MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2149 旅を豊かなものにするために

2022年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 作家の沢木耕太郎氏と言えば、私の中では20代の時にベストセラーとなった「深夜特急」に尽きると言っても過言ではありません。

 インドのデリーから、イギリスのロンドンまでを現地の乗り合いバスを使って一人旅をする紀行文は、当時のバックパッカーのバイブルともいうべき存在でした。若者の海外旅行へのハードルなどがまだ高かったその時代、ページをめくるたびに「何が起こるのか」と胸を躍らせたのは私だけではないでしょう。

 そんな沢木氏が、4月3日の日本経済新聞(日曜版)の文化欄に「ただそれだけで」と題する(小旅行の際の体験記とも言うべき)コラムを寄せていたので、小欄でも少し紹介しておきたいと思います。

 沢木氏はこの冬、仕事で東北地方のある都市を訪れたということです。久しぶりにささやかな旅をする気分を味わいたくて、予定の前日からその都市に赴くことにしたとこのコラムに記しています。

 夜、到着して駅前にあるビジネスホテルにチェックインすると、居酒屋を探して繁華街をぶらついた。幾筋か通りを歩き、探したが、これはと思える店が見つからない。 そのとき、通りの角に立っている客引きの若い男性に、「キャバクラをお探しですか?」と声を掛けられたということです。

 「いや、今夜キャバクラはいいんだけど、この近くにおいしい酒と肴にありつける店はないかな…」氏が訊き返すと、彼はちょっとびっくりしたような表情を見せたと氏は言います。

 その後、すぐに真剣に考えるような様子を見せ、「ここの次の角を曲がると、左側の建物に階段があって、その二階に居酒屋風の店があります」「ちょっとわかりにくいんだけど、お客さんにはそこがいいんじゃないかな。日本酒が揃ってるし。」…との話。

 「ありがとう、行ってみるよ」、「お気をつけて」…自分の仕事とは関係ないのに、実に気持のよい対応をしてくれる客引きだったと沢木氏は話しています。

 もちろん氏は、彼の言葉に従いその店に続く階段を上った。そしてその店で、閉店の間際までおいしい料理を食べ、珍しい酒を飲ませてもらえるという至福の時間を過ごしたということです。

 その際、店の主人とはカウンター越しにさまざまな話をしたが、中でも強く印象に残ったのはこんな会話だったと氏は振り返っています。

 「ここにこんな店があるなんて、旅行者にはわかりにくいから、地元の人じゃないと来るのは難しいでしょうね」…沢木氏がそう尋ねると、主人は軽く笑って「それが、最近の若い方は、食べログか何かのランキングでここを見つけて、グーグルマップに案内されていらっしゃるので問題ないんです」と答えたということです。

 どうやらこの店は、ネット上のグルメサイトではランキングの一位、二位を争う名店であるらしい。しかし、その話を聞いて、「あぁ、もったいないな」と思ったと沢木氏このコラムに綴っています。

 せっかく旅に出たのに、グルメサイトのランキングに従って食事どころを決めるというのではもったいなさすぎる。確かに、グルメサイトで調べた人と、キャバクラの客引きの男性の言葉を信じた私と、最終的には同じ店に入ることになるかもしれない。でも、もし私がグルメサイトで調べて訪ねていたら、その夜の幸福感はそこまで深くなかったような気がすると氏は話しています。

 知らない街を歩きまわり、自分の直観や経験を総動員し、時には偶然の出会いなどに助けられて一軒の店を発見する。そうした旅の仕方では失敗することも少なくないが、一方で、思いもよらない成功が待っていてくれたりもするということです。

 さらに、私が「もったいないな」と思うのは、意外な成功体験を味わえるかもしれない機会を逸するから…というだけではないと氏は言います。旅においても、他の多くのことのようにネットで調べてから行動を起こすというのは、失敗することを過剰に恐れる現代の若者の傾向に見合っているように思えるというのが氏の感覚です。

 人生において、たとえば就職や結婚といった大事に失敗したくないというのはわかる。一方、国内における短期の旅などというのは、ささやかな失敗をしても容易に回復できる数少ない機会であるだろうと氏はしています。

 氏がそこでもったいないと思うのは、失敗が許される機会に、失敗をする経験を逃してしまうこと。人は、失敗することで、大切なことを学ぶことができる。失敗に慣れておくこともできるし、失敗した後にどう気持を立て直すかの術を体得できたりもするということです。

 そういえば、実際に海外などを旅して私の強く記憶に残っているのも、道に迷ったり、間違ってちょっと怖い場所に足を踏み入れたり、騙されて偽物をつかまされたりした(笑い話のような)体験ばかりのような気がします。

 そうした体験や緊張感の中で思いもよらない出会いがあったり、周りの人の協力で何とか切り抜けたりしながら、自分だけの思い出を各地に刻んできたということなのでしょう。

 その土地ならではの楽しみもまたしかり。(思いもよらぬ)素敵な光景やおいしい食事、音楽などにたどり着けたのは、得てして目的もなく街をぶらぶらしていた時のような記憶があります。インターネットの発達に加え、個人が発信するSNSの一般化により情報過多なこの時代だからこそ、自分だけのパーソナルな経験がとても貴重になるのかもしれません。

 可能なかぎりネットに頼らず、自分の五感を研ぎ澄ませ、次の行動を選択すること。ただそれだけで、小さな旅もスリリングなものになり、結果として豊かで深いものになるはずなのだとこのコラムを結ぶ(旅のプロフェッショナルとしての)沢木氏の指摘を、私も大変興味深く読んだところです。

 



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