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富岡製糸場②

2008-02-24 19:02:08 | 富岡製糸場

富岡製糸場② 明治5年

幕末から明治にかけて日本の最大の輸出品は生糸と蚕種(さんしゅ)で、全体の70~80%を占めていました。急激に、しかも大量に生糸と蚕種が輸出された背景には、当時ヨーロッパで蚕の伝染病が流行し、生糸と蚕種が大幅に不足した事。さらに最大の生糸輸出国、中国がアヘン戦争や続く内乱の影響で生産が激減したことがあり、日本の良質な生糸、蚕種がヨーロッパ列強から引く手数多で、爆発的に輸出量が増えました。しかし、儲かるとわかると中には粗製乱造の粗悪なもの、蚕種が菜種の種と似ているので、偽って菜種を貼り付けたものを輸出するなど悪徳業者も多く、「日本人と不正直な取引者は同義語」と言われるほど国際的に信用を大きく損なってきたため、政府も緊急に対応をとらざるを得なくなりました。

また粗悪品を排除するだけでなく、ヨーロッパからの拡大する蚕種、生糸の需要に応え、国の基幹産業として良質な生糸を大量生産するために抜本的な対策が必要となり、ついに明治3年に「官営製糸場設立の議」を決定。主旨は①西洋式の製糸機器を導入し、②外国人技師を招き、③全国各地から工女を募り、技術指導を受けさせ、④さらに地元に戻して近代的な製糸業を発展させるリーダーにし、⑤高品質な生糸を全国で生産するという計画でした。明治3年「官営製糸場設立の議」の決定に従い、繭がたくさん取れ、良質な水、燃料の石炭が取れ、地元の協力が得られ、横浜港にも近い場所ということでフランス人技師ブリューナが各地を候補にし、最終的に群馬県富岡を選び、2年かけて明治5年、日本初の官営工場・富岡製糸場を完成させました。いまでも製糸場の正面、東繭倉庫の通用門の上には、工場が竣工し、操業を開始した「明治5年」のキーストーンが掲げられています。

 

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