きものの華・友禅染⑧ 小袖雛形本(5)
その輝くばかりの才能は、多くの人々から賞賛され、京の人気絵師として元禄14年(1701年)法橋という高い地位にまで上り詰めた尾形光琳。しかし、西鶴描く「好色一代男」の世之介よろしく、親から譲り受けた莫大な財産を無頼な暮らしで、やがて使い尽くし、借金に追われるように京から、江戸詰となった銀座役人・中村内蔵助を頼りに江戸に下りました。この時期に制作したのが、有名な豪商・冬木家の妻女のために誂えた冬木小袖といわれる「白綾地秋草模様小袖(東京国立博物館蔵)」です。光琳が宝永年間(1701~1710年)に、実際に筆を執って手描きしたといわれる唯一の確実な作品です、しかしこの小袖は当時流行していた友禅模様の小袖とは構図や色彩、模様様式など大きくかけ離れたもので、雛形本に多く登場する光琳模様とはかけ離れた、墨濃淡と色と金を使って「きれいさび」と表現される優美な小袖です。有名な国宝「紅白梅図屏風(MOA美術館蔵)」も、この時期に津軽家のために光琳が描いたものです。
光琳の逸話で有名なのが「東山の衣装比べ」。行われた時期は、おそらく正徳三年(1713年)と推定されますが、中村内蔵助の妻女の衣装を制作、演出したのが光琳です。その模様は『翁草』に以下のように記されています。
皆皆あはやと彼内室の出立を詠れば、襲う帯付共に黒羽二重の両面に、下には雲の如くなる白無垢を、幾重も重ね着し、するりと乗物を出で、静に座に着けば、人々案の外にぞ有りける。扨其の外の内室我もわれもと間もなく納戸へ立て、前に増す結構成る衣装を着替る事度々也。内蔵介妻女も、其の度々に納戸へ入て、着替る所、幾度にても同じ様なる黒羽二重白無垢なり。一と通りに見る時は、などやらん座中を非に見たる様なれども、元来羽二重と云う物、和國の絹の最上にて、貴人高位の御召此の上なし。去れば晴れの會故に、羽二重の絶品を以て、衣装を多く用意せし事、蜀紅の錦に増れる能物数奇なり。且つ外々の侍女の出立を見るに、随分麗敷なれども、皆侍女相応の衣服なり。内蔵介方の侍女の衣装は、外の妻室の出立に倍して、結構なり。是光琳が物数奇にて、妻室は幾篇着替えるとも、同色の羽二重然るべし。其の代わりに侍女に随分結構なる内室の衣装を着せられよと、指圖せしとなり、去ればにや、始の程はさも無く見にしが、倩(つらつら)見る程、中村の出立抜群にて、一座蹴押され、自らふし目になりぬ。其の頃世上に此沙汰有りて、流石光琳が物数奇なりと美談せり。 (「翁草」巻十享保以来見聞雑記 内蔵介の世盛り から)
他の豪商の妻女が豪華絢爛な衣裳を着る中、内蔵助の妻は最上級の羽二重の黒の打ち掛けに白無垢という出で立ち。かわりに侍女たちには豪商の妻女にも劣らない豪華絢爛な衣装で、いっそう内蔵助の妻女を引き立てる演出をしたと「翁草」には書かれています。演出家としての光琳の面目躍如で、「東山の衣装競べ」は当時の大ニュースとしてあっという間に世間に広がり、現代の女性が有名ブランドを欲しがるように光琳描く小袖を着たい、という町方の女性はかなり多かったものと思われます。また実際呉服商にはそのような注文が殺到したものと思われます。
写真は通称「冬木小袖」。「白綾地秋草模様小袖(東京国立博物館蔵)」