『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』
ジョー・オダネル写真、ジェニファー・オルドリッチ聞き書き、平岡豊子訳、小学館、1995年
原爆投下後の長崎を記録した写真の中で、とりわけ多くの人に知られている「焼き場に立つ少年」の写真。亡くなった人を荼毘にふしている焼き場を前にして、すでに息絶えてしまった弟を背にしながら、唇を噛みしめ、直立不動の姿勢で立っている少年の姿を捉えたその一枚は、原爆と戦争が何をもたらすのかを、見る者に強く訴えかける力があります。
一昨日の夜(8月8日土曜)のNHK・Eテレ『ETV特集』の枠で放送されたドキュメンタリー「〝焼き場に立つ少年〟をさがして」(NHK長崎放送局制作)は、撮影された場所や日時が不明のままだった「焼き場に立つ少年」の写真を詳細に分析しながら、少年が辿ったであろう戦後の人生に迫ろうとする秀作でした。この番組を観たあと、かなり久しぶりに取り出してきた一冊が『トランクの中の日本』です。
本書は、敗戦後の1945年9月に占領軍の従軍カメラマンとして日本に上陸したジョー・オダネル氏が、広島や長崎の惨状をはじめ、戦後の焼け跡で生きる人びとの姿を私用のカメラで捉えた貴重な記録写真57点を収め、聞き書きによる撮影当時の回想を付したものです。「戦後50年」にあたる1995年に刊行されたとき、すぐに購入して読んでいたのですが、このほど25年ぶりに再読して、あらためて深い感銘を受けました。
『ETV特集』で取り上げられた「焼き場に立つ少年」の写真を撮影した人物こそ、ほかならぬオダネル氏でした。本書にももちろん、「焼き場に立つ少年」が収められています。
「焼き場に立つ少年」の写真(『トランクの中の日本』より引用)
気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけ、一度も焼かれる弟に目を落とすことはなかった、という少年を前にして、オダネル氏は「そばに行ってなぐさめてやりたい」と思いながらそれもできず、「なす術もなく、立ちつくしていた」といいます。
「あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?」と、オダネル氏は少年のその後を気遣います。昨夜の『ETV特集』が示唆するように(この写真が撮影されたと思われる地域には、原爆孤児の施設があったといいます)、弟をはじめとする家族を失い、一人で敗戦後の混乱を生きなければならなかったであろう少年の人生は、おそらく苦難に満ちたものであったことでしょう。そのことを思うと、あらためて痛ましさを覚えました。
長崎で撮られた子どもの写真でもう一枚、強く印象に残るものがあります。焼け跡に立つ着飾った少女の写真です。
七五三という特別な日のために、きれいな着物を着せられて神社に向かうところだったというその少女は、耳が不自由で何も聞こえなくなっていたといいます。そばにいた母親に理由を聞くと、アメリカ軍の爆撃機による爆音によるものだというのです。本来なら母親が駆け寄って、子どもたちの耳に木綿や柔らかい布を詰め込むことになっていたのですが、娘のもとに行くのが遅くなってしまったことがあったために「完全にそして永遠に聞こえなくなった」のだ・・・と。きれいに着飾った姿の背後にあった悲しいエピソードが、気持ちに深く突き刺さってきました。
長崎で撮影された写真には他にも、気持ちに突き刺さるものがいくつかありました。瓦礫に覆い尽くされた爆心地の情景。焼け跡に積み重ねられ、酒瓶が供えられた何人かの頭蓋骨。崩壊した浦上天主堂の前で、爆心地を見下ろすように置かれていた、体を失った彫像の頭部。背中一面が焼けただれた少年の姿・・・。
長崎や広島の惨状を伝える写真だけでなく、本書には敗戦後の日本で生きる人びとと、オダネル氏ら米兵たちとの交流の様子を捉えた写真も収められています。子どもたちにチョコレートを配る海兵隊員。刈り取った稲の束を干し場にかけている農民の姿。宿泊した旅館の仲居さんと肩を組んで撮られた記念写真。道路清掃の仕事や子守りを担う子どもたち・・・。
