1/木綿の生産量の拡大
綿花はもともと日本には存在しない植物で、初めて日本に木綿が伝えられたのは799年(延暦18年)、三河の国に漂着した東南アジア人が木綿の種子を伝えたといわれ、その事が朝廷に伝わり、一時九州まで広く綿花の栽培がおこなわれましたが、気候が合わずに廃れてしまったといわれています。しかし木綿は貴族や僧侶に珍重され、貴重品扱いを受け、朝鮮、中国から輸入されていましたが、戦国時代に入ると南蛮から種子が輸入され、国内でも綿栽培が開始され、江戸初期にはわずかな生産レベルでしたが、江戸中~後期には商品として生産、晒しや染織の加工、流通システムが整い、白木綿(晒木綿)、縞木綿、絣木綿、綿縮、和更紗…など多様な木綿が次々と誕生しました。
インドやアメリカなどの木綿が1インチ(2.54cm)以上あるのに対し、日本の木綿は1インチ以下の短繊維で、又その直径も27ミクロンほど太く、かつ粗硬で、手紡ぎすると糸が太糸になるため、太物ともいわれます。また反物を巻いていると木綿の反物は絹物に比べて巻きが太いから太物という説もあります。
2/浮世風呂の普及
お風呂の歴史は、6世紀に仏教とともに中国から伝わってきたといわれます。仏教では「お風呂に入ることは七病を除き、七福が得られる」と説かれていたことから、お風呂に入る事は健康に良いと理解されていました。以来、寺院では「体を洗い浄める」という大切な業の一つとして浴堂が備えられるようになり、浴堂のない庶民にも入浴を施したことからお風呂に入るという習慣が始まったとされています。
江戸の銭湯は天正19年(1591)、伊勢与市というものが銭湯風呂を建てたのが最初で、慶長年間の終わり(17世紀初頭)には今風なたっぷりの湯に首までつかる「すえ風呂」ができ、一般庶民にも広まり江戸の「町ごとに風呂あり」といわれるほどに広まりました。