メディアで大きく取り上げられている中央官庁の障害者雇用数「水増し」問題に関連して、8月31日の「デイリー新潮」に、車イスに乗る障害者芸人として知られるホーキング青山氏の近著『考える障害者』(新潮新書)における(障害者の立場から見た)氏のかなり踏み込んだ意見が紹介されています。(「まずはオレを雇ってみろ!」 障害者数水増し問題でホーキング青山はこう考える)
障害者について論じる際に、とても大事だけれどもあまり触れられない問題がある。それは「お金」、税金の問題だと氏はこの論考で指摘しています。
障害者はこの国で生きていく上で、健常者よりも多くの税金で支えてもらっていると氏は言います。
資本主義の世界においては、突き詰めて考えると、平均的に生産性が低い障害者に多額の税金を使うことは「効率が悪い」とも言える。家にこもってしまいがちな障害者を街中に引っ張り出し、この社会で生かしていくには相当なお金が必要で、従ってこれは極めて効率の悪いやりかただということです。
実際のところ、障害者といっても、身体にのみ障害を持つ者もいれば知的な思考や判断ができない知的障害の人、なんらかの精神的な疾患がある精神障害の人もいる。
人それぞれで程度が異なり、重度だったり軽度だったりするわけで、これらの人たち全員が暮らしやすくなるためには果たしていくらあれば足りるのか。皆が分け隔てなく、社会に進出するのには、おそらく気が遠くなるほどの額が必要だろうと青山氏はしています。
「障害者も健常者と同じように社会に出て行ける環境を作るべきだ」と口にする人は多く、それに表だって反対する人はそうはいないけれど、「果たして障害者にいくら金を使っていいのか」という問題が議論される機会は少ないというのが、この問題に対する氏の認識です。
私も含め日本のほとんどの障害者は、はっきり言って税金のおかげでかなり助かっている。もっと言えば、これがなければ、私に限らず、おそらく日本ではほとんどの障害者は生きていくことができないだろうと氏は言います。
これは、より露悪的な表現をすれば、ほとんどの障害者は税金で生かすしかない生き物なのだということ。なぜかと言えば答えは簡単で、障害者が健常者同様働いて稼ぐことができる環境が今のところ実現していないし、するめども立っていないからだということです。
その一方で氏は、(生まれてきたからには)「普通の人が当たり前にやっていることだから自分もやってみたい」と思うのは「人情」というもので、多くの障害者が「自分も社会に出て普通に活動したい、働きたい」という感情を抱くのは(人として)もっともなことだとしています。
確かに「費用対効果」を考えれば、障害者が働ける環境を整えたり、健常者がやれる仕事をあえて障害者に譲ることで生産性が落ちたりすれば「パフォーマンス」は悪化するかもしれない。しかし、ここで大事なのは「働く」ということの意味だと思うと、この論考で青山氏は指摘しています。
「働く」ことの目的を単純にお金を稼ぐため、社会全体で見れば富を生み出すためだと考えれば「費用対効果」しか見る必要がなくなる。そうすると「パフォーマンス」が悪い障害者はかえって邪魔になり、働かない方がいいということになる。しかし問題は、人間の労働の目的をお金(や富)に限定していいのだろうかという点にあると氏はしています。
青山氏によれば、実は金銭的なことと同じかそれ以上に、「健常者と同じことがしてみたい」「社会との接点がほしい」「自分のやったことで誰かに喜んでほしい」といった切実な理由から働きたいと願う障害者は多いということです。そして、これが(まさしく)「自己肯定感」というものだと氏は言います。
「別に働かなくても健常者と同じようなことはできるし、社会との接点だってできるだろうに」と言う人もいるかもしれない。しかし、現実に社会的な接点をなかなか持てないまま何年、何十年と生きてきた多くの障害者からすれば、「だったらその接点とやらを提示してくれよ!」というのが本音だということです。
そういう意味で言えば、今回の「水増し事件」で、「『障害者を雇いたくない』って国と民間企業とで同じことを言っているのを聞かされている障害者はたまったもんじゃない」と青山氏は話しています。
なるほど障害者の立場に立ては、(障害者手帳を持っているというだけで)自分たちがまるで社会の「お荷物」のように言われるのは納得がいかないことでしょう。
翻って、一般に「健常者」と呼ばれている人達の中にも、仕事ができる人もいれば仕事ができない人もいるのが普通です。
仕事はできないけれどその人がいれば「職場が和む」という人もいれば、その人がいるだけで職場の雰囲気が悪くなる人もいる。中には、その人がいると(意味のない)仕事が増えるばかりという上司もあちこちの職場にいるのではないでしょうか。
もちろん、利益を出すには一定の決まりごとの下に動けるパフォーマンスも必要でしょうが、いろいろな人がいるのが社会だとすれば「職場」だってそれは同じことです。
そうした前提で「仕事」や「職場」を捉えられるだけの共通意識を私たち日本人が子供の時分から「常識」として育むことができれば、社会はきっと変わって来るのではないかと青山氏の意見から私も強く感じたところです。
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