2月25日、自民、公明両党と日本維新の会が国会内で党首会談を行い、高校授業料の無償化を柱とする2025年度予算案の修正に関する合意文書に署名したとの報道がありました。
今回、合意のポイントとなったのは、維新の会が主張した「高校生のいる世帯に支給される就学支援金」の取り扱い。協議の結果、2025年度から公立私立を問わず「所得制限なし」(現在は910万円未満という所得制限あり)で年11万8800円を助成するほか、26年度からは、私立高生への上乗せ支給に対しても所得制限を撤廃し、支給額も(現行の年最大39万6000円から)私立高授業料の全国平均額にあたる年45万7000円に引き上げることで合意したとされています。
上乗せ支給の対象者は、高校生全体の実に4割に当たる130万人に上る由。金額としては、25年度は1000億円程度、26年度以降は毎年4000億円程度の財源が必要となるということです。
しかし、世論の中に、私立高向けの支援が拡充されることで①「公立高離れ」が加速することや、②「私立高の授業料の便乗値上げ」を懸念する声が上がっているのも事実です。子育て世帯の負担軽減に資するという意見がある一方で、③高所得世帯も支援対象となること、④教育の質の向上につながる担保がないこと…などを疑問視する向きも多いようです。
まあ、昭和の時代に高校生活を過ごした身としては、(公立高校だから問題があるというわけではないのだから)今までどおり「お金持ちの子は私立」「余裕のない家の子は公立」で別にいいじゃん…と思わないでもありません。しかし、(彼ら自身が私立出身だからという訳でもないでしょうが)「我が家は貧乏だから公立は無理」というのでは「子どもが可哀そう」と考える政治家が多いということなのかもしれません。
いずれにしても、親にとって私立でも公立でもかかるお金が変わらないのであれば、敢えて(様々な制約の多い)公立高校を選ぶ必要はありません。私立とのガチンコの競争になるとあれば、(ただでさえ定員割れで)人気のない公立高校の先生たちが不安に思うのも無理はないでしょう。
こうした状況に対し、2月26日のフジテレビ系情報番組「めざまし8」で、元衆議院議員で政治コメンテーターの金子恵美(かねこ・めぐみ)氏が、『高校授業料無償化に議論の余地 16歳で就職家庭は「納税してるのに」』と苦言を呈したとの記事が、2月26日の情報サイト「デイリースポーツ」に上げられていました。
金子氏は、既に(自主財源で)実質無償化を実施している大阪、東京で公立高校の定員割れが相次いでいる状況があることを指摘したうえで、「同じことが地方でも起こった場合の影響は調査しているのか?」などの疑問を訴えた由。そのうえで、社会を支える人材を育成するため、「普通科だけじゃなく、むしろ人出が足りない分野の専門職、手に職を付ける分野を勉強する人に手厚くするのも国がやる一つの政策だとも思う」と述べ、(公立高校では)普通科以外の人材育成にもっと手厚く対応するべきとコメントしたと記事は伝えています。
また、家庭の事情で16歳で働かなければならない家庭がある中で、「16歳から社会に出て働いているお子さんがいるとしたら、その方達は納税するのに、所得が多い家庭ですでに私立に行っている、そういうご家庭に(まで)税金を投じることへの不公平感についてももっと議論すべき」と訴えたということです。
さて、ここからは私個人の意見ですが、確かに今回の措置によって「私高公低」は(おそらく)全国的な動きとなるでしょう。公立高校の関係者からは、「資金力がある私立とは戦えない」との諦めの声も聞かれるようですが、だからと言って「仕方がない」とうなだれてばかりもいられません。
この際、「15の夏を泣かせない」「高等教育を広く遍く」といった公教育の存在価値を「既に過去のもの」としてとらえ、今回の政治判断を「時代に適した高校教育」へ立て直す転換点とするための前向きな議論も必要というものでしょう。
公立には、公立にしかできないような教育内容もまた存在するはず。例えば金子氏も言うように、工業や農業、商業といった専門学科を中心に社会的ニーズが高いカリキュラムを磨き(資格や技術なども含め)現場の即戦力となるような魅力的な進路を示したり、大学進学にこだわらず、表現者やクリエーター、企業してニッチな職人を目指す道などを示すこともその一つでしょう。
実際、ものづくりの現場では高専や工業高校への求人が殺到しており、(全国工業高等学校長協会の調査では)工業高校卒業者に対する求人倍率は過去最高の27.2倍と、高卒全体(3.79倍)の7倍を超えているとの話も聞きます。
高校が「大学予備校」ではないとすれば、公立高校はその理念の中で何ができるのか。公立高校の関係者にはぜひ、私立にはない「公立の良さ」を突き詰め、未来の日本の社会を担う人材の育成に自信をもって邁進してもらいたいと強く感じるところです。