MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2249 国葬問題に関連して

2022年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム

 9月27日に予定されている安倍晋三元首相の「国葬」に要する費用の概算について、政府は9月6日、今年度予算の予備費から支出を決めているおよそ2億5000万円に警備費や外国要人の接遇費など14億円余りを加え、総額で16億6000万円程度となる見通しを示しました。

 もちろんこの発表に対し、日本共産党や立憲民主党をはじめとした野党各党は反発の声を強めています。立憲民主党の安住国対委員長は6日、「2億5千万円と言い張っていたのが、結果、(総額で)6.6倍に跳ね上がった」と指摘。費用がさらに今後増える可能性があるとして、予定される閉会中審査の前までにより踏み込んだ額を示すよう求める考えを示しました。

 また、前日の5日には、国葬に反対する市民グループなどが記者会見し、国葬の中止を求める署名が40万4258筆集まったことを明らかにしています。内閣府に提出するのを前に、上野千鶴子・東京大名誉教授ら市民グループのメンバーは「日に日に国葬反対の声が大きくなっている」と語ったということです。

 因みに、9月の2~4日にかけて読売新聞が行った世論調査によれば、岸田内閣が国葬の実施を決めたことについて、「評価しない」が過半の56%(8月5~7日調査では46%)を占め、「評価する」の38%(同49%)を逆転したとされています。

 さて、当の岸田文雄首相は、今回、異例ともいえる国葬実施を決めた理由として、憲政史上最長となる8年8カ月の長期政権であったことや、東日本大震災からの復興、アベノミクスをはじめとする経済再生、外交の展開などで実績を残したことを挙げています。

 しかし国民の間には、国葬そのものの法的根拠がないことや、多くの国費が費やされることを問題視する意見が多く聞かれます。さらに、安倍元首相が関与したとされる森友・加計学園問題、「桜を見る会」問題や旧統一教会との関係性などから、政治家安倍晋三への不信感を募らせてきた人々の存在も無視するわけにはいきません。

 とはいえ、(立場の違いから例え様々な評価があったとしても)安倍氏は10年近くの長期にわたって(適正な手続きを経た首相として)国民を率いてきたのもまた事実。意半ばにして凶弾に倒れた政治的リーダーに、国として弔意を示すことは国際的な習いからいえば(さほど)珍しいことではないような気もします。

 また、こうした機会に世界から要人を集め、外交交渉の貴重な機会を作ることで国際社会に寄与することができるのであれば、16億円という支出も十分ペイできるかもしれません。

 もとより、国民それぞれの政治的立場は違うもの。説明の言葉を重ねることせず、反対勢力に対してはかなりの強引さを示した(時に「右寄り」な)安倍氏の政治手法に、反感を募らせてきた人々の気持ちも理解できます。

 しかし、「国葬」はあくまで政府の行事として行うもの。一人ひとりの個人的な好き嫌いや内心の弔意は別にして、民主的な手続きに瑕疵がなければ、感情的にならずにひとつのセレモニーとして(それなりに)受け止めれば済むような気もします。

 9月4日に放送された情報番組「ビートたけしのTVタックル」での、お笑いコンビ「パックンマックン」のパトリック・ハーラン氏の安倍元首相の国葬に関する発言がSNS上で話題となっているとの話を聞きました。

 ハーラン氏は番組で、「国葬は安倍さんのためにやらなければ誰のためにやるのか。W学園問題(森友・加計)など解決されてない問題をそのままにしてしまったのはみっともないと思います。でも憲政史上最長の政権をなした総理大臣が暗殺された後に国葬やらないんだったら、いつやるんだろうと思います」と語っています。

 さらに、この問題が(旧)統一教会との関わりやテロが起こった原因究明との議論と相まって複雑化していることに対し、「統一教会が犯人側じゃないからね。みんなこんがらがっていることに違和感があります。暗殺したのは統一教会の人間じゃなくて、反統一教会の人間です」と話していました。

 私自身、この番組を見ていて、彼の発言を極めて「常識的」なものとして受け止めました。しかし、これに対しSNS上では「パックン、国葬ゲキ推し」「統一教会擁護!」といった書き込みが相次ぎ炎上状態に。ハーラン氏にも国内メディアからの取材が相次ぎ、その反応に困惑していると報道されています。

 もちろん、彼の発言の意図が別なところにあるのは言うまでもありません。今の日本における(国葬や統一教会に関する)議論には、式典制度としての「国葬」の明確な位置づけと、統一教会の問題に関する整理された議論が欠けている。そうした点を指摘したかったということでしょう。

 その人物の業績が国葬に値するかどうかはもとより、人柄が国葬に値するかどうかを、それぞれが主観に基づき感情的に議論していても満場一致の結論など出ようはずはありません。

 言論の自由を有する民主主義国家としては、賛成・反対の声があるのは当然のこと。国として執り行う儀式である限り、時の権力に左右されない客観的な基準を議論したうえで、クールにそして(ある意味)淡々と判断していくべき(極めて)儀礼的な事業と考えるのですが果たしていかがでしょうか。

 



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