MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2685 最期くらいは静かに逝きたい

2024年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 9月15日は「敬老の日」。高齢化が一気に進んでいるこの日本では高齢者は(ともすれば)「社会のお荷物」のように言われがちですが、せめて1年に一日くらいは、子供や孫から敬われたりしたいものです。

 そのためにも必要なのは、なるべく現役世代に迷惑をかけずに健康に生きていくこと。「ピンピンコロリ」などという言葉もあるように、死ぬ直前まで元気で過ごし、病気で苦しんだり介護を受けたりすることがないまま、寿を全うできればそれに越したことはありません。

 それでは、今のお年寄りたちは一体何歳ぐらいまで、日常生活に制限のない状態で生活できているのか。その目安となる「健康寿命」(健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間)を見てみると、直近の2019年時点で男性が72.68歳、女性が75.38歳。日本人の2020年の平均寿命が男性が81.64歳、女性が87.74歳なので、健康寿命と平均寿命との間には、男性で約9年、女性で約12年の差があることがわかります。

 この差は、病気などを抱える(いわば)「不健康期間」と解釈でき、要介護になったり、寝たきりになったりしながら命をつないで生きている期間が10年近くあるのが、平均的な日本人の「死に様」ということになるのかもしれません。

 それでも、だれもが死ぬ時くらいは人生に満足を感じながら、苦しむことなく安らかな心持ちで最期を迎えたいと願うもの。人工呼吸器や透析器のチューブに繋がれ辛く苦しい思いをしながら、それでも長生きしたいと思う人はそんなに多くはないことでしょう。

 望ましい最期を迎える人と、好ましくない亡くなり方をする人のちがいは、どこにあるか。9月17日の総合情報サイト「現代ビジネス」が、医師で作家の久坂部羊氏による『せっかく穏やかな「死」を迎えた78歳女性を、わざわざ「蘇生」させるために行われた「非人間的な医療行為」』と題する論考を掲載しているので、参考までにその一部を残しておきたいと思います。

 日本では「死に目に会う」ことを、欠くべからざる重大事と受け止めている人が多い。特に親の死に目に会うのは子として当然の義務、最後の親孝行のように言われたりもするが、(感情論はともかく)その実態はどのようなものかと、氏は医師として紹介しています。

 深夜、心肺停止でだれにも看取られずに亡くなりかけていた高齢の親を見事に蘇生させ、家族が死に目に会うことを実現させてくれたと(当直医氏の対応を)感謝する遺族は多い。たしかに家族は喜んだかもしれない。しかし、亡くなった患者本人はいったいどのような心境だったろうと、氏はその冒頭に綴っています。

 心肺停止の蘇生処置がどういうものか具体的に知らない人が多いので、こうした話は美談のように受け取られがち。しかし、医療の実態を知る身としては、なんという無茶なことをと呆れるほかないというのが氏がこの論考で指摘するところです。

 蘇生処置とはどのようなものか。まず、人工呼吸のための気管内挿管は、喉頭鏡というステンレスの付きの器具を口に突っ込み、舌をどけ、喉頭を持ち上げて、口から人差し指ほどのチューブを気管に挿入するもの。意識がない状態でも、反射でむせるうえ、喉頭を持ち上げる際に前歯がてこの支点になって折れることもままあると氏は言います。

 そのあとのカウンターショックは、裸の胸に電極を当てて、電流を流すもので、往々にして皮膚に火傷を引き起こす。心臓マッサージも、本格的にやれば、肋骨や胸骨を骨折させる危険性が高く、高齢者の場合、骨折は一本や二本ではすまないということです。

 太いチューブを差し込んで機械で息をさせ、火傷を起こし、ときには皮膚に焼け跡をつける電気ショックを与え、肋骨や胸骨がバキバキ折れる心臓マッサージをしてまで家族が死に目に会えるようにすることが、果たして人の道に沿ったものなのか。

 医師がなぜそんなことをする(場合がある)のかと言えば、言わばアリバイ作りのため。何もしないで静かに看取ると、遺族の中には「あの病院は何もしてくれなかった」とか「最後は医者に見捨てられた」などと、よからぬ噂を立てる人がいるからだと氏は説明しています。

 看護師が巡回したら、心肺停止になっていましたなどと告げれば、遺族によっては「気づいたら死んでいたというのか。病院はいったい何をやっていたんだ」と、激昂する人も出かねない。死に対して医療は無力なのに世間の人はそう思っていないので、医者はベストを尽くすフリをせざるを得ない場面も多いということです。

 それが患者さん本人にとって、どれほどのつらい思いを与えていることか。死を受け入れたくない気持ちはわかるが、何としても死に目に会うとか、最後の最後まで医療に死を押しとどめてもらおうとか思っていると、死にゆく人を穏やかに見送ることはとても難しくなると氏はしています。

 確かに以前、私の父親の入院先の病院で、夜中に(静かに)息を引き取った老親を前に、当直の若い医師に向かって「看護師は何をやっていたんだ」「病院に親を見殺しにされた」と激高している人を見たことがあります。

 親が死んで驚き、やり場のない悲しみをどこかにぶつけたい遺族の気持ちは判らないではありませんが、医師も周囲の入院患者も、そして亡くなった患者本人もそれはそれでいい迷惑。いくら怒っても生き返るわけではないのだから、「十分頑張った」と落ち着いて受けとめる胆力も時に必要なのかもしれません。

 色々あった人生も、最後くらいは静かに逝きたいもの。少なくとも自分の親族には、私に万一のことがあった場合には、静かに穏やかに逝けるよう無理せず送り出してほしいと、しっかり伝えておきたいと思った次第です。



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