MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯740 人は「平等な貧困」を受け入れられるのか

2017年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム


 2月11日の東京新聞に掲載された、東京大学名誉教授で認定NPO法人「ウィメンズ・アクション・ネットワーク」理事長を務める上野千鶴子氏へのインタビュー記事「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」が物議を醸しているようです。

 これからの日本では、泣いてもわめいても(もう)子どもは増えない。人口を維持するには社会増しかない。移民を受け入れて社会的不公正と抑圧と治安悪化に苦しむ国にするのか、難民を含めて外国人に門戸を閉ざしこのままゆっくり衰退していくのか、どちらかを選ばなくてはならない分岐点に立たされていると、上野氏は日本の社会の現状を説明しています。

 氏は、世界的な排外主義の波が押し寄せる中、単一民族神話が信じられてきた日本人が、移民の大量受け入れによる多文化共生に耐えられるはずはないと断じています。そこで、日本は「平和に衰退していく社会のモデル」として人口減少と衰退を引き受けていけばいいというのが、このインタビューにおける上野氏の主張の要諦です。

 一億人維持とか、国内総生産(GDP)600兆円とかの妄想は捨て、真摯に現実に向き合っていく。結果、日本の場合、みんな平等に緩やかに貧しくなっていけばいいという指摘です。

 上野氏のこうした考えに対し、ネット上では「自分達の世代だけ豊かさを謳歌しておいて、後の世代は貧しくてもいいというのか」などといった(若い世代からの怒りの)声が聞かれるほか、人口減少を補う処方箋としての「女性の社会参加」や「移民受け入れ」「雇用の流動化」などへの消極的な姿勢にも、批判の声が多く集まっているようです。

 また、「貧しさに慣れよ」「生活レベルを下げ、夢を捨てて生きていけ」とも聞こえる結論に、新しい社会のあり方を構想し努力していこうとする姿勢が感じられないとする意見もありました。

 上野氏はこのインタビュー記事において、結局、日本は国民負担率を増やし再分配機能を強化する、「社会民主主義的な方向」を目指す必要があるとしています。一方で、日本には本当の社会民主政党がない。そのためNPOなどの「協」セクターにこそ(最後の)希望が残されていると結論付けているところです。

 さて、少子化に伴う人口減少によって消費が低迷したり、結果として経済規模が総体として縮小したりすることは、(恐らく)避けられないことでしょう。しかし、そうした過程において、(上野氏が主張するように)個々人が納得できる「平等感」を感じることは本当にできるのでしょうか。

 2月27日のYahoo news には、一般社団法人officeドーナツトーク代表の田中俊英氏が、「上野千鶴子さんの『平等と貧困』~その美しさと偽善~」と題する興味深い論評を寄せています。

 田中氏は、今回の上野氏の主張には、(人々が炎上した原因とは別に)どことはいえない違和感を感じるとしています。その違和感の根は何処にあるのか?

 氏は、(そもそも)「貧困と平等は同じ地平(オーダー)で語れない感覚がある」と、その(違和感の)理由を説明しています。

 「豊かさ」や「貧しさ」はそれほど思考的に深い概念ではなく、むしろ社会学的あるいは経済学的あるいはジャーナリズム的概念のように思えると氏は言います。つまり「豊か」か「貧しい」かという判定は、こうした学問的基礎付けがあって初めて存在し得る概念なのではないかということです。

 一方、(こうした豊かさや貧しさと違って)「平等」という概念は、もう少し基本的で未来的な概念のように思えると田中氏はしています。「平等」は、不平等(差異がある)という状態があって初めて(将来に向けて)顕在化するものであり、その差異を埋めた状態を指す概念だということでしょう。

 いずれにしても、田中氏の指摘で重要な視点は、「豊かさ」や「貧しさ」が、実は「差異」という概念にかなり近いのではないかという指摘にあります。豊かさや貧しさ自体「差異」がもたらすものであり、「差異」とは豊かさや貧しさの根源的説明に当たるというものです。

 一方、田中氏は、一見「差異」の亜流のように見える「平等」は、(差異のような現実的な存在ではなく)そこからはかなり違い、「理想」というはるか先に設定されているものではないかと考えています。

 現代の社会では、平等への希求と欲望は「ポリティカル・コレクトネス」に収斂され、説得力を失っている。平等は誰も否定できないものの、すべての人を納得させることはできない。だからこそ平等は理想であり、いつでも希求しているもので、現実の「差異/貧しさ」とは次元が違う概念なのではないかというのが、この問題に対する田中氏の見解です。

 そうした認識を踏まえ、田中氏は、上野氏の主張に違和感を抱く人が多いのは「平等への安易な信頼」を人々がそこに感じ取っているからではないかと指摘しています。

 その安易さと、リアルな貧困への無知が人々を感情的な炎上に向かわせたのだろうが、その根本にあるのはもう少し根源的なこと。そもそも(次元の違う)「貧困/差異」と「平等/理想」を同時に論じることができる(上野氏のような世代や論客としての地位にある)「余裕」のある人々に対するルサンチマン(妬みやフラストレーション)なのではないだろうかと、田中氏はこの論評を結んでいます。

 「豊かさ/貧しさ」が「差異」の概念であるとすれば、その差異を(所与のものとして)受け止めたうえでの「平等」は本質的に成立しうるのか? もしかしたらこの命題に対する答えこそが、マルクス・レーニン主義の理想を体現しようとした共産主義国家の「挫折」の理由だったのかもしれません。

 「豊かさ/貧しさ」が差異がもたらす概念である以上、(結果として)平等という理想の下での「豊かさ」や「貧しさ」は多くの人には受け入れられないのではないかと考える田中氏の指摘を、そうした視点から私も大変興味深く受け止めたところです。



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