れて、犬に向かって言うがよい。『もし、まことにわが父兜調であられるなら、この座に上ってこの鉢の食べ物をお食べ下さい。そして、大切に保管されていた財宝の在り処をお教えください』と言い聞かせて、犬のすることを見守るがよい」と。
鸚鵡はこれを聞いて、なお瞋恚を静めていなかったが、家に帰って、仏の教えのように、錦の座を設け金の鉢に極上の食べ物を入れて、犬に向かって言った。「犬よ、お前がまことにわが父兜調であられるなら、この座に上りこの鉢の食べ物を食べ、仕舞われている財宝の在り処をお教えください」と。
すると犬は、すぐにその座に上り、鉢の物を食べた。そして、食べ終わるとその床の傍の土を鼻で穿ち、足で掘った。鸚鵡は、その様子を見て不思議に思い、使用人にその場所を深く掘らせてみると、たくさんの財宝が埋められていた。
鸚鵡はそれを見て、「この犬は、まことに父兜調の生まれ変わりであったのだなあ」と思って、深く感動して、霊鷲山に参って、仏にお会いして申し上げた。「仏は、決して嘘は仰らなかった。生々世々(ショウジョウセゼ・生まれ変わり死に変わる世々)未来永劫に、仏を疑うようなことは致しません」と誓った。そして、仏にお尋ねした。「どうして、功徳を積んだ者が地獄に堕ち、罪障(ザイショウ・罪深い所業)を作った者が浄土に生まれるのでしょうか。どうして、富める者がおり、貧しい者があるのでしょうか。どうして、世を思うままに生きて子孫が栄える者がおり、家貧しくして子孫を得ることが出来ないものがあるのでしょうか。どうして、百年を平穏無事に生きる者がおり、若くして死する者があるのでしょうか。どうして、容姿端麗な者がおり、容姿醜悪な者があるのでしょうか。どうして、人に殺害されたり人にさげすまれ馬鹿にされる者があるのでしょうか」と。
仏は、これに対して一つ一つお答えになった。「鸚鵡よ、よく聴くがよい。功徳を積んでいながら地獄に堕ちる者は、死ぬ時に臨んで、悪縁(悪い果報をもたらすもとになる外部事情。)に出あって瞋恚を起こした者である。悪業を作りながら浄土に生まれる者は、死する時に善知識(善い友。仏の教えを説いて善導してくれる人。)に出あって仏(この仏は、釈迦という意味ではないようだ。)に願いを立てたものである。今の世で富める者は、前世で施しの心が有った者である。今の世で貧しい者は、前世で施しの心がなかった者である。子孫が繁栄している者は、前世において他人に対して我が子と同様に思いやった者である。子孫や身内に恵まれない者は、前世において他人に対して慈しみの心がなかった者である。長命なる者は、前世において、放生(ホウジョウ・捕らえた鳥獣虫魚などを解き放してやること。殺生の逆。)を行った者である。短命なる者は、前世において、殺生を好んで行った者である。端正なる者は、前世において親に心労を掛けず笑顔で接した者である。醜悪なる者は、前世において、親に瞋恚を起こさせた者である。人に敬われる者は、前世において、人を尊敬した者である。人に卑しめられる者は、前世において、人を軽んじた者である」と、説き教えられた。
鸚鵡はこれを聞いて、仏(釈迦)を尊ぶこと限りなかった。それによって、地獄に堕ちるべき罪は消えて、永く仏道に帰依したのである、
となむ語り伝へたるとや。
☆ ☆ ☆
今は昔、
天竺において、仏(釈迦)は頭陀(ヅダ・乞食修行)をなさろうとして、ある人の家に入られた。その家の主の名は鸚鵡(オウム・人の名前)という。
仏がご覧になっていると、鸚鵡が出てきて、鉢に米や魚などを入れて混ぜ合わせて犬に食わせた。仏は、その犬をご覧になって、犬に語りかけた。「お前は、前世において梵天(ここでは、天国の一つといった意味か。)に生まれ変わることを願っていたものだ。どうしてこのような姿でいるのだ」と、恥ずかしめられた。
犬はそれを聞いて、腹を立て、この食べ物を食べずに、横に座り込んで、不機嫌そうにしている。
仏は、霊鷲山(リョウジュセン・釈迦の説法所として名高い。)にお帰りになった。
その後で鸚鵡がやって来て、あのように犬が狗曇(クドン・釈迦の実名)にはずかしめられた為、あの鉢の物を食べずに腹を立てているのを見て、大いに瞋恚(シンイ・激しい怒り。仏教では、貪欲、愚痴と共に善行を妨げる三毒の一つとされている。)を起こして仏を口汚く罵った。
