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「日本を思い、イラクを翔けた」より-4

2006年03月31日 | 本の紹介

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 1981年に外務省に入った奥氏は
持ち前のバイタリティで友人を増やした後
1982年夏オックスフォードに2年間留学する

 厳しい勉学とラグビーを両立させオックスフォードの1本目に入り出場
果たす。ケンブリッジとの対抗戦出場の栄光”ブルー”を目指した、それは
叶えられなかった。

 奥氏の留学時のポリシーは、次の通りである

 「日本人とつるむな。外国人の中に飛び込んでいけ。ポジティブにやれ」

 奥氏は現場主義のこだわった説得力が違うと言っていた。そして
 1990年嵐の吹き荒れる中東イランに赴任する。
 
 1991年イラクの圧制から逃げ出したクルド人難民がトルコ・イランの国境
地帯に集り200万人を超えた。
 日本の医療チーム13人が到着するすぐに800kmをコンボイで翔けた
現場に医療チームと一緒に入り込むと、赤ん坊が次々死んで逝った。

赤ん坊が死ぬ理由がオムツが濡れて体温が下がるからと判るとテヘランの
日本人部会の婦人部に長距離電話を入れ、言った
 「テヘラン中の紙おむつを全部買い集めてください」

 奥氏は飛んで帰り二日後には「トラック一杯の紙おむつ(約5万人分)」
到着し、そしてその後は赤ん坊の死亡率は激減した。

 奥氏の常人離れした行動力に加え、普段の交流によって培われた人脈が
この奇跡のような行動を起こせたそうです。

 またこの医療チームに「日本の外交官は民間ボランティアに冷たいのか」
と言われ、奥氏も言葉に詰まった。そして医療チームが帰国する前に
「イランにも良い所がありますから」と1泊2日の慰安旅行を実行させ
最後に
「先生どうもありがとうございました」と人懐っこい笑顔を浮かべた
そうです


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