ミュージシャンの小室哲哉さん、歌手の小泉今日子さん、女優の斉藤由紀さんや高橋由美子さんなど、週刊誌を賑わす(いわゆる)「不倫ネタ」に、もう辟易している人も多いかも知れません。
そういう私も「他人ごとなんだからどうでもいいじゃん」と感じているひとりなのですが、メディアは(それが「仕事」なので)巷の耳目を惹きつけるネタとして放っておいてはくれないようです。
しかしそれにしても、こうして叩かれるのが分かっていて、人は何故「不倫」に走るのか?逆に言えば、(もともと)結婚などしなければこんなことにはならないとも思うのですが、ヒトはやっぱり(そうしたリスクを抱えてまでも)価値あるものを「独占したい」と考える生き物なのでしょう。
もとより結婚は、相手の行動を(貞操の観点から)制約する「相互契約」です。古来、一夫一婦制に基づく夫婦関係は破たんする機会が多かったからこそ、このような「契約」で(厳しく)縛ってきたとも考えられます。
また、そもそも「恋愛」という感情は、階級をはじめとする社会的属性や集団的な敵対関係などを超えた情緒的結びつきを可能にするというその一点で、社会秩序の維持に阻害的に働く性格を持っているとも考えられます。
近代社会は、こうした危なっかしい「恋愛感情」を(古くからある)「結婚制度」に組み込むことで、その「無害化」を図ってきたと言えるでしょう。それまで「別物」として考えられてきた「恋愛感情」と「結婚」を結びつけ、二人の「自己責任」の中に押し込んだということです。
しかし、そこに大きな矛盾が生まれたのも事実です。結婚が、恋愛感情があってはじめて成立するものとすれば、(当然ながら)恋愛感情がなくなることは「結婚」の基盤自体が破綻することを意味します。
二人をつなぐはずの(肝心の)恋愛感情は性的欲求などに強い影響を受け、なおかつ制度や社会に縛られない情緒的な側面が強いので、結婚の枠組みには(なかなか)収まりきらない。また、(許されない)二人の間に立ちはだかる社会的な障壁が高ければ高いほど、恋愛感情は盛り上がってしまったりもするものです。
さて、話は「不倫騒動」に戻ります。不倫をする人はする人として、それではなぜそんな他人事が「騒動」になるのか?
昔から、こうした有名人の恋愛ゴシップ情報が、社会の中で一定の「商品価値」を持ってきたのは事実です。古代ギリシャの神代の時代から平安時代の宮廷女流文学、江戸時代の「かわら版」まで、洋の東西を問わず(許されない関係の)男女の噂話に事欠くことはありません。
しかし特に最近では、ネット情報の広がりなどもあって、正義を振りかざし「不倫」という「不道徳」な行為を厳しく糾弾する声が大きく聞こえてくるのもまた事実と言えるかもしれません。
作家の橘玲(たちばな・あきら)氏は、「週刊プレイボーイ」誌への寄稿(2/26『ルールを脱したひとを罰することが大好きな「正義依存症」』)において、そもそも男であれ女であれ、ルールに違反した者を罰することは人に快感をもたらすと説明しています。
橘氏によれば、脳科学の実験では、裏切り者や嘘つきへの処罰が脳の快楽中枢を刺激し、ドーパミンなどの神経伝達物質が放出されることが判っているということです。
ドーパミンは「快楽ホルモン」と呼ばれ、与えられれば与えられるほど、「もっと欲しくなる」焦燥感を煽る機能を持っていると氏は言います。
アルコール依存症に罹るとひと口の酒でも大量のドーパミンが放出されるようになり、意識を失うまで泥酔してしまう。ギャンブル依存症の人は、「今日は1万円まで」と決めていても止められなくなり、気が付けば消費者金融に走っているということです。
「バッシング」に同じことが起きているとすれば、これは立派な「正義依存症」の病理だというのが橘氏の認識です
それでは、正義になぜ「中毒性」があるかと言えば、原始の時代から人は誰しもエゴイストで、放っておけば殺し合いにまで発展する可能性があるから。共同生活を成り立たせるためにはば、ルールに違反した者を罰することを脳に組み込んでおく必要があったからだということです。
ルールを破った者の共同体の中での序列を下げるためであれば、匿名で不愉快な相手を叩くこと自体は人間社会ではそれほど異例なものではないと橘氏は説明しています。
むしろ、現代社会における大きな問題は、インターネットやSNSといったテクノロジーが匿名でのバッシングをきわめて容易に、かつ効率的にしたことにある。その結果、ネット上には(次々と)「正義」という「快楽」を求める正義依存症の人々が徘徊するようになり、あちこちで炎上を起こすようになったというのが、現状に対する橘氏の見解です。
当然、欲求不満をエネルギーとするそんな「中毒患者」たちにとって、バッシングの対象は芸能人でも政治家でも週刊誌でも(いわゆる「権威」であれば)誰でもいいし、理由だって、不倫でも暴言でもセクハラでも何でもかまわないということでしょう。
実際のところ、本気で人様の家庭の「不倫」に本気で怒りを感じている人はそんなに多くはないのでしょうが、依存症の人が他人を引き摺り下ろして溜飲を下げる(不道徳の)ネタとしては、案外「丁度いい」身近さがあるということなのかも知れないと考えが及んだところです。
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