ことば咀嚼日記

日々読んだ活字を自分の頭でムシャクシャ、時にはゴックン、時には、サクサク咀嚼する日記

横浜 海の見える丘公園で発見

2012-11-11 | 日記
 横浜の港の見える丘公園には3回行きましたが、今回初めて、『あふれる愛に』の著者である土志田和枝さん、裕一郎君、康弘君のブロンズ像があるのを発見しました。
1977年にこの事件が起こり、そして私がこの事件を描いた本を読んだのは、たしか1983年ぐらいですが、こんなひどいことがあってよいものかと、何度も憤りの涙で読み返したものです。

1977年9月27日に厚木基地を飛び立った米軍機が横浜市緑区の住宅街に墜落し、民家が全焼して、26歳のお母さんと二人のお子さん(3歳と1歳)が全身大やけどを負って、子供たちは翌日死亡、母親の和枝さんは、60回にもわたる皮膚移植の手術を受けながらしばらく子供の死を知らされずにリハビリに励んでいましたが、数年後に、精神的なショックも大きく亡くなられました。たしか、闘病生活の間でご主人とも離婚され、またご主人の妹さんも事故で大やけどをされたと記憶しています。和枝さんのお父さんも、娘さんである和枝さんを励ましながら、闘病生活を支えたという記述を覚えています。墜落した米軍機のパイロットは直前にパラシュートで逃げ出し、すぐに自衛隊のヘリで基地に戻され、大やけどを負った被害者は数時間もほっておかれ、また焼け焦げた家にご主人が入ろうとしても、米軍と防衛省による立ち入り禁止のロープで締め出されたたという、まったくもってはらわたが煮えくり返る事件です。
今は簡単な碑文がブロンズ像についていたので、この事件の被害者の方の像だとわかったのですが、2006年までは、一般的な母子像としてしか横浜市は認めなかったそうです。これもひどい話です。(しかし、いまでも土志田さんと、子供さんの名前については書かれていません。)
また3回目でやっと気づいた自分にも恥ずかしい思いです。深く反省してお祈りを捧げました。
像の前には何重もの折り鶴がかけてありました。一緒に行った友人に、事件のことを説明しながら山を降りました。
あれから何が変わったか、何も変わっていない現在の状況に、一人の日本人として何とかしなければ、と思います。本当に日本は独立国家なのでしょうか。