その中で印象的だったのは、佐世保の八幡地区で見かけたという木製の十字架の写真です。「米機搭乗員の墓」と記されたそれは、地元の農夫が墜落したアメリカの飛行機の飛行士を手厚く葬ったものでした。飛行士を葬った夫妻が、オダネル氏に語ったということばが記されています。
「私たちはずっと戦争は嫌でした。どうしてもいいこととは思えませんもの。墜落した飛行士も気の毒な死者のひとりですよ」
「敵」と「味方」に分かれるようなことがあったとしても、そして生きる国は違ってはいても、同じ人間としての感情に違いはないのだ・・・ということが伝わってくるようなこの逸話には、深い感動を覚えずにはいられませんでした。
また、礼拝が行われている教会の下足箱の前に、アメリカ人のブーツと日本人の草履が隣り合って整然と並べられている光景を撮った写真には、このような回想が記されています。
「神の家に並んでいるこの靴のようにすべての人々が平和に暮らしていけばいいではないか。私は救われたような気持ちになった」
海兵隊に志願したときには「ハワイを奇襲した日本に敵愾心を燃やしていました」といい、日本に上陸したときにも任務としての意識が先行していたともいうオダネル氏。しかし、こうして日本人との交流を積み重ねることで、気持ちが変化していったんだなあ・・・ということが、本書に収められた写真と回想から浮かび上がってくるように思えました。そのことにわたしもまた、救われるような思いがいたします。
本書の中に、一人の老人の姿を捉えた写真があります。長く黒い西洋風のコートに帽子をかぶった、当時の日本人には異色の風貌で、流暢な英語を話したというその老人は、かつてアメリカに住んでいたものの、家族を訪ねて日本に来ているうちに戦争が始まり、戻れなくなってしまったといいます。その老人が語ったことばが書き留められています。
「息子のような君に言っておきたいのだが、今の日本のありさまをしっかりと見ておくのです。国にもどったら爆弾がどんな惨状を引き起こしたか、アメリカの人々に語りつがなくてはいけません。写真も見せなさい。あの爆弾で私の家族も友人も死んでしまったのです。あなたや私のように罪のない人々だったのに。私はアメリカを許しますが、忘れてくれと言われてもそれは無理です」
アメリカに帰国したあと、日本で見聞した戦争の忌まわしい記録と記憶を、トランクに封印し続けていたオダネル氏でしたが、やがて老人から言われたことを実行に移すことになります。1990年に自国アメリカを皮切りに、日本各地やヨーロッパで写真展を開催して、自らの体験を語り伝えるようになりました。
そんな中、1995年の夏に開催されるはずだった、スミソニアン博物館での写真展は、在郷軍人会からの圧力を受けてキャンセルされてしまいます(展示されたのは、広島に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ」の機体のみ)。しかし、オダネル氏はこれをむしろ「出発点」と考えているとして、本書のあとがきでこのように語っています。
「写真を見てくださる方がいるかぎり、本を読んでくださる方がいるかぎり、たとえ私がこの世からいなくなっても、皆様に平和のメッセージを送りつづけていくことでしょう。過去の悲劇を繰り返さないためにも、この本の伝える事実を忘れ去ってはならないのです。平和を守ることができてはじめて未来があるのですから」
こう語ったオダネル氏は2007年、85歳でこの世を去りました(その日は奇しくも、長崎に原爆が投下された8月9日)。ですが、本書に収められた写真の数々は、原爆と戦争が何をもたらすのかを、今もなお雄弁にわれわれに伝えてくれる力を保っているように思います。
幸いなことに、本書は刊行から25年経った現在も刊行が続くロングセラーとなっています。ぜひとも、一人でも多くの人に読まれ続けることを願いたい一冊です。