仏は霊鷲山において、御弟子たちに告げられた。「あの鸚鵡は、あのように瞋恚を起こして私を罵った罪によって、地獄に堕ちて長く苦しみを受けることになる。悲しいことだ」と。
ちょうどその時、鸚鵡は瞋恚を抑えきることが出来ず、仏の御許にやって来て、直接文句を言った。「狗曇、どういうわけで、わが家の犬をはずかしめたのだ。鉢の中の物を食べなくなってしまったぞ」と。
仏は鸚鵡に仰せられた。「お前は知らないのであろう。あの犬は、お前の父兜調(トチョウ)が生まれ変わったのだということを。あの兜調は、火天(カテン・古代インドの自然神の一人。バラモン教の火神アグニで、後に仏教に取り込まれて仏法の守護神ともなる。)を祭って梵天を願っていたが、犬の身となって、お前に養われているのだ」と。
鸚鵡はそれを聞いて、ますます瞋恚を増して、「仏よ、何によって、わが父兜調が犬になったと知ることが出来たのだ。また、何を証拠にそのような事が分かるのだ」と言った。
仏は仰せられた。「鸚鵡よ、お前は家に帰って、錦の座を設けて、金の鉢に極上の食べ物を入れて、犬に向かって言うがよい。『もし、まことにわが父兜調であられるなら、この座に上ってこの鉢の食べ物をお食べ下さい。そして、大切に保管されていた財宝の在り処をお教えください』と言い聞かせて、犬のすることを見守るがよい」と。
鸚鵡はこれを聞いて、なお瞋恚を静めていなかったが、家に帰って、仏の教えのように、錦の座を設け金の鉢に極上の食べ物を入れて、犬に向かって言った。「犬よ、お前がまことにわが父兜調であられるなら、この座に上りこの鉢の食べ物を食べ、仕舞われている財宝の在り処をお教えください」と。
すると犬は、すぐにその座に上り、鉢の物を食べた。そして、食べ終わるとその床の傍の土を鼻で穿ち、足で掘った。鸚鵡は、その様子を見て不思議に思い、使用人にその場所を深く掘らせてみると、たくさんの財宝が埋められていた。
鸚鵡はそれを見て、「この犬は、まことに父兜調の生まれ変わりであったのだなあ」と思って、深く感動して、霊鷲山に参って、仏にお会いして申し上げた。「仏は、決して嘘は仰らなかった。生々世々(ショウジョウセゼ・生まれ変わり死に変わる世々)未来永劫に、仏を疑うようなことは致しません」と誓った。そして、仏にお尋ねした。「どうして、功徳を積んだ者が地獄に堕ち、罪障(ザイショウ・罪深い所業)を作った者が浄土に生まれるのでしょうか。どうして、富める者がおり、貧しい者があるのでしょうか。どうして、世を思うままに生きて子孫が栄える者がおり、家貧しくして子孫を得ることが出来ないものがあるのでしょうか。どうして、百年を平穏無事に生きる者がおり、若くして死する者があるのでしょうか。どうして、容姿端麗な者がおり、容姿醜悪な者があるのでしょうか。どうして、人に殺害されたり人にさげすまれ馬鹿にされる者があるのでしょうか」と。
仏は、これに対して一つ一つお答えになった。「鸚鵡よ、よく聴くがよい。功徳を積んでいながら地獄に堕ちる者は、死ぬ時に臨んで、悪縁(悪い果報をもたらすもとになる外部事情。)に出あって瞋恚を起こした者である。悪業を作りながら浄土に生まれる者は、死する時に善知識(善い友。仏の教えを説いて善導してくれる人。)に出あって仏(この仏は、釈迦という意味ではないようだ。)に願いを立てたものである。今の世で富める者は、前世で施しの心が有った者である。今の世で貧しい者は、前世で施しの心がなかった者である。子孫が繁栄している者は、前世において他人に対して我が子と同様に思いやった者である。子孫や身内に恵まれない者は、前世において他人に対して慈しみの心がなかった者である。長命なる者は、前世において、放生(ホウジョウ・捕らえた鳥獣虫魚などを解き放してやること。殺生の逆。)を行った者である。短命なる者は、前世において、殺生を好んで行った者である。端正なる者は、前世において親に心労を掛けず笑顔で接した者である。醜悪なる者は、前世において、親に瞋恚を起こさせた者である。人に敬われる者は、前世において、人を尊敬した者である。人に卑しめられる者は、前世において、人を軽んじた者である」と、説き教えられた。
鸚鵡はこれを聞いて、仏(釈迦)を尊ぶこと限りなかった。それによって、地獄に堕ちるべき罪は消えて、永く仏道に帰依したのである、
となむ語り伝へたるとや。
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