この夏の中国関係の大きなニュースに、劉暁波の訃報があった。周知のように、劉氏は2010年のノーベル平和賞を受賞したが、獄中にあって授賞式に出席できず、そのまま解放されることなく亡くなってしまったのだ。
劉曉波は、文化大革命が終わって様々な言論が活気づいた1980年代にさっそうと登場し、「黒馬(ダークホース)」と呼ばれた若手評論家だった。89年春の民主化運動の際、滞在先の米国から戻って運動に参加し、政府が戒厳令を敷くとハンストで抗議した。戦車が天安門広場に向かった6月4日未明には、当局と交渉して、学生を説得して広場から退去させた「四君子」と呼ばれた4人の若手知識人の一人である。(誤解されることが多いが、このような経緯で、天安門広場では軍が進入してきた時には学生は退去していたので、虐殺はなかった。多くの殺戮があったのは、その途上である。)
その後、運動に参加した多くの人々が国外に逃れる中で、劉曉波は中国に留まり、何度か逮捕拘留・労働教養を経験しながら民主化運動を続けた。中国の批判的知識人は、一般に新左派と新自由主義派とに大別されるが、劉曉波は全面的な西欧的近代化を唱える新自由主義派の代表の一人だった。その主張には全面的に賛成しなくても、国内で言論活動を続ける劉氏の態度に敬服する人は少なくなかったと思われる。
21世紀に入って、中国が経済発展の軌道に乗り暮らしが豊かになりつつあった2008年12月、劉曉波ら303人の知識人は、人権の保障・憲政の実現などを訴える「零八憲章」をネット上で発表し、多くの賛同者を得た。しかしこれを警戒した当局は起草者の中心であった劉氏を逮捕し、裁判の結果、国家政権転覆扇動罪による懲役11年の判決を受けて服役することになった。ノーベル賞が授けられたのはその年のことだった。
あの頃、中国政府はまだ「零八憲章」のような言説を大っぴらに容認はしなくても、2004年に修正された憲法には人権の語も明記されたし、徐々に社会に自由が広がっているように思えた。裁判の際の劉暁波の「私には敵はいない」と題された最後の陳述も、「中国の政治の進歩は止められない。監獄の看守たちの態度も以前よりずっと人間的になった。私は将来の中国が、人権を至上とする法治国家になることを期待する」と将来への期待を述べていた。私なども、2020年に彼が出獄する頃には、中国はより自由で民主的な社会に近づいているのではないかと、期待していた。
しかし習近平政権になってから、事態は明白に逆の方向に向かい、締め付けが厳しくなった。この夏の上海出張中にも、あちこちでそのような兆候が感じられた。たとえば、答案館(文書館)での資料調査に、中国の研究機関からの紹介状が必要になっていたし、社会科学院では門番が訪ねてくる人を誰何して名前や用件の登録を求めていた(所内の友人と約束している、というと書かずに済んだが)。いずれも社会主義時代には普通だったが、いつからか--たぶん世紀の変わり目の頃に--なくなっていたものだ。これらは上からの指示に従ってやっている形を整えているもので、研究自体を明白に制限しているものではない。とはいえ、面倒くさく鬱陶しいことは間違いなく、政権はそのようにして管理と統制の力を見せつけることに意義を感じているのだろう。現地の歴史研究者の友人は、研究することにはあまり問題なくても、「微妙」な点にふれる内容のものを発表するのは難しくなっている、という。
豊かになれば社会は自由になるとは限らないことを、しみじみ感じざるをえない昨今の中国である。
(写真は、ノーベル賞授賞式の座る人のいない劉暁波の椅子)
劉曉波は、文化大革命が終わって様々な言論が活気づいた1980年代にさっそうと登場し、「黒馬(ダークホース)」と呼ばれた若手評論家だった。89年春の民主化運動の際、滞在先の米国から戻って運動に参加し、政府が戒厳令を敷くとハンストで抗議した。戦車が天安門広場に向かった6月4日未明には、当局と交渉して、学生を説得して広場から退去させた「四君子」と呼ばれた4人の若手知識人の一人である。(誤解されることが多いが、このような経緯で、天安門広場では軍が進入してきた時には学生は退去していたので、虐殺はなかった。多くの殺戮があったのは、その途上である。)
その後、運動に参加した多くの人々が国外に逃れる中で、劉曉波は中国に留まり、何度か逮捕拘留・労働教養を経験しながら民主化運動を続けた。中国の批判的知識人は、一般に新左派と新自由主義派とに大別されるが、劉曉波は全面的な西欧的近代化を唱える新自由主義派の代表の一人だった。その主張には全面的に賛成しなくても、国内で言論活動を続ける劉氏の態度に敬服する人は少なくなかったと思われる。
21世紀に入って、中国が経済発展の軌道に乗り暮らしが豊かになりつつあった2008年12月、劉曉波ら303人の知識人は、人権の保障・憲政の実現などを訴える「零八憲章」をネット上で発表し、多くの賛同者を得た。しかしこれを警戒した当局は起草者の中心であった劉氏を逮捕し、裁判の結果、国家政権転覆扇動罪による懲役11年の判決を受けて服役することになった。ノーベル賞が授けられたのはその年のことだった。
あの頃、中国政府はまだ「零八憲章」のような言説を大っぴらに容認はしなくても、2004年に修正された憲法には人権の語も明記されたし、徐々に社会に自由が広がっているように思えた。裁判の際の劉暁波の「私には敵はいない」と題された最後の陳述も、「中国の政治の進歩は止められない。監獄の看守たちの態度も以前よりずっと人間的になった。私は将来の中国が、人権を至上とする法治国家になることを期待する」と将来への期待を述べていた。私なども、2020年に彼が出獄する頃には、中国はより自由で民主的な社会に近づいているのではないかと、期待していた。
しかし習近平政権になってから、事態は明白に逆の方向に向かい、締め付けが厳しくなった。この夏の上海出張中にも、あちこちでそのような兆候が感じられた。たとえば、答案館(文書館)での資料調査に、中国の研究機関からの紹介状が必要になっていたし、社会科学院では門番が訪ねてくる人を誰何して名前や用件の登録を求めていた(所内の友人と約束している、というと書かずに済んだが)。いずれも社会主義時代には普通だったが、いつからか--たぶん世紀の変わり目の頃に--なくなっていたものだ。これらは上からの指示に従ってやっている形を整えているもので、研究自体を明白に制限しているものではない。とはいえ、面倒くさく鬱陶しいことは間違いなく、政権はそのようにして管理と統制の力を見せつけることに意義を感じているのだろう。現地の歴史研究者の友人は、研究することにはあまり問題なくても、「微妙」な点にふれる内容のものを発表するのは難しくなっている、という。
豊かになれば社会は自由になるとは限らないことを、しみじみ感じざるをえない昨今の中国である。
(写真は、ノーベル賞授賞式の座る人のいない劉暁波の椅